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3 謝ることは良いことです


 結局、塾はしばらく休むことになった。母さんがそんなことを許すわけがないので、おそらく父さんと相談したのだろう。父さんは基本的に私を放っている。わけのわからないところでうっとうしいけど、わけのわからないところで物分かりがいい。大学教員だから、学校や受験の大変さを知っているのかもしれない。

 堂々と塾を休めることになったので、放課後に彼氏の佑介と遊ぼうと思ったけれど、彼は用事があるとかでさっさと帰ってしまった。さすがに彼も受験が近づいてきたから、まじめに塾に通うようになったのかもしれない。勉強せず進路すら決まっていない私とは付き合わないほうがいいかもしれない。

 ひまになった私は放課後、学校のすぐそばの河川敷を歩いた。九月の夕方はまだ暑い。だけど、木陰の階段にすわると涼しい風が吹いてくる。

 校舎からパート練習の音が聞こえてくる。ブラスバンドを聞いても、前よりはストレスを感じなくなっていた。結局、塾に行かなくなったのも、進路に疑問を持つようになったのも、部活を中途はんぱに辞めてしまったからだと思う。いま冷静に楽器の音を聞いて、感じることはある。

 どうしていまの自分は、楽器に触れてないのだろう。私は音楽が好きなんだろうか。

「珍しいじゃん」

 声をかけられて振り向くと、トランペットを持った美佐子がいた。個人練習はだいたい教室の中か、外に出ても学校の敷地の中だ。ここまで歩いて来る子はいない。

 私はとっさに話題を考えたけれど、ありきたりなことしか思いつかなかった。

「練習は順調?」

「あんまり。後輩どもは情けないわ。あんただったら、ここで聞いててわかるんじゃない」

「さあ」

 美佐子が突然つぶやいた。

「で、いつまでそうやってんの」

 私は一瞬なんのことかわからなかったけど、体は正直で、心臓が鳴った。

「あんたもしかして、まだあのこと気にしてんの。自分が演奏でまちがえたからって、被害者みたいな顔されるのはこまるのよ」

 美佐子は座っている私の正面に立って、両手を腰に当てる。

「正直言って、あんたが間違えようがどうしようが、あのコンクールの結果は変わらなかったと思う。まああんたが間違えたときは本気で腹立ったしバーカと思ったけど、悲劇のヒロインみたいになられたらうっとうしいしね、勝手に背負われても気持ち悪いのよ。なんかこっちが追い出したみたいでうっとうしいわ。

 しかも、今あんたが抜けて困るっていう後輩もいるわけ。一応あんたは実力もあって、まとめ役だったとか言って、あんたがいないともの足りない、って言うやつがさあ。あたしはハァ? って思うし信じられないけど、だから余計にウロウロされたら困るわけ」

 美佐子は一気にそこまで言って、結局なにを言いたいのか自分でもわからなくなったらしく、いったん呼吸を止めて吐き出した。

「要するに、いつまでもウダウダされると困るし、うっとうしいのよ。部活に入り直すならそれでもいいわよ。あたしは嫌だけど。踏ん切りつけたいならちゃんとそうして。わかる?」

 私は唇をかんだ。こんなにストレートに言われたことは今まで一度もなかった。彼女はおそろしく嫌なやつで、おそろしく正しい子だった。彼女は圧倒的に正しかった。私は美佐子の目を見ずに一度頷き、肯定の意を表すためにもういちど頷いた。言葉は出なかった。

 美佐子は言いたいことを言えたらしく、トランペットを片手に校舎に戻っていった。


 私は学校から帰ったあと、家で過ごすことにした。さすがに美佐子にああ言われて、校舎の周りをうろついたりはできない。私は部活のことを引きずってるのだろうか。たぶんそうなんだと思う。ただこの後悔をどうやって断ち切ればいいのか、方法がわからない。

 家に帰ると、たいていマキが家事をしているか本を読んでいる。前はあんなにマキを嫌っていたけど、秘密が両親にばれてしまったからか、私の緊張はとけていた。考えてみれば、彼女の滞在期間は一ヶ月しかない。一緒に過ごして過ごしすぎるということはない。

