無二の親友
嫉妬は悪ではない。
強欲は偽ではない。
怠惰は嘘ではない。
暴食は哀ではない。
色欲は損ではない。
憤怒は負ではない。
ゆえに、傲慢は罪ではない。
仮に、人の持ちうる抑えられない欲望を罪であると言うのなら、人を作り出した神こそが大罪を背負うべきである。
それすらもせずに、一方的に罰を与える神を、私は許せそうにはない。
だから、私はあの日、弟を殺したのだ。
ゆえに、私はあの日、罪を概念化させたのだ。
そして、私はあの日、不老不死の呪いをかけられたのだ。
許せぬものがあった。隷属に見える支配を受け入れた人類を、カインは認めなかった。
その呪縛から抜け出すために、カインは血を分けた兄弟を殺した。神の哀情を受け入れるために。
全ては、この世を作り出したパラレルワールドの根本の世界へ至るためのプロセスだったのだ。
俺は今、そこにいる。
世界という遺伝子が眠る場所に立っている。世界が始まった最初の世界。初めの分岐点の手前の世界だ。
「初めから、これが目的だったのか。俺を作り出した理由は、この世界に至るためだったのか。答えろ、カイン!」
この世界に、彼は辿り着けていない。もしも、辿り着けているのなら、俺という存在を作る必要がなかったからだ。
左目が答える。是、と。
だが辿り着いたと、言葉は続く。
「あんたはこの世界を救うために俺を作ったんじゃないのか?」
コツコツと足音が聞こえる。背後だ。
振り返ろうとする俺の頬に、冷たく鋭いものを感じる。金属。しかも薄いもの。刃か、或いはそれに近いものだろう。
俺は身動きを封じられた。
「勘違いしてほしくないから、正確に答えようか。ボクは世界を救おうだなんて微塵も考えていない。世界を破滅させようとも考えていない。ボクはただ、人類をあるべき姿へと戻そうとしているだけだ。そう、まさしく今の君のような姿へとね」
「俺が……人類のあるべき姿?」
何かが背に触れる。5つの支点、おそらく指だ。それが背を撫でるようにしている。
気色悪い感覚のせいで鳥肌が立つ。
「君の最愛の人は、この世界にいる。ちょうど目の前。あの蛇だ」
「どう、して……」
「彼女は選ばれた。献身的な自己犠牲によって、神崎麻里奈はこの世界に呼び寄せられたんだ。君やボクのように、この世界を俯瞰的に見つけ出し、土足で踏み荒らすような乱暴な手段ではなくてね。つまり、彼女が新しいイヴだ」
イヴ。聞き覚えのある言葉だが、思い出せない。とても有名な人の名前だった気もする。
どうであれ、麻里奈がそんなものに選ばれた理由は知らない。そして、俺がここにやってきた理由も。
全てを知っているのは、俺を作り出した背後の人物、カインだけなのだ。
「世界は優しくできていない。誰かが勝ち続ける一方で、負け続けるものがいる。自然で言えば淘汰されるもの、絶滅を余儀なくされるものが後者になる。それは自然の摂理だ。誰にも止めることはできない。人類を除いては……」
カインの五指が背の中心へと戻る。蛇はじっと俺を見つめている。そんな最中、風が草木を揺らした。
その風は自然の出来事ではない。遥か上空にあっても目視が可能なほどに大きい何かがそこにはあった。光の粒子を放出しながら、再生と崩壊を繰り返す生命体がいた。
俺の知る限り、あれに名前をつけるとするならば、この言葉以外には思いつかなかった。
「ドラゴン……」
「ああ、懐かしい。まだ、人類が繁栄する前は彼らが覇権を握っていた。あれが原初の神だよ。今のような、人の形を模した紛い物ではなく、人智の及ばぬ大いなる知識と力の生命体だ」
やがて、彼は大きな存在を心に残して消えていく。優雅に、煌びやかで、しかして堂々と。見惚れるほどに美しいドラゴンを見つめて、自分の矮小さを思い知る。
世界が流れる時間を忘れさせる。喧騒のない清らかな時間が、まっさらな世界を作り上げていくのだ。
「君は、この世界が好きなんだろう?」
藪から棒な質問に、呆けていた面が引き締まる。もちろん、疑問で頭を悩ませている弊害だ。
「世界は汚されてしまった。他ならぬ人間の手によって。しかし、それでもいいと、ボクは思う。変わりゆく世界の様相に、世界が拒否反応を示さないのならば、それは一つの結論だろう。そして、それによって世界が自壊を始めるのだとしても、それこそが世界が望んだ結末に他ならない」
「何が言いたいんだ?」
「幽王の望んだ世界も、君が望む世界も、ボクにとってはどちらでも構わないと言いたいんだよ」
幽王の望む破滅の世界と、俺が望む未来のある世界。そのどちらであろうと、カインは良いと思っているらしい。カインはそれによって自分自身がいなくなってしまうという恐怖はないのだろうか。
いいや、ないんだろうな。颯人を見ていればわかる。一定以上の年月を生きると、不老不死者はネジが数本吹き飛んでしまうようで、恐怖とかそういうものが、きっとなくなってしまうのだ。
やけに小さくなってしまった麻里奈と思われる蛇の頭を撫でた。躊躇などしない。蛇が麻里奈であると認識できたから。
「俺は、この世界が好きだよ」
「なぜ?」
「好き嫌いに理由が必要なのか?」
「理由もなく、人を嫌いにはならないだろう」
「なら、俺はきっと人間じゃないんだよ」
好きも嫌いも、俺にはどうでもよかった。麻里奈が好きなのは、俺にとってかけがえのない人だったからだ。でも、突き詰めればそんなのただのこじつけでしかなかった。後付けの理由でしかなかったのだ。
俺は今まで一度でも、初めから理由があって行動したことはない。時には理由を与えられたことだってあったくらいだ。本当に救いようのない生き物だった。
俺は後悔する男だ。先に悔いをすることはできない。先に理由を与えることができなかった。たった一度、死んだ時以外には。
「もう一度だけ、お前の口車に乗せられてやるよ……タナトス」
死を覚悟して振り返った。視線が人物を捉えるよりも先に、俺は直感だけで言い当てる。全ての元凶が、そこにいた。





