なにもない世界
目を覚ます。あるいは意識を起こすと、俺は見知った場所に居た。
辺りが白い殺風景な場所。十中八九精神世界だと悟ると、そこにいるであろう主に呼びかける。
「どこだ。カオス」
しかし、返事がない。さすがにおかしいと思って、数度呼びかけるがやっぱり返事がない。しかも、どこか様子が変に感じられた。言うなれば、親しんだ場所なのに、来たことがない場所のような感覚だろう。
ここは誰の精神世界だ?
見回す俺の視界に一つの影が降りる。燕尾服を着込み、軽い物腰の人物は数回目にした漆黒の仮面を付けていた。
見間違えようもない。幽王その人だろう。
警戒する俺を前に、幽王はなれた手付きで虚空から椅子を手繰り寄せてそこに座る。
「ここは……お前の精神世界か?」
「そうとも言えるが、そうでないとも言える。ここは現世と幽世の狭間だ。お前らの言うところの幽霊が住まう場所とでも言えばわかるか」
「どうなってるんだ……俺は……確か……あれ……?」
違和感が拭えない。同時に俺の額に汗が流れる。
思い出せないのだ。気を失う前に俺が何をやったのか。そして、俺がどうなってしまったのか。
最後に覚えているのは……そう、あれはカオスとの修行と対話だ。いや、待て。カオスの顔が思い出せない。それだけじゃない。対話の内容もうる覚えだ。
焦る俺を前にして、幽王は足を組んで無感想な言葉を吐き捨てた。
「無様だな」
「んだと?」
「見たところ、記憶が曖昧になってるようだが? それもそうだろうな。貴様は覚えていないかもしれないだろうが、あんな無茶な力の使い方をすればどう足掻いてもその程度の代償は持っていかれるに決まっている」
「どういうことだ。お前、なんで俺が知らないことを……」
「見ていたからに決まっているだろう。お前は黒崎美咲の権能である終末の炎を消し去るために。文字通りすべてを擲って持てる力のあらん限りを尽くして対処した。顛末としては終末の炎は押し返せたが、同時にお前は自分の記憶の大部分に致命的なダメージを負った。これがおそらく今のお前に起きている全てだ」
俺が美咲さんと戦った。その事実にどうも俺の思考が追いつけなかった。
どうして。なぜ。そんな言葉が頭の中で巡る。呆然と立ち尽くす俺を終始見続けていた幽王だったが、呆れたように座りを直す。
「どうして空は青いのか。この問は覚えているか」
「あ、ああ……お前が俺に投げかけた問だった、よな」
「その答えは出たか」
「………………」
「出るわけがないか。仕方ない。俺から答えを言うのはあまりにも虚しいが、愚鈍なお前のためにも教えてやろう。どうして空は青いのか。その答えは世界がそう望んだからだ」
またわけのわからないことを言い出した。覚えている限りでは、幽王はたしかその答えが出れば俺がやっていることがどれだけ意味のないことかわかると言っていたような気がする。
しかし、答えが下された今でも、なお俺にはその意味が伝わらない。
一体何が言いたかったのか。そして、どうして俺のやっていることが虚しいのか。何よりなんでこいつはそんなことを知っているのか。気になることはたくさんあるけれど、幽王の言葉が質問を許さない。
「世界なんてのはな。救おうとしなくとも、勝手に救われるんだよ。人類をすべて排除するという方法で勝手にな。そして、黒崎颯人と黒崎美咲はその方法に気がついている。気がついているからこそ、二人は難儀する」
どうしてそこで二人の名前が出てくるんだ。
それ以前に、世界が人類をすべて排除することで自分自身を救うってどういうことだ。
それじゃあまるで……世界が壊れるのは人類のせいみたいじゃないか。
「世界を救うには愛する人を失わなければならない。愛する人を守るには世界を殺さなければならない。二人はこの矛盾を最初の世界で獲得した。そして同時に人間をやめた。二人の本当の世界矛盾は《終わりの出発点》。世界と愛する人が救われる夢のような世界を見つけるまで転生し続けるというものだ」
「……んなことがあっていいのか……じゃあ、二人は……」
「救われない。報われない。針穴にロープをねじ込むように、欲張りすぎた二人は終わらない地獄へ落とされた。ただ一度の人生で満足していれば、あるいはこんなことにはならなかったかもしれないのにな」
それは違う。好きな人とずっと一緒にいたいと願うことが間違いなはずがない。颯人の想いを、美咲さんの愛情を、そんな当たり前な言葉で安々と貶していいはずがないないんだ。
でもどうしてだ。なんで言い返せないんだ。違うんだ。幽王の言葉が正しくなんて無い。だってそれは諦めたってことになっちまうじゃないか。それはダメなはずなんだ……。
喉元で押さえつけられた言葉は、すぐに引っ込んでしまう。
否定したい気持ちと、それを押さえつける感情がぶつかり合っている。そうして何も言えない俺に幽王は最後の言葉だと言わんばかりに威圧を掛けた。
「これは忠告だ。お前はもう何もするな。どうせ何をしても誰かを悲しませるだけなら、黙って終わりを受け入れろ」
話は以上だ。そう幽王は告げるだけ告げて立ち上がる。俺の答えなど知ったことではないということだろう。
しかし、俺は最後の一言だけには言い返すことが出来た。いや、言い返さなければならないと思ったのだ。
「それだけは出来ない。出来ないんだ」
「…………なぜだ。どうしてお前はそう頑なに無駄なことを積み重ねる。もう気がついているんだろう。自分の行動が意味のなさないことだということを。世界の終わりと他人を守ることは相反することだということを。それなのになぜ……」
「俺が御門恭介だからだ。きっと、俺の考えは間違いなんだろう。俺の行動は俺の真の意志じゃないのかもしれない。そうだとしても、俺が愛した人の正義は美しかった。憧れたんだ。そんな世界を思い描けるその心が羨ましかった。だから俺は分不相応にも走ったんだ。ここまで駆けてきたはずなんだ」
そう。
だから俺は幽王の最後の言葉にだけは否定せざるを得ない。認めてしまえば、黙認してしまえば、俺はその美しい正義に醜い悪の烙印を押してしまうことになる。それだけは出来なかった。
俺が俺であるために、今まで俺が走ってきた道のりを否定させるわけにはいかない。幽王の正論は痛く心をえぐっていく。一つ一つ俺のやってきたことが無意味の残像だと認めさせようとしていた。それでも、俺は……。
だが、全てを知っているかのように幽王は仮面の下で、勝ち誇るような息遣いで一つだけ問うてきた。
「じゃあ、聞くが。お前、その愛する人の顔と名前が思い浮かぶのか?」
もちろん。思い出せる。思い出せるはずだ。だって、俺はその人のために走ったんだから。
けれど、現実はそうではなかった。事実としての記憶が存在していても、守った人の顔を、救おうとした人の名前を思い出すことが出来なかった。
頭が割れるように痛いのを我慢しながら、それでも思い出せない人のことを思い出そうとする。
そんなことがあっていいはずがない。大切な人だったはずだ。愛する人だったはずだ。なのに、何一つ思い出せないなんてことが、あっていいはずがないじゃないか。
「お前は、一体誰を守ろうとしたんだろうな」
幽王が踵を返す。膝を突き、両手で頭を押さえる俺にもう視線は向けられない。ただ一つ、溢れるような言葉だけが真に何もなくなった世界で薄く浸透していく。





