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私は帰宅して、自宅の玄関の鍵をそうっと回した。ガレージに両親の車はなかった。弟も塾に行っているようだ。それでも私は音を殺した。いつもなら家の中は真っ暗なはずだが、今日はダイニングに電気がついている。玄関先にカバンを置いて、廊下を歩く。
ダイニングテーブルには、あのロボットがいた。驚いたことにロボットは読書をしている。ほどよく両腕を伸ばして、ひじを少し折り曲げて、雑誌を読んでいる。この光景自体が雑誌のグラビアみたいで、とてもじゃないけど、家でくつろぎながら読んでいる格好には見えない。
マキはこちらに気がつくと、そのままの姿勢で顔をこちらに向けた。私は驚いて体が固まった。
〈お帰りなさいませ。今日は早いのですね〉
合成音声にうんざりしながら、私は無視してテーブルのそばに近寄った。マキが持っている雑誌は見たことがあった。おそらく父さんがいつも読んでいる、難しい工学の雑誌だ。
「本なんか読むの」
〈本当は、読んでいるふりをしているだけです。何もすることがないときと、充電中はこの格好をしています。いちばん、皆さんが気にならない姿勢だと思うのですが、いかがでしょうか〉
いかがって言われてもと思いつつ、「別に」と私は答えた。本当は視界の中にいるだけで気になってしまう。同じ家の中にいる彼女を、いったいどういう目で見ればいいのかよくわからない。一緒に住んでいるただの同居人、近所の女性、さすがに実のお姉さんというのは難しい。椅子に座った彼女のすがた、肩までの黒髪。何かおかしいと思ったら、昨日見た服装から変わっていて、今はゆったりした深緑のワンピースを着ている。自分で着替えたのだろうか。
私は自室に戻ろうとしたが、さっきのマキの言葉にひっかかった。「今日は早いのですね」だなんて、私がいつ帰ってくるかを知っていたみたいだ。
「わたし、今から出かけるんだけど」
〈お気をつけて〉
「わたしが家に戻ってきたってこと、親に内緒にしてて」
私がとっくの昔に吹奏楽部を辞めたことを、両親は知らない。別に隠したいわけじゃないけど、どうして辞めたのか聞かれると面倒くさい。最近私が塾をサボっていることも知らない。これは知られてはまずいのだけど、どうせいつかはばれる。しかし、マキに話すなと命令するのは、隠しているとは言えないのだろうか。
〈内緒に、ですか〉
「自分から言わなきゃいいんだよ。麻美がさっき帰ってきたって言わなきゃいい」
〈それはできますが、一日の報告を尋ねられたときは、私はすべて話してしまいます〉
「マジ? 面倒くさいな」
〈すみません〉
ちっともすまなさそうな声だ。私は考えを巡らせた。
「じゃあ、本当のことならいいんでしょ。私は忘れもの取りに来たってことにしておいて。それですぐ出て行った」
〈アサミさんは忘れものを取りに来た、とお伝えするのですね〉
「そう、だから聞かれたときだけだよ。わざわざ自分から言わなくていいの」
〈私とアサミさんが、どんな話をしたかを尋ねられると、そのまま答えてしまいますが〉
私は目を閉じた。こいつが本気で言っているのがおちょくってるのかよくわからない。もういい、とつぶやいて私は家を出た。
私は、家族がそろう夕食の時間がいちばん苦手だ。
人間が四人、顔をつきつけあって食事をする。食器とテーブルがぶつかりあう音、お箸がお皿を引っかく音、かむ音、すする音、飲む音、私は嫌な場面を想像してしまう。動物が群がっているところ。いま私たちは、栄養を補給している。食べものを胃に詰め込んでいる。そんな行為はひとりで済ませてしまいたい。
テレビから聞こえる、バラエティ番組のくだらない声、両親のバカらしい会話、弟のうるさい声。私はどの音に集中すればいいんだろう。
食事の時間、あのロボットは私たちと同じダイニングテーブルについていた。母さんが不気味だと嫌がっていたが、父さんが必要だからと食い下がった。家族、とくに弟の哲平は興味しんしんでロボットを見ていた。私は同じものを見るのが嫌で、壁のほうを向いていた。
家族がロボットに飽きてテレビに集中し始めたとき、私は初めてマキをじっと見た。虚ろな瞳で、ずっと目の前のテーブルを見つめている。ときどき首を動かしたり、遠くのテレビを見たり、それ以外は何もしない。ただ座っているだけだ。
マキは私の視線を感じたのか、こちらに顔を向けた。何秒も見つめ合う。ふだん私は、人の目なんて怖くて見られないのに、ロボットの目は見ていられる。ロボットに失礼かどうかなんて考えなくていい。ロボットが不快だと思うことはない。マキは真っ黒な目でこちらを見つめている。
突然、マキは私を見つめて首をかしげた。
〈何かご用ですか?〉
家族が一斉にマキのほうを振り返る。マキは私に視線を向けているので、とうぜん私に注目が集まる。私は目をそむけて知らない振りをした。またイライラがつのる。何かご用ですか、じゃないよ。ご用じゃないんだよ。あんたも私を変だと思うの。
初めて私が本格的に楽器に触れたのは、小学校を入学する前、ピアノ教室に通ったとき。中学の吹奏楽部では、上手くなることに快感を覚えていた。そのときに部長になったことがまずかったのかもしれない。もともとマジメな性格だったから、選ばれやすかったというのもある。私は高校でも部長を務めた。ここら辺になってくると、技術の向上では物足りなくなってくる。というか、私が上手くなってもどうしようもなくなってくる。吹奏楽は団体競技だから、演奏の質をあげようとすると他の子の質を上げないといけない。私は教える側になる。
その教え方がまずかった。私は他人への要求が厳しいらしかった。それで自分への要求はさらに厳しかった。他人に要求するのだから、自分がまず完璧にできないといけない。おろそかになる基礎練習もきっちりこなし、楽器の手入れも曲の研究もしっかりやった。
それがいつの間にか、逆転した。つまり、自分ができるから周りもできるだろうという図式に変わっていた。もしかするとあのとき、私はもう限界だったのかもしれない。自分がこれだけ頑張ったのだから、他の子も頑張ってくれないと困る。どんどんそれが行き過ぎて、私は自分の練習をおろそかにしていたんだと思う。
八月のコンクール。高校最後のコンクールで、私は大きなミスをした。いま思い出しても体が震える。出だしのソロのとんでもないミス。私はそのあとの演奏も続けて失敗した。。自分の手元を見ていなかった。
結果はそれに正直に答えた。私たちの部は、三年連続で全国大会に出場していたのに、予選を落とした。正直に言うと、私のミスが原因というわけではないと思う。演奏が全体的にバタついていた。ただ大半の部員は悟っていた。私はみんなに何を言えばいいかわからなかった。顧問の先生が適当になぐさめの声をかけて、私は部長を交代した。
普通、コンクールが終わっても、三年生は秋の文化祭まで部にいることが多い。もちろん受験勉強が忙しくて顔を出す回数は減るけど、たいてい残って、卒業コンサートで追い出される。だけど私は退部を選んだ。逃げるように部活から離れた。
最初は、ただの過去の傷、で終わると思った。だけどそれで終わらなかった。たぶん、本格的になってきた受験勉強のせいだと思う。きっと私は、ブラスバンドをすることで、受験勉強のつらさを乗り切っていた。でもいまは、その部活がない。勉強に向き合いたいけど、できない。
自分の進路にすら、自信が持てなくなっている。私はなんのために勉強していたんだろう。それが全く思い出せない。