ギターピックごときが僕に楯突くな
チャーコ様の「年下男子企画」参加作品です。
「シグナスが鳴いた」姉妹編ですので、
先にそちらをお読みいただくとわかりやすいです。
だんだん空が赤くなってきた。真夏の空らしい紺碧の空に、夕陽の朱色が混ざるのが好きだ。少し気温が下がったとはいえ今日は風がないから暑い。でも僕は行かなきゃいけないところがあった。一回外に出てぶっ倒れたあの人を暑さに慣れさせるべく、僕が外に出す係を買って出たのは、あの人との接点を持つ為だ。
僕の家から自転車で30分のところに、彼が住んでいるアパートがある。とりあえずインターホンを押してみるが、出るはずがなかった。インターホンからのドアガチャという家での習慣で、ついドアノブに手を掛けるが、
「え!?」
開いた。
行き慣れた築6年の1DKアパートの玄関は彼のスニーカーが1足だけ残っていた。独り暮らしの男性とは思えないほど綺麗に片付いているのは、若い頃からの習慣だろうか。
「棗です。お邪魔しまーす」
返事がない。これは僕の経験則……
「瑞哉さん?」
「……。」
「やはりか」
老いを知らない、若々しい外見の中年男性が、寝そべって雑誌のページを捲っていた。
8帖ほどある部屋を見渡すと、瑞哉さんの周りだけ色々なものが散らばっていた。小さい山を作っているTシャツと、無造作に置いてある涼しげなパンツ、それから青いスーツケース。僕は重い溜息を吐いた。
「瑞哉さん、明日ですよね? 東京行くの」
「うーん……」
「スーツケース出したんならさ、準備しなよ」
「いやちょっと待てこれ読んでからだ」
「そう決意してどれくらい経ったんですか?」
「んにゅ? いや、時計見てなかった」
僕はまた重めの溜息を吐いた。手持ち無沙汰な僕はとりあえずTシャツの山を引き寄せて畳むことにした。
瑞哉さんはまだ雑誌に夢中だった。ちらっと誌面を覗くとギターが大きく載っているから音楽雑誌だろう。そういえば一昨日、本屋で彼を見かけたような気がする。
「あ、あと鍵開いてました」
「マジか。閉めた気でいたわ」
「危ないから確認してよ。あともう6時過ぎたからね。準備しなよ」
「えー……」
「……昨年に引き続き上京詐欺ですか?」
「違えよ何でそんな言い方する?」
「だってそうじゃん! 去年『行こうかなー』って言って結局引きこもってたじゃん。現にパッキングもしてないし」
「だからやるっつってんだろ」
「夏休みの宿題に手ぇつけない小学生の例じゃないですか」
ちなみに、ここまでの会話で瑞哉さんは雑誌を読んだままだし、僕は散らかされたTシャツとパンツを全部パッキング出来るように畳み終わった。
瑞哉さんは明日から、実家に顔を出すため1週間くらい東京に行く……のだそうだが、確か同じ時期に誰かのライブがあったような気がする。コンビニの店内放送で聞いたんだけど誰だったっけ……?
瑞哉さんはいつの間にかパッキンアイスを咥えていた。どうしてだ? やっぱりだらける気じゃないか。もしかして全部僕にパッキングさせるつもりなのか。僕は小さな仕返しにもう1つ弱点をついてやることにした。仰向けになった瑞哉さんのお腹をつまむと「ん゛ーーー!!!」と身を捩った。
「触んな! 腹つまむな!」
「あーあ、こんな自堕落な生活送ってるからまた夏太りしてる」
彼の身体は、この時期になると薄い肉が一枚乗るようになる。涼しい季節になると腕も細くて引き締まっているのに、夏になるとだらしない身体になる原因は……
「瑞哉さんいっつもビールとタバコとアイスじゃないですか」
「だって暑いし―――」
「は?」
僕は瑞哉さんの目の前にリモコンを翳した。「何度ですか?」と聞いたら「え? にじゅう…はち」とほざきやがったので「老眼鏡買ったらどうですか? 22度ですよ」と切り捨ててエアコンの温度を25度に設定しなおした。いい加減寒い。
「こんな重度の暑がりでよくもまあスリーピース着てライブが出来ましたねぇ!」
ビリテラことBILLION TERA BYTE―――彼が活動していたバンドが、スリーピース・スーツを着て演奏しているのは音楽番組でよく見た。さすがに夏はジャケット脱いでたけど、スーツを着てハードロックを奏でる姿は、若い女の子を虜にしたんだと思う。
そんな若い女性の憧れだった彼は寝そべったまま「ねー」と同意の声を上げた。
「いや『ねー』じゃないから」
「なつめこわい……」
「可愛くないです。ちゃんとご飯食べましょうよ。コンビニだって車で2分くらいでしょ?」
僕がパッキングをしながら……いや彼の為じゃなく何もいじくる物がないから。スマホくらい持って来ればよかった。……それはともかく作業しつつ説教を続けていると彼はようやく起き上がった。お、やっと行動を起こす気になったか?
