嘆きの王 後編
「……あっと、失礼。ずっと下から上ってきてようやく部屋を見つけたものだから、つい勝手に入り込んでしまった。申し訳ない。……俺はクルストという。貴女はここの人なのか?」
クルストは少女の鈴を振るような声と、双眸を開いたことにより華やぎを重ねた可憐な姿に鼓動を跳ね上げつつ、言い訳じみた謝罪の言葉を口にした。
少女はしばらく迷うように考えてから、こくりと頷く。
「──ええ。私はレノーレというの」
天鵞絨の足台に愛らしい靴先を揃え、人形のような少女は絹の手袋に包まれた両手を膝に乗せている。年は自分と同じぐらいだろうか。
「……レノーレ」
クルストは少女の名を口にして、その響きに改めて魅了される。戦うことしか知らなかった彼にとって、それらはあまりにも新鮮な衝撃だった。
「その……俺は倒れていたところを助けて貰ったようなんだけど、気を失っていたから実はここがどこかも解らないんだ」
「……そう」
と、少女は気のない相づちを打った。
「ここがどこなのか、私にも解らないわ。私はこの部屋から外に出ることは許されていないの」
「……ここから出たことがない? ずっと?」
こくり、と少女は愛らしい仕草で頷く。
「ご両親とか、家族はいないのか?」
「ご両親……家族?」
少女が怪訝な表情で首を傾げたので、なにか失言したのだと思ったクルストは慌てて掌を振った。
「あ、いや。すまない。言いたくないのならいいんだ」
他にも訊かなければならないことがあるし、いずことも知れぬ場所への警戒心ももちろんある。だが──
「貴方はどこからきたの? 外はどんなところ? 綺麗なお花はある?」
きらきらと輝く眼差しに見つめられ、クルストはなにもいえなくなってしまう。気がつけば、進められるままに彼女の隣に腰かけ、求められるままに外の話や、自分の話をした。もちろん【死】の話だけは省いたが。
少女は楽しげに、あるいは驚き、悲しみ、また怖がったり喜んだりしながら、クルストの話に訊き入った。次第に人形めいた印象が薄れ、少女は生き生きとより美しく変貌していく。ますます少女に魅入られていく自分を自覚しつつも、クルストにはどうすることもできなかった。
まるで籠の鳥のように暗がりで暮らす少女。
囚われの姫君を城から連れ出す騎士のように、彼女をここから連れ出すことを想像する。柄にもないと苦笑して、それでも一度芽生えてしまった希望を完全に消し去ることは難しかった。
今まで欲しいと思ったものは、【死】の死だけ。その為に生きて、その為に死ぬつもりだった。なぜかは知らないが、こうして無様に生き残って、今また新たな望みを抱くとは──
我知らず少女の頬に指先を伸ばし、触れるか触れないかのところで、クルストははっと手を引いた。ミルク色の肌に薔薇色の頬……これほど美しいものに、果たして自分は触れる資格があるのかと。
問いたげに微笑む少女へ、クルストはやや固い笑顔を返す。
「……そういえば、さっき訊きそびれたけど、ここには君以外の人はいないのかな? 一応助けて貰ったお礼も云いたいし」
少女は一瞬虚を突かれた表情になって、伏し目がちに俯いた。
「──いらっしゃるわ。でも私からあの方をお呼びすることはできないの。私はただ待つだけ。だって私はあの方の人形……あの方のものだから」
「……あの方?」
貴族が別宅に愛人を囲うことはよくあることだ。例えば無垢な少女を連れてきて、塔に閉じ込めて人形のように育て、小鳥のように飼うことだってあるかも知れない。
本来ならその想像は、クルストの頭を冷やすはずだった。冷静に考えて恩人の愛人の部屋に侵入し、親しく言葉を交わしていること自体、罪だといわれても仕方がないのだ。
それなのに頭が冷えるどころか、クルストはやり場のない怒りに駆られる。どうあっても許せないと思う。
彼女が、これほどに希有な彼女が、誰かに所有されているなど──
「レノーレ……あの方とは誰なんだ?」
クルストは胸を焦がす感情が嫉妬以外のなにものでもないと気づきつつ、問いを重ねた。哀しげに見える以外、なんの感情も込められていない柔らかな声音が応える。
「……この塔の主でいらっしゃる方。この【死霊の塔】の」
クルストはぎょっと目を見開く。
──死霊の、塔……だと。
他の誰が知らずとも、剣を手にしてから【死】のことは調べ尽くした。古い文献に残る伝承から口伝に至るまで。その中に【死霊の塔】の記述があったのを覚えている。
死の公爵シヴィルコラックの居城。当然のことながら、公爵の塔は人界にない。
では、ここは。
──人界と遠く表裏の魔の国。
あまりのことに唖然としてしまう。意識を失った瞬間、最後に見たのは確かに【死】だったというのに、己を救ったものとそれを結びつけて考えることはできなかった。その印象を思えば仕方のないことかも知れないが、迂闊ではある。しかし──
──……なぜだ?
