6 はじめまして、アサミさん
「音大?」
休日の家のダイニング。私は両親と三人でテーブルについていた。母さんが目を丸くする。
「あんた、音大に行きたいってこと?」
「別に音大じゃなくてもいいけど、音楽に関係したことがしたい」
私は気持ちを抑えて言った。自分でも何を言ってるのだろうと思う。
「それって……今から行けるものなの? お金もかかるのよね?」
私はうなずいた。父さんが腕を組む。
「まあ、音楽に関係することなら、楽器屋さんでもいいわけだし、言っちゃえば音楽を処理するソフトウェアでもいいわけだから」
「私は、麻美がどこに行ってもいいけど、それがちゃんとした進路で、ちゃんと将来食べていくのに困らないものなら」
母さんは眉をひそめる。母さんの「どこに行ってもいい」は、おそらくめちゃくちゃ制限がある。心配してくれているのかもしれないけど、私にはそれがプレッシャーになる。
「いろいろ調べたけど、まずは留年して、いろいろ挑戦したい。それがダメだったら、現実的な仕事も探す。もちろん音大出たからって仕事が保障されてるわけじゃないから、それも考えてる」
「麻美にとっては、行きたいところなんだな?」
私はうなずいた。自分の希望の進路を示すのは、これが最初で最後になるかもしれない。あとは自分の責任、自分で何とかするしかない。
「音楽のためだったら生きていける」
私は最近集めたパンフレットやウェブページの資料を両親に見せた。父さんはうなずいた。
「少し母さんと話し合うよ」
***
「マキ、あんた楽譜は読めるの?」
私はリビングでマキに尋ねた。マキは掃除の手をとめる。
〈どうでしょうか〉
「ちょっとあんたに教えたいのよ」
マキの記憶から私がいなくなってしまうのは嫌だし、何か教えてあげたかった。もちろん彼女は家事やいろんなことを経験したのだけど、私は何もマキに教えてあげていない。
マキはピアノ椅子に座って、両手を鍵盤の上に置く。私は楽譜を指さす。
「これ弾ける?」
〈――難しいです〉
マキの手はぴくりとも動かない。私は譜面をなぞっていった。
「これが四分音符、これが八分音符。この音符がドで、ドの鍵盤はここ」
私が指をさしてマキのカメラに映るように教える。だけど、マキは首を横に振る。
〈むずかしいです〉
私は手で顔を覆った。何か無謀なことをやろうとしている気がする。
次の日、恥ずかしいけど、同じクラスの小山内に声をかけた。マキのことを色々聞いてきたあの男子だ。彼は自分の席で、本を顔に押しつけるようにSF小説を読んでいた。
「俺に聞くより、杉内さんのお父さんに聞いたほうがいいと思うけど」
それができれば苦労はしない。なにか頑張ってるのを見られるのは好きじゃないし、何より、これが無謀だと言われるのがとてもこわい。
「うーん、ふつう家事とかってあらかじめプログラムされてるから、たぶん何回も実験して試行錯誤してるんじゃないの。だからもともと覚えてない動きは、基本的に無理だと思う」
彼は顔を机につけたまま言った。相変わらず腹の立つやつだ。だけど、ロボットに関して詳しいのは間違いないから仕方がない。
「録画かなんかの機能があればいいんじゃないかなぁ。杉内さんの動きそっくりに動けばって、もう楽譜を理解させるんじゃなくて、動きで覚えるって感じで」
私は頷いた。小山内は、練習風景を見学したいと主張したが、断った。私の部屋には絶対に入れたくない。今後もし父さんから、ロボットの資料がもらえたら、彼に譲ってやってもいいかもしれない。
家に帰ってさっそくマキに提案する。
「マキ、私の指の動き覚えられる?」
〈できます。五秒間だけトレースができます〉
うげ、と私は顔をしかめる。私は立ったまま、最初の十秒ぐらいを弾いて、マキに真似をさせた。彼女は驚くほど正確に最初の小節を弾いた。
ここまではよかったのだけれど、最初の五秒間から次の五秒間へ、動きをスムーズに移行させるのには骨が折れた。なまじ動きが滑らかなので、継ぎ目のぎこちなさがものすごく目立つ。こわれたラジコンのような動きをするマキを見ると、ストレスだった。失敗しても失敗しても、彼女は平然としている。
私は何回チャイコフスキーを弾きなおしたかわからない。同じフレーズを何回も弾きすぎて、起きているときも寝ているときも、頭の中で繰り返し流れた。
五日間、私の部屋ではとぎれとぎれのチャイコフスキーが流れ続けた。とうとうマキが一分間を完璧に弾けるようになったときは、私は喜ぶ元気がなくてベッドに寝そべった。
途中で何度、挫折しかけたことか。こんなに疲れるとわかっていたら、やろうとはしなかったと断言できる。
私が小さくガッツポーズをしてみせても、マキは無表情だった。〈お疲れさまです〉と言っただけで、なんだか私だけ喜んでいる気がする。
その日の夕食のあと、テレビを見ていた父さんに声をかけた。
「マキに、ピアノ教えたんだけど」
父さんは最初、何を言っているか理解できないような顔になった。驚く顔の父さんを自室に連れてきて、マキの演奏を聞かせた。父さんはマキの手元と楽譜を交互に見て、動きを確かめるように指を触った。
「最近聞こえてたのはこれだったんだ。これアサミが教えたの?」
まあそう、と私は答える。
「すごいじゃん。これたぶん、担当者に見せたら相当驚くよ」
あまり見たことがない、興奮した様子で父さんは言った。父さんは部屋を出て、キッチンにいた母さんを呼んだ。騒ぎを聞いた哲平まで部屋にやってくる。マキはみんなの前でもういちど演奏した。たぶんさっきと同じなのだろうけど、少しだけ演奏の強弱がはっきりしていた気がした。