「車に行き着くまでが暑い」
と思ったらまた言い訳が始まった。「え?」と威圧感が増してしまったのは許して欲しい。
キーをいじくりながら彼はまだぶうたれる。ところでタオルは必要なんだろうか? いや待て。どうして僕がパッキングしてるんだ? そもそも高校生になったばかりのガキが、どうして41のオッサンを説教してる? 絵面は面白いかもしれないけど、3年目にもなってくるとムカついてもくる。
「アパートから車までが暑いから」
「は? 10歩も歩かないんですけど?」
「いや、その10歩が暑くて、そこでもう残機減っちゃうから……」
「え?」
子どもの言い訳みたいな言葉を一文字で切り捨てた僕は、瑞哉さんのシュン…とした顔なんて見てない。
彼はパッキンアイスのゴミを捨てに台所へ行った。ああ、彼は元々こういう人だったんだろうか? それとも16歳から25歳という遊びたい盛りの時期を芸能界に捧げた反動だろうか? もう分からない。彼が読んでいた雑誌に目を向けると『森川頼真』という白い明朝体の字と、にこやかに笑う男の子が誌面にいた。
「頼真くん、僕はどうすればいい?」
僕は答えてくれるはずのない誌面の男の子に縋りついた。
僕も僕で、やってあげちゃうことが問題なんだろう。何度も言うけどたまたま手持ち無沙汰だったからやってるだけだ。下着やら化粧品やら、あれこれ用意しながら居もしない誰かに言ってやる。
「ホントに改善する気あるんですか?」
「慣れねえの、暑さに」
「いや慣れようとしてないじゃん」
パッキングの途中だが僕もアイスを頂くことにした。これくらいの報酬は貰ってもいいだろ。
瑞哉さんは、多分だけど、僕に甘えてる。カッコ良く振る舞う必要なんかないって思ってる。初めて瑞哉さんの家庭訪問をしたときに言われた。「なんか棗は、昔のSHINOさん思い出す」って。
SHINOさんはビリテラの最年長だったドラマーだ。瑞哉さんはSHINOさんが大好きで、仕事のときはべったりだったと瑞哉さんは話した。そして、瑞哉さんに唯一、「お前は間違ってない」と言ってくれた人だったという。
瑞哉さんが僕に甘えるってことは、瑞哉さんが甘えたい人ってのは、年齢とか関係なくて。ちゃんと瑞哉さんの人生も全部、受け止める人? いや、さすがに自惚れ過ぎか。僕はそんな大層なことしてないし。
いや、今はそんなことどうでもいいんだ。とにかく外に出さないといけない。「いやぁああああ!!!瑞哉くぅうううん!!!」なんてババアどもの悲鳴はめんどくさい。
「瑞哉さん、パッキング終わりましたよ」
「え、マジで? ありがと~! 棗くん大好き♪」
僕はまた彼の腹をつまんだ。
身を捩って僕の手を振り切った瑞哉さんはまたゴロンと転がり始めた。同じタイミングで扇風機がテーブルに乗ったチラシやら手紙やらに風を吹いたので落ちる前にせき止めた。チラシは「いらねえ」と言われたので素直にゴミ箱に捨てる。残った手紙の中にチケットケースがあった。
「このチケット何ですか?」
「ん? あー……ライブのチケット送られてきたんだけど、行くかどうかわかんねえから一応残しといて」
「行くかどうかわかんないって、瑞哉さんがそう言ったものってだいたい“行かない”の選択でしたよ」
「あー、そうだっけ?」
とりあえずチケットケースは手紙と一緒に、彼のスマホを文鎮代わりにして置いておいた。
冷蔵庫を拝見したが、何もなかった。このまま涼しいところでロクなものも食べずにゴロゴロさせてたら夏バテが悪化しそうなので、とりあえず外で何か食べる提案をしよう。うん、野菜たべさせよう。
「はい起きるの! このままビール生活送って出荷を待つ豚にでもなるんですか?」
「誰もそんなこと言ってな~い」
「じゃあなんでちゃんとした生活が送れないの!? 子どもじゃないんですよ!」
「ねぇ怖いよ~。キレる若者こわい~。前の優しい棗に戻ってよ~」