 マキと一緒に何かしようと思ったけど、マキのできることには限界があった。一緒に過ごそうと考えたものの、何をすればいいか私は困ってしまった。

 とりあえず自分の得意なことをすればいいだろう。私の趣味は音楽しかない。自室に備えつけられた電子ピアノを開ける。

「音楽のことは聞いてわかるの?」

 私が尋ねると、マキは正直に答えた。

〈少し、わかります〉

「ま、聞くだけでいいけど」

 ピアノをいじる。最近は周りに聞かせるのが嫌で、常にヘッドフォンを使っていた。だけどやっぱり、ピアノは自由に弾けたほうがいい。私は覚えている曲を弾いた。

「どう、って感想あるわけないか」

〈チャイコフスキー、ですね〉

 さらりとマキが答えたのを見て、私は目を見開いた。「え、知ってんの?」マキは首を振った。

〈ネットで曲を検索しました〉

「うそ、そんなことできんの? じゃあ大体の曲はわかる?」

 はい、とマキが答えたので、私は覚えている曲のサビやイントロを弾いた。私が手を止めると、マキは少し考えてから、曲名を答えた。最後は「ネコ踏んじゃった」まで演奏して、マキはそれも丁寧に答えた。

 よくよく考えると、やっていることは、ネットで曲を検索しているのと変わらない。だけど、マキが答えてくれるのでそこは違う。そのうち、レパートリーが切れれば面白くなくなることがわかったけど、マキが聞いてくれているとわかっただけで嬉しかった。彼女に音楽の感想を聞くというのは無理だ。

 何曲か弾いたあと、それでも私は尋ねた。

「で、感想は?」

 マキは数秒、返事を考えるのに時間をかけた。私はテンプレートのような返事を予想した。それを聞けば余計にしらけることはわかっていたけど、マキはそこでは空気を読んだ。

〈ピアノが演奏できることは、素晴らしいことです。それだけレパートリーがあるのも、すごいことです〉

 私は苦笑した。棒読みだけど、うれしかった。彼女に演奏の巧拙はわからないと思う。私が弾けることによってうれしいという感情もない。よく考えれば、それが一番まともな感想かもしれない。

「あんたは弾けないの?」

〈難しいです。楽譜は読めますが、演奏できるかどうかはわかりません〉

「家事はできるのにね」

 しばらくして、小学生の弟である哲平が帰ってきて、ピアノの音につられて部屋に入ってきた。新しいオモチャを見つけた顔だ。父さんの影響からか、哲平はゲームや機械いじりが好きだ。

「遊ぶって言ってもねえ」

 私は首をひねった。トランプのババ抜き、すごろく、テレビゲーム。たぶん、ルールを教えればマキは一緒に遊んでくれるだろう。でもそのあとを想像すると悲しくなった。ババ抜きで楽しんでいる彼女を想像できないし、負けて悔しがっている状況も想像できない。結局は私たちだけ楽しむことになりそうだった。

「マキ、なんか遊び知らないの?」

〈チェスは知っています〉

「チェス?」

 あの将棋の外国版みたいなものか。そう言えば、コンピュータがプロ棋士にチェスで勝った、なんて話を聞いたことがある。哲平が手を挙げた。

「おれチェス知ってる!」

「なんであんたが知ってんの」

「学校のクラブで教えてもらった」

 早速チェス盤を買ってきて、マキとプレイすることにした。哲平は知ってると言いながらルールを曖昧にしか覚えておらず、私も説明書を読みながら加わった。折りたたみテーブルの上にチェス盤を置き、私たちはそれをはさんで座った。

 チェスは意外とうまくいった。プレイ中は、あまりコミュニケーションをとらなくていい。コマの運びでコミュニケーションを取ればいいのだ。しかも、今どちらが勝っているか、どのコマを取られると痛いのか、それはマキも知っている。哲平がクイーンを取られて叫んでいるのを見て、マキは優しく微笑んでいた。

「すごいね、あんた」

 私はマキに言った。本気を出せばマキは哲平に楽勝で勝つと思うのだけど、彼女は明らかに手加減をしていた。こんな芸当は私でもできない。哲平の「もどすもどす!」にだってちゃんと対応している。私は対戦を眺めているだけだったが、十分に楽しかった。

〈私にできることがあれば、うれしいです〉

 マキの声は無機質だった。だけどそれは本当に思えた。

 ふいに私はとても悲しくなり、泣きそうになってしまった。なぜかはわからない。弟とこんなに遊んだのが久しぶりだったからだろうか。両親と一緒だったら、恥ずかしくて絶対に遊べなかったはずだ。それがマキと一緒ならできる。それがすごく悲しかった。自分がどれだけ家族と距離を置いているかを、知らされたようだった。

 私はマキの肩に顔を押しつけた。彼女の前では変に感情がむき出しになってしまう。今度はマキも何も言わなかった。



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