恒河沙の覇獣姫
瞬時に姿を消したことから颯人が《右翼の天使》を使って一秒の定義を引き伸ばし、そこを移動していったのは明白だ。残された麻里奈、クロエ、エルシーはすぐにでも追いかけたかったが、それの邪魔をするのは颯人の義姉、黒崎由美となぜかこの場にいる白犬と呼ばれた少女。
ただし、白犬と呼ばれた少女は非常にやる気が感じられない。
「由美……颯人くんがどこに行ったのか教えて」
「やだよ。頼まれたからには、私はあなた達をここから移動させる気はない」
ニコリと申し訳無さそうに笑う由美を見て、麻里奈は沸々と湧き出す怒りをどうしようもできないでいた。冷静に考えれば、由美と戦って勝てる可能性は微塵もない。なぜなら彼女はまだ一度だって本気を見せたことのない不老不死者で。麻里奈に戦闘の手ほどきをした人物でもあったから。
しかし、麻里奈のすべてを形作ったのが由美であるというわけではない。基礎を造った人が、必ずしも今の麻里奈を創ったわけではないのだ。
少し見ない間に背の縮んだ麻里奈に気がついた由美は、少しだけ警戒を強めた。
けれど、余裕を忘れず会話を続けた。
「随分と可愛らしくなっちゃったけど。何かしたの?」
「ちょっとね。私が神様と親和性が強いって知ってるよね?」
「うん。だからカンナカムイとの婚約も叶った。神降ろしの巫女としての素質が…………あぁ、なるほど」
悟った。というよりは理解したような返事だ。
その実、由美は理解していた。その内訳、七割。今の会話のみで、由美は七割正解を導き当てた。
その知識量といい、理解力といい、麻里奈はやはり由美が苦手であった。昔から――――無論麻里奈が小さい頃の話だが、麻里奈が考えうるすべての行動を由美は先読みし、先回りし、出鼻を挫いてきた。なので、麻里奈は由美についてあまりいい思い出がない。
今回もまた、麻里奈が行ったことを理解された。それはつまり、対応策がすでにいくつか出来上がっていると考えなければならないということにほかならない。
「彼に力をもらったんだね。ハヤちゃんが縛神高校に席を置いていた本当の理由。この世の遍く悪の発端である“名無しの邪神”に。無茶するなぁ。どんな犠牲を払ったの? お姉ちゃんに教えてごらん?」
今まで見たことのない妖艶な笑み。ふとすればそれは悪への誘い。
麻里奈の背が小さくなった理由。これは恭介も知っていることだ――もちろん理解はできなかったが。
そもそもの発端として、颯人が麻里奈の通っていた高校にいる理由がわからなかった。そして、神崎家の当主であった神埼紅覇が理事長を務めなければならなかった本当の理由が。
それはほとんど奇跡に近い気が付きだった。当主へと代替わりしたことを期に本家の掃除をしている時に、麻里奈はそれを見つけた。颯人が高校へ通う理由、さらには神崎紅覇が理事長をする理由を。
――――縛神高校とは、神を縛り付ける聖なる場所である。
神の力を弱めるでもなく、増長させるでもない。ただ縛り付けるために最適の場所。その場所に建てられた高校は、いわば牢獄結界。
高校が度重なる大きな戦いに耐え抜いたのもこれが原因である。神を縛り付けるために強固に建てられた校舎はたとえ核爆弾であっても無傷の仕様になっていた。
世界を救う颯人が定期的に様子を見に来なければならないほどの存在。すなわち、世界の終わりを助長するそれは、神様である。そして、麻里奈は神を虜にする神降ろしの巫女の素質を持つ神崎紅覇を越える“最強の人間”たる資格を持つ者である。
で、あるならば。
――――自分であれば、その存在と契約できるのではないか?