「僕は前のカッコいい瑞哉さんに戻って欲しいです! ブヨブヨじゃないですか!」
「言い方悪いな! この年齢だったら俺は持ちこたえてる方だよ!!! なんで腹に薄く肉乗ったくらいでそんな目くじら―――」
「いや、顔も丸いです」
「え? マジで?」
瑞哉さんが目を見開いた。危機感を持ったように見えたから、「ショック受けるほど丸くないです」と言い損ねた。
結局、さらに30分の押し問答の末、瑞哉さんはファミレスに行くことになった。珍しく飲んでいなかったみたいで車で行くらしい。僕はミッションを果たしたので、このまま帰ることにする。クーラーがガンガン効いた部屋を出ると、一気に汗が噴き出た。気温が下がったとはいえ、やっと30度を切ったところで、空気が水分を多量に含んでいてジトジトする。
「じゃあ気をつけて帰れよお前」
「はーい」
「やっぱ暑っついな……」
「はい……」
瑞哉さんの額から汗が流れる。汗が眉を飛び越えて頬に落ちた。彼が親指を使って汗を拭ったのを見て、僕はある記憶の扉が開いた。1年間、何もなかったように振る舞ったのは、あの時の瑞哉さんから、ずっと目を背けていたかったから。
ああ、あの時………わかったんだ。僕がどうして、こんなにも彼がほっとけなかったのか。
「じゃあ、帰ります」
「ん? うん、じゃあ」
僕はここから早く逃げたかった。ペダルを必死に踏んで、自転車のギアを変えて、とにかく猛スピードで走った。
去年の夏祭りの夜、僕は彼のアパートに来ていた。こっちの気も知らないでグースカ寝ていた彼のために食べ物を調達するために、僕は20分だけ鍵を借りた。
祭りにはしゃぐ人の熱と空気の温度に揉まれて帰って来ると、眠りながらすすり泣く瑞哉さんを見つけた。目尻には気化しなかった涙と、汗が伝っていた。
「……っ、……、……」
水分を吸収してくれるものなんて見当たらなくて、指で滴を掬おうとしたところで、震えた寝言。
「らい、ま……」
初対面で見た、変にさっぱりした瑞哉さんの顔が吹き飛びそうで――――
彼は大事なものを1つ守って、人生のほとんどを捨てたんだって。
クーラーが可哀想なほどに働く冷たい部屋。全て捨ててしまいたいと苦しむように、また涙が1つ流れた。
(どうして、初めて会ってからずっと……彼の感情に気づかなかったんだろう……)
僕は乗り捨てるように自転車から降りて、浴室に駆けこんだ。冷たいシャワーを浴びる。姉に「何してんの!?」と言われても聞こえないフリをして。
全身びしょ濡れのまま床を歩こうとして、姉にバスタオルを投げつけられた。
「あんたどうしたの?」
姉に声をかけられた。でも僕はあの時のことが、ずっと頭の中を回っていた。
「僕は……彼じゃない……」
「はぁ?」
「僕は……代替品にすらなれない」
瑞哉さんに何かを手にして欲しかった。身勝手な感情のはけ口でもいいから、渇きをなくす人間になりたかった。本来の彼が見たかった。
「……漫画読み過ぎじゃないの?」
姉は呆れたように言った。
なんで平然と彼の前にいられたのかが不思議だった……。
もうやめよう。あのアパートは訪ねずに、遠いところで彼を見守っていよう……。
だんだん空が暗くなってくる。明かりもつけない6畳の自室で、僕は麻酔を飲んだような感覚を抱いていた。
入れられなかったやりとり
「来年こそは痩せてダンヒル着るって言いましたよね!」
「あ~、もう間に合わない」
「諦めるんですか!? ってかそもそも生い立ちが出過ぎですよ! 何がダンヒルだよ! いい加減にしろ!」
「え? 何で俺怒られてんの?」
「実家は白金だし!」
「それは俺のせいじゃねえよ」
これ入れたかったけど時間的に無理でした……汗
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。