選んだもの
「どこで間違えたんだろうな」
静かな戦場に言葉は沁みる。随分と変わり果ててしまった少年を前にして、少年の伴侶にかつての迷いはもう見えない。いつかの諦めではない。次に願いを込めているわけでもない。純粋に、ただひたすらに、彼女は――神崎美咲は覚悟を決めていた。
それを知っているからこそ、黒崎颯人はそんな言葉を漏らしたのだろう。変わり果ててしまった自身の幼い手を見つめ、さらには伴侶の変わりようを見て、こんなにも悲しそうな言葉を口にしたに違いない。
幾たびも見てきた世界の終わりの最中に、よもや自分達が争うことになろうとは思いもしなかったと言わんばかりに、颯人は哀愁を披露する。
けれど、心中は少しだけ異なっていた。
「初めから、だよ。私たちは何も望んじゃいけなかっただけ。そうでしょ?」
「そうかな。いや、そうだな。俺たちは望みすぎた。あれもこれもと、無理なものを背負いすぎたんだ。でもな。俺はそれを間違いだとは思わねぇよ」
およそ初めての完全な対立だった。これまでも意見の相違で多少のいざこざはあったが、ここまで意見が食い違うことは初めてのことだった。
だからか。颯人の中では、この状況を少しだけ楽しんでいる節があった。その証拠に、颯人の口元は確かに笑みを浮かべている。
不老不死にとって、時間とは=強さだ。死んだ回数とは=復活速度に直結する。世界を渡るという世界矛盾を持つ颯人にとって、不老不死であった時間とは地球が生まれるよりも長く、死んだ回数などもはや数字にすら表せない。
不老不死の強さというものが時間と死んだ回数であるのなら、颯人はまさしく最強という分類において、頂点に至る存在である。
しかしながら、世界を救うという目的の片手間に戦いを楽しむ颯人にとって、自分より強い相手あるいは同等と呼べる相手は御門恭介という存在を除けば長く出会えていなかった。
単純に言葉にすれば、颯人は飢えている。心が躍るほどの、世界を救うという無理難題を忘れさせてくれるような戦いを欲しているのだ。
そして、それを与えられる存在は、颯人が考える以上、世界にたった一人しか存在しない。
「俺が信じたあいつが正しいか、お前が信じたあいつが正しいか。それを決めるのは当人たちだ。そこに、俺たちが介入するのは筋違いだぜ、美咲?」
「だから、邪魔をするの?」
「邪魔とは侵害だな。これは子供の大学選びみたいなものさ。俺は御門恭介を勧めて、お前は幽王を勧めた。ただそれだけだ。そして、どちらを選ぶかは地球に住む人間が決めるだけだ。言うなれば、これは単なる夫婦喧嘩。よくある日常の一部でしかないだろうがよ」
そんなに簡単な話ではないはずだが、颯人にとってはその程度のものでしかないのかもしれない。もしも、今の発言を御門恭介が聞いていれば卒倒しかけただろうが、颯人という人間をよく知る美咲は分からず屋と小さく愚痴る。
荒ぶる気性は背に生える片翼の炎がポーカーフェイスを許さない。熱量は上がり、一帯の温度を著しく上げていく。
砂漠よりも熱い空気を吸い込み、嫁を見つめた少年は笑う。
「さあ、時間稼ぎだ。さっさと俺を倒さないと、お前の大好きな息子が大嫌いな息子にコロがされちまうぞ?」
「私はどっちも大好きだよ!」
野生の猛獣がごとく体のバネを生かした素早い移動と、鋭い手腕の突きが颯人の首を狙う。不老不死同士の戦いは基本的に頭を切り落とすことが先決であるというセオリー通りの動きだ。
颯人と美咲及び由美にとって頭を切り落とす行為は、およそ一分程度の時間稼ぎでしかないが、美咲にとってはその一分が勝負の分かれ目になる。逆を言えば、美咲にとって御門恭介は一分もあれば容易に無力化できるという意味だ。
もちろん、そういう動きをしてくることは颯人には分かりきっているものでもある。
「おいおい性急すぎやしないか?」
「いつだって君は正しかった。いつだって私は間違えた。それでも、今日だけは、この瞬間だけは譲れない! 私は、私の命に賭けて、使命に準じて、いつかの願望に誓って……左翼の龍姫は最後の姫を――否定する!!!!」
その実、狙いは頭だけではなかった。颯人が御門恭介にそうであったように、美咲も幽王に全てを賭けていた。それはつまり、この世界が終点でも構わないという思い。
己が全てをここに置いていく覚悟だ。
炎が散る。火の粉が地面を焦がしていく。背にあった炎はいつの間にか美咲の体の左半分を全て飲み込んでいた。さらに、右半分は肌がひび割れ、まるで鱗のように広がっていく。頭には左右二本ずつのツノが生え、背には朽ちかけた翼が両翼揃っている。
世界矛盾の完全解消。左半分を極彩色の炎が包み込んだ、異形の龍となりて、彼女は願望のために前進を続ける。
「バカだなー、お前は」
「いいんだね? きっと、救えないと思うよ?」
「構わねぇよ。俺もあいつも、生きすぎた。あとはあいつらに任せるのもいいだろ。なにせ俺とあいつの子供たちだ。失敗はない。心配もない。ただ、そうだな。もう一度、美咲を抱いておけばよかったって後悔するくらいだな」
ようやく口を開いた由美の目はわずかに影を浮かべていた。
笑う少年の頬を撫で、その覚悟が変わらないことを再度確認するが、揺るぎない思いに肩を落とす。
頷き、左右に首を振り、何かを振り落とすかのようにしてから前を向く。
「行ってらっしゃい」
「じゃあな。今度はもうついてくるなよ?」
別れの挨拶を済ませた颯人の首に再び龍の爪が伸びる。先程よりも早く、先程よりも鋭い龍の爪が。
だが、それは颯人には届かない。伸ばされた手を掴み、変わり果てた妻を見つめて、颯人は微笑んだ。純白の羽根が舞う。少年の姿が徐々に成長し、およそ三十代の男性の体躯に変わる。五組の翼を背に象らせたその身姿は、まさしく天使。
完全に攻撃を防がれた異形の龍を見ながら、颯人は小さくつぶやいた。
「矛盾・完全解消――」





