旅行者
何も考えずに走り出していた。
誰にも告げずに駆け出していたのだ。
よく覚えている。昔、麻里奈に何度も謝られたから。今日は神社に用があると遊ぶ約束を断られたことがあったのだから。
神埼家の所有する神社が燃えている。街の住人は何事かと窓から外をのぞき込み、道路に出てきて眺めていた。その中を、俺は無性に走っていた。ただまっすぐに、麻里奈のいると思われる神社に向かってひたすらに。
襲われるのは俺のはずだ。俺でなければならないはずだったんだ。なのにどうして……。
まだ神様によって神社が燃やされたとは決まっていない。何かの事故で……そう、例えばガス管が爆発したとか、そういう在りがちな事故の可能性だって残っている。
だのに、嫌な予感が止まらない。まるで、もう神様が麻里奈を襲うことが決まっていたかのような、そんな感覚――あるいは予知に近いもの。
とにかく、あの爆発はただの爆発ではないという確信めいたものを感じた。
「――麻里奈!!」
神社の階段を駆け上がり、炎の光で目を焼かれながら、境内にたどり着くなり叫んだ。
祭りや初詣などで幾度も来たことのある場所。見慣れたはずの場所は、燃え盛る本能寺のように猛々しく在る。
境内には神埼家の関係者と思われる人たちが倒れこんでいた。ただ、そこに麻里奈の姿はない。まさか、まだ神社の中に……? 自分の体がもう不死身でないことなど忘れて、今すぐにでも燃える社に飛び込もうとした俺の手を誰かが掴む。
すると、そこには……。
「お兄さん?」
幼い少女の声が聞こえた。その声に導かれるように振り返ると、煤で汚れてはいるが、大きな怪我はなさそうな様子の麻里奈が驚いたような、不思議そうな顔で俺を見つめていた。
「ま、麻里奈!? 大丈夫だったのか……」
「う、うん。それより、どうしてお兄さんが……?」
「どうしてって、そりゃあ――――」
そりゃあ……なんと続ければいい? 君を心配してとでも言えばいいのか。それを言えればどれだけいいだろう。俺は君を守るために俺を殺しに来た未来人なんだと、幼い麻里奈に言えたなら、どれだけ俺は自分を満足させられることか。
だが、言えない。
麻里奈を守る。それはこの時代の麻里奈であって、俺の帰るべき場所にいたはずの麻里奈ではないから。
もしも、俺の正体を言ってしまえば、元の目的を達成してしまえば、俺は俺を救えない。きっと、本当の意味で麻里奈を救うこともできないのかもしれない。
言葉を詰まらせていると、さらに声が聞こえる。
「小僧!! ちょうどいいところにやってきたものだな!!」
怒声のような響きにビクリと麻里奈が震えるのを見た。麻里奈が恐怖する人など、おおよそ数えられるくらいしかいない。まして、聞き覚えのある声の人物など一人しか思い当たらない。
神埼麻里奈の祖母。神埼紅覇だ。
振り向き、紅覇の姿を捉える。何やら、戦闘中のようだ。
剣戟の音。人類最強と謳われる神埼紅覇とやり合えるものが人であるはずもない。ということは……。
「逃げろ、婆さん!! そいつは神だ!!」
「そんなこと言われぬでもわかる! だからこそ、丁度いいと言ったのだ!!」
「ちょうどいいって!?」
「小僧、そこらに倒れている者たちを連れて逃げろ!」
逃げろって……。
じゃあ、神様は誰が相手をするというのだ。
決まっている。
神埼紅覇。世界最強の人類が、たった一人で神様と戦おうと言った。その宣言だった。
無謀だ。未来で若返った神埼紅覇なら、あるいは出来たかもしれない。だが、今は違う。しかも、その神様は未来で、一度は神崎紅覇が颯人と共に敗北を期した相手でもある。万に一回の勝機はない。
それがわからない人ではないはずだ。
だったらなぜ、など。言えるはずもない。
俺だってそうする。もしも、同じ立場になったなら、嫌でも俺はそうしただろう。
誰かがやらなければいけない。そして、それを出来るかもしれない自分がいるなら、迷わずそうする。それが俺の目標としていた人の生き方だった。
だからこそ、背後で不安そうに見つめる少女に振り返り、小さく告げた。
「もうすぐ、俺の友達――――妹が来る。君はその人と一緒に逃げるんだ」
「で、でも――」
「とりあえず、倒れている人たちに声を掛けて、安否の確認をして、出来る限り遠くへ行くんだよ?」
「ま、待ってよ」
待たない。
一度手放してしまった命を拾うために。
この子を助けることで、何かが変わるわけじゃないことくらいわかっている。それでも、贖罪にはなるだろう。少なくとも、俺は俺が目指した人の道に戻ることが出来るはずだ。何より、ケジメになる。この子を救って、俺はもう一度、化け物になろう。
やるべきことを伝え、俺は立ち上がる。そして、あからさまに異形の姿をした影に押されている神埼紅覇に近づき、弾くように退けた。
息を呑むような驚きの声と同時に、俺の腹に大きく太い牙のような棘が貫通した。
「こ、小僧……何を!?」
「あんたが逃げろよ、婆さん。その老体に、神様の相手は辛いだろ?」
痛みがない。あまりのことに痛覚が麻痺しているらしい。だが好都合だ。これで、少しでも長く戦える。
人並みにまで下がった回復力と、凡庸な力でどこまでやれるかはわからない。ともすれば、ただ殴られるだけかもしれない。それでも、今こうして前に立つことがスタートラインだ。
そうやって鼓舞するように思い、腹を貫かれながらも足を進める。
数歩前に出てようやく影の全容が目に映る。
右腕を大きな狼の顔に変えた蒼白の人体。こいつが、“旅行者”ローズル。
相手も俺だと気がついて、ニンマリ顔になる。そうして、不思議そうでもなく、むしろあり得た可能性の一つであるというふうにありながら、あえて告げる。
「おんやぁ?? これはこれは……運命とは、しかして神にも予想できませぬなぁ」