「これアサミが教えたんだって」
「へえ、すごいじゃん。もともとなかった機能なんでしょ?」
意外にも母さんまで感心する。いろいろな家事をマキに教えて、教えることが難しいとわかっているのだろうか。
母さんが「どうして教えたの」と聞いてきて、別に、と私は答えようとした。そこで私はふいに、目的を思い出した
「ねえ、マキが私たちのこと忘れるって本当なの」
父さんは目をぱっと開いて、
「え、ああ……まあ、いつかはそうなるかもしれないね」
と答えた。こんなこと、聞くつもりはなかった。
「それって、なんとかならないの?」
何がなんとかならないのか、自分でもよくわかっていなかった。本当はマキにずっといてほしかった。だめだ。マキのことは、忘れないといけないのに。もうロボットに頼りすぎちゃだめだ。私は人と生きていかないといけないんだから。
どうしてこんなにマキに執着するのか、わからない。きっとそれはマキがロボットだからだ。人との別れなら、またどこかで会えるかもしれないし、その人が元気に生きていればそれでいいと思う。けどマキは、自分で動けない。私がいないと、と心のどこかで思っているのだろうか。
沈黙が一瞬だけ流れて、私はすぐに首を振った。我慢することには慣れていた。いや、もうそれはくせみたいなもので、私はすぐにわがままを引っ込めてしまうのだ。
「別に私のことはどうでもいいけど、マキはちゃんと使われるんだよね。物置の奥に捨てられたりしないよね」
「まあ、されないと思うよ。作った人たちはちゃんとマキのことを大事に思ってるし、ちゃんと丁寧に扱うと思う。
いや、本当はどうかわからないけどね、研究者だから、マキはロボットだと割り切ってるかもしれない。研究や実験のためのロボットと思っているかもしれない。けど、ちゃんと父さんたちの生活のことは報告するし、麻美のこともちゃんと報告する」
私は歯をくいしばった。安心したいけど、そこまでだ。私にできることはきっとここまでだった。マキと一緒にいたいと思っても、私の力はきっとここまでだ。母さんが口をはさむ。
「なんなら、マキの研究が終わったらもらっちゃうことできないの?」
「うーん、どうかな、結構お金かかってるけど、聞いてみようか」
「いい。そこまでしなくて」
私は首を振った。私はマキに甘えてばかりだ。離れないといけない。けど、離れたくない。
哲平がでっかい袋を持って、マキに手渡した。
「はい、プレゼント」
一週間後の、お別れのパーティ。プレゼントは、マキに合いそうな浅緑のワンピースにした。前に父さんが、ロボット研究者は男性が多いので、マキの服選びに苦労していると言っていた。
ありがとうございます、とマキは頭を下げた。そういえば、私は彼女がはっきりと笑ったところを一度も見たことがない。自然な表情をつくるのが難しいんだと思う。
ダイニングのテーブルにはデリバリーのピザやシャンメリーなどが並べられている。当然マキは何も食べられないので、雰囲気だ。
私たちが食事をしていると、マキは椅子の上で喋りはじめた。
〈実はときどき、製作者の方々から、私の発話を送ってもらっていました〉
マキは顔を上下左右に細かく動かして話す。確かに人らしいと言えば人らしいけど、まだわざと動いている、という感じだ。
〈今回も、どういう言葉が一番良いのか、わかりませんでした。多くの動画で「お別れのあいさつ」を学習しましたが、どれも適当でない言葉になりました。よって、私は製作者に言葉をつくってもらいました〉
父さんと母さんは手を止めてマキの話を聞いている。哲平は忙しそうに油のついた指をなめる。
〈一ヶ月、お世話になりました。聡史さんには多くのサポートをいただきました。京子さんには丁寧に家事を教えてもらいました。哲平くんにはとても親しく接してもらい、私は退屈になることはありませんでした〉
〈アサミさんからは、いろいろなことを学びました。ピアノを教えてくださって、ありがとうございます。皆さんのことは、いつか記憶から消えてしまうかもしれませんが、私の後継機が、皆さんから得られた知識を元にして、生まれます。またそこで生まれた知見を利用して、別のロボットが生まれます。そうしてつながっていきます。少しだけ、あなたたちの記憶に私を居させてください。私はそれだけで十分です〉
父さんが軽く拍手した。母さんと哲平がそれに合わせて手を叩く。私は動かずにじっとしていた。
「なんか、違和感なかったな。さすが製作者だなあ。いつかロボットが自分の言葉で言ってくれればいいんだけど」
「そうなったら怖いわよ」
父さんと母さんはのんきに笑っている。私はテーブルをはさんで、正面にいるマキに向かって言った。
「あんたの気もちは?」
マキは私を見つめた。小首をかしげる。
「あんたの気もちはどうなの」
〈私の気持ち、とは〉
「あんたの考えたことでいい。今までで印象に残った気持ちでいい」
マキはしばらく考えた。
〈アサミさんは、意外と幼いですね〉
「なによそれ」
マキは首を振った。私はそれ以上聞かないことにした。
たぶん、マキがこの家からいなくなるとき、つまり車で連れて行かれるときは、きっと私は立ち会わないと思う。出会った時と同じように、彼女は突然いなくなっている。
そのうちマキの事なんて、思い出のひとつになって、昔あんなロボットもいたよねなんて話してしまうかもしれない。それは絶対にいやだった。思い出したくないから、マキ以外のヒューマノイドはおそらく、もう見ない。買おうともしない。マキのことだってもう話はしない。悔しいけど、逆説的に彼女の記憶は、私の中で残り続ける。おそらくずっと。
(終)