夕暮れの教室
夕暮れに沈む教室。ドラマや漫画のように綺麗なオレンジではないものの、それなりにオレンジに染まる一部屋で、一人の少女は密かに胸を高鳴らせていた。
教室には二人。女と男。安心院奈々美と――――御門恭介。
二人の仲は最悪だ。少なくとも御門恭介はそう思っているだろう。なにせ、出会い頭に安心院奈々美にお説教を喰らい、なおかつ社会不適合者のように扱われたのだから。
しかしながら、それから数日の間に安心院奈々美の中で御門恭介の評価が変わっているなど思いもしない。
「全く。先輩は全く」
「……いや確かに勉強を教えてくれとは言ったけどさ。ちょっとハードすぎやしませんか?」
成績はあまりよろしくないと前生徒会長である神埼麻里奈から笑い話にように聞かされていた。けれど、よもや高三になってまだ高校二年の内容が理解できていないなどとは思わなかった。
そして、急に御門恭介から勉強を教えてくれと言われるとも思ってはいなかった。
ことの始まりは、今日の午前中。
世界の終わりを目にした安心院奈々美は三日連続で体調確認という名目の下、学校の保健室にやってきていた。そうして、こちらも普通ではないと伝えられた養護教諭である望月静香に診てもらい、経過観察を続ける旨を伝えられた。
確かに、あの日以来、少しばかり思い詰めることが多くなった気もしていたが、それらの原因はおそらく分かっている。
こうして春休みのルーティンをクリアしようとしていると、不意に目の前に泣きべそをかいた御門恭介が現れたのだ。
なぜ、泣きべそをかいているのかと問うと、やれ現実逃避をしにやってきたと言い。ついでに勉強でもしようかと思ったのだと言った。
これと言ってやることもなく、そして胸の痛みを感じた安心院奈々美は、それならと教室を借りて今に至る。
勉強を始めてすでに四時間が経過しようとしていた。
二年生の科目を総なめしてきたので、進捗はあまり良くはない。加えて言うなら、胸の痛みもかすかに増している。
だのに、真面目に取り組む御門恭介を見て、安心院奈々美は言葉にならない想いを馳せていた。
「だから、ここはこの公式に代入するんですよ」
「あー……もう一回教えてくんね? えっと、この公式がこの時に使って……」
「で、こっちの公式がこの場合に使うんです。さっきの問題はXとYの二つがあるのでこの公式を使わなくちゃいけないんですよ」
「あー……? うん。まるでわからんな」
教え方は上手くはないが下手でもない。人並み以上の努力をしているし、それなりの成績も出している。
だから、理解できないのはきっと御門恭介のせいだ。
いつもなら、理解できない人を見るとイラつく安心院奈々美だが、今日はなぜか微笑んでいた。
問題とにらめっこしたまま困っている御門恭介の顔を横目で眺めながら、少しだけかわいいなと思いつつ。安心院奈々美は微笑んでいたのだ。
きっと、御門恭介だけが特別なのだ。
きっと、御門恭介だから許せるのだ。
そして、そんなことを考えている自分は、おそらく……。
「なあ、安心院。ここなんだけどさ……」
「奈々美でいいですよ」
「え? いや、でも名前呼ばれるの嫌なんじゃないのか?」
「別に名前を呼ばれるのが嫌なわけじゃないです。ちゃん付けやくん付けされるのが嫌なだけです」
「そうなのか……じゃあ、奈々美。これ教えてくんね?」
「はいはい。どこですか……はぁ、全く恭介先輩は、私がいないとホントだめなんですね」
それは言っちゃいけないだろ、という目で見てくるが、反論できない御門恭介が苦笑しながら頬を掻く。
元後輩に勉強を教えてもらう元先輩である御門恭介に威厳など微塵もない。格好良くなどさして感じない。けれどいいのだ。いいと思えてしまったのだ。
だからきっと、これは安心院奈々美の敗北なのだ。
たぶん、御門恭介は気がついていないだろう。
安心院奈々美が御門恭介を横目で追っていることを。
安心院奈々美が御門恭介を思って胸を痛めていることを。
安心院奈々美が御門恭介の呼び方を柔らかくしたことを。
気が付かれなくてもいい。御門恭介の隣りにいるべきなのは、絶対に自分ではないから。
唯一、安心院奈々美が望むことと言えば……。
「ほら、恭介先輩。ここまで終わらせちゃいましょう。そうすれば明日には半分くらいは回れますよ」
「お、おう…………知ってたけど、奈々美って結構スパルタなのな」
「恭介先輩にだけですよ」
「それは喜ぶべきなのか……?」
「もちろん。この私が手ずから教えるなんてそうそう無いことなんですから」
困る御門恭介と声を出して笑う安心院奈々美。二人の声が誰もいない教室に響く。
唯一、安心院奈々美が望むこと、それはこのダメダメな先輩と少しでも一緒に居られる時間が欲しかった。
生徒の下校時間まであと一時間はある。それだけあれば目標の場所まで勉強が進むはずだ。
だからあと少しだけ、と。
安心院奈々美は仄かに赤くなった頬を夕日のせいだと言い聞かせて、苦笑する御門恭介を困らせるのだった。