そう結論づけるのもうなずけるだろう。
また、麻里奈の行動力は凄まじいものだ。どこにいるともしれないその存在を、素質をフル活用して見つけ出した。さらには、常人では不可能である難問を解き明かし、“名無しの邪神”足り得るそれから力を享受した。その代償は――。
「代償は年齢が幼くなること。力を使えばっていう一過性のものじゃなくて、契約したその瞬間のみに生じる一度きりの代償。そして、享受した力は――」
辺りの気温が数度下がる。気象操作をしたわけではない。それは麻里奈の背から這い出てきた。
黒い霧、否。浅黒い触手、否。意思を持つ墨、否。
気体とも、固体とも、液体とも違うそれは不定形の何か。ただし、それが一個の存在――謂うなれば、究極にして絶対的な単一種であることだけはこの場にいる誰もがわかった。
その存在を知る由美がここに来て焦ったように微笑んで告げた。
「あらら……本気、麻里奈ちゃん? それ、“名無しの邪神”の一部だよね」
「ちょっと違うかな。これは――」
ズズズズ、と。
完全な形として這い出たそれを見て、由美は今度こそ理解した。
麻里奈が享受した力は、“名無しの邪神”そのもの。つまるところ、麻里奈が行ったこととは――。
「自分を扉としてあの学校からの外出を許可……? 嘘でしょ……」
「私はね。もう、きょーちゃんを一人で戦わせないって決めたの。そのためなら、人間であることだって捨てられる。おかしいよね」
笑っているが目はどこまでも本気だった。
麻里奈は“名無しの邪神”の力を扱うために、自身の体を高校に霊的パスを用いてつないだのだ。
流石に手に負えないと思ったらしい由美は、隣で未だにやる気を見せない白犬と呼ばれた少女に云う。
「シロちゃん。アオちゃんとクロちゃんをお願いできる?」
「…………それはいいのじゃ。じゃが、負けても文句は言わないでほしいのじゃ。して、あの身の毛も弥立つ存在をどうにかできるのじゃ?」
ふるふると身震いした白犬の問に、由美は笑みで返す。
「私、ハヤちゃんより強いんだよね」
「それで?」
「あの程度どうってことないよ」
謂った由美から醸す空気が変わる。
完全に優位に立っていたはずの麻里奈が困ったように微笑んで弱音を口にする。勝てそうにないと。
しかし、由美を倒さなければ恭介のところへは行けない。無理を承知でもやらねばならない。何より、一度出してしまった“名無しの邪神”を静かに帰らせるには一度戦わなくてはならなかった。
どう攻めるべきか、攻めあぐねていた麻里奈を前に、由美は平然と歩き始めた。足を引こうにも、体が前へ進み始めた“名無しの邪神”に引っ張られて止まれない。
由美の隣にいた白犬も、この世ならざる力を開放すべく聖句を紡ぐ。
「矛盾解消――――遍くを塗り潰せ《恒河沙の覇獣姫》」
さすがはというべきか。
世界矛盾を力として昇華し終えた白犬は人型の嵌合体へと体が変化していた。
七重に畝る漆黒の角を二本生やし、頭は馬の如き伸びた鬣を有する狼。
胴はクリムゾンレッドの強固な鱗を幾重にも完備した邪竜が如き。
翼の代わりに実に数百匹にも及ぶ白蛇が鋭い視線を向ける。
両手は肥大し、甲には日本刀をも思わせる五本の鉤爪と青白い電気を帯びた体毛の凶悪な白い猿の手。
両足は必要以上の筋肉が九割を占める瞬発力に長けた山羊の足。
尾は九本にも分かれ、それぞれが撫でられるだけでも怪我を負いそうなほどに太い。
冗談でも“姫”には見えないその姿のまま、狼の口は案外可愛らしい声が出る。
「あまり見ないでほしいのじゃ。朕はこう見えても、この姿を気に入ってはいないのじゃ」
そして、見られることを嫌がった白犬の世界矛盾の能力とは――。
「まずい、白犬の能力は他者との空白を塗りつぶす!! クロエ避けなさい!!」
「え――?」
瞬時にして白犬がクロエの目の前に移動し、一撫ですれば成人男性の体が簡単に粉々になってしまうほどに肥大した猿の手がクロエへ向かう。
クロエは避けれない。今のクロエは死なないだけの無能力者。クロミがいなければ能力の片鱗すら見せられない弱き者。能力を発動した白犬から逃れるなど、できるはずもない。
――――誰かの手を借りなければ。
あと数センチ。時間にしてゼロコンマゼロゼロゼロ一秒に満たない僅かな間。家が二つほど建てられる空き地を埋め尽くすほどの刀が降り注いだ。しかも、麻里奈、クロエ、エルシーを避けて。
白犬は能力を使って、由美は降り注ぐ刀を指と指の間で挟み込むようにして掴み取って、それぞれ刀の雨を凌いだ。
「おい。――おいおいおい、…………おいおいおいおいおいおい。オレの娘に手を出すたぁいい度胸じゃねぇかい。えぇえ、色薔薇の三女」
「《放蕩の剣星》が出張るなんて朕――聞いてないのじゃ…………」
クロエの窮地に現れたのは非常に不機嫌そうな顔の少年。黒痘の魔女の育ての親にして“人類史の祖”第弐拾壱席にある《放蕩の剣星》。怒れる親――――天國。
その横には奈留、イヴ、レオ、クロミ。さらには麻里奈の守護神たるカンナカムイがいた。
「そんなに死にてぇなら、オレと殺り合おうや。なぁ、色薔薇の三女。それとも手前が相手をするかい、黒崎由美――いや、それとも本名で呼ばれてぇか?」
「ふふっ…………殺されたいの、ガキ?」
おそらく、この場に常人が踏み入れば、一瞬にして吐き出してしまうほどの濃厚な殺意のぶつかり合い。辛うじて人間である麻里奈でさえ、苦笑いで数歩引き下がってしまいそうになる。
天國の挑発をもって一旦の膠着を起こすが、次の瞬間――――億を越える刀と京を越える刀がぶつかり合い、忍び寄る不定形の邪神と白いキマイラが存在を交わす。
無論。空き地の周りにあった住宅は木っ端微塵に吹き飛んだが、この場にはいない黒崎実と穂のどこで学んだかわからない人払いの結界の効果によってけが人は奇跡的に一人もいなかった。