あの公爵が自分を助けた理由が解らない。傷ひとつ負わせてはいないが、仮にも己を襲った人間を、どうして。
──どういう、ことだ?
「クルスト……?」
軽く首をかたむけた少女は、己が口にした言葉の重大性をまったく理解していないようだった。
ここが彼の【死霊の塔】なら、彼女もまた【死】のものであるということ。だが彼女は死者ではない。
「……もしかして君は、公爵に囚われているのか?」
レノーレは、最初にここの人かと訊いた時のように迷いのある表情で逡巡し、首を振った。
「囚われて……? いいえ。気がついた時にはもう、ここにいたのだもの」
一瞬、厭な考えが脳裏を過ぎった。少女は人間にしか見えない。そしてあまりに美しい。供物や生贄として【死】に捧げられたとしても、なんの不思議もないほどに。
「……ひょっとして君は、公爵に捧げられた……その、花嫁なのか?」
言葉を選び慎重に尋ねたつもりだったが、少女の反応は激しかった。緑の瞳を瞠り、首を振る。何度も。
「……いいえ……いいえ、違う! ……違うわ」
その強い──強すぎる否定。
拒絶にも似た言葉の意味を、クルストは深く考えもしなかった。安堵に似た思いが彼を満たす。そして喜び──
彼女が真の意味で【死】のものではないなら。……否、たとえそうであろうと構いはしない。離れがたいばかりの思い。初めての恋は蜜のように甘く、毒のようにその身を蝕んでいく。抗う手段はなきに等しい。少女を一目見たその瞬間から、クルストはすでに心奪われていた。
この少女が欲しい──どうしても。
「レノーレ」
クルストは隣に腰かける少女の手を取る。
「……突然こんなことをいうなんて、信じられないと思う。でも訊いて欲しい」
無防備に預けられた手袋ごしの手が温かい。
「もしも、君が厭でないなら……俺を選んでくれないか?」
「……選ぶ?」
「そう、この塔の主でなく俺を。そうしたら俺は君を全力で護る。永遠に君を愛し続けるから」
「永遠……に? 私を?」
少女はどこか夢見るような眼差しで、クルストを見つめる。
「ああ。永遠に君だけを」
クルストは少女の手を持ち上げ、その甲に口吻けた。
「ここから出て、一緒に人界へ戻ろう」
「外、へ……」
「外を見たくないか?」
レノーレは俯き、それでもその声は耳に届いた。
「……見たいわ」
「では、行こう」
破顔したクルストにつられるように、レノーレは花がほころぶように微笑む。たまらなくなって、クルストはその花びらのごとき唇を奪う。
掠めるだけの口吻けは、どんな蜜よりも甘い味がした。
▼ ■ ▲
願いを込めた叫びは、それだけで祈りになる。
「──公爵!」
クルストはあえて名まで呼ばなかったが、その声が【死】に届くことを疑いもしなかった。
長椅子から下りたレノーレはクルストの横で跪き、手を祈りの形に組んでいる。その白い頬は青ざめて、彼女の抱く不安がひしひしと伝わった。
「公爵……話を訊いてくれ! 公……」
「──煩いな。そう何度も呼ばずとも訊こえている」
唐突に背後からかかった声音に、クルストは弾かれたように振り向く。
忽然と──
さっきまでレノーレが腰かけていた深紅の長椅子に、見知らぬ青年が腰かけていた。
レノーレが持つ柔らかな美しさとは真逆の、あまりに剣呑な美貌の主は足を組んでゆったりと長椅子の背に躰を預けている。衣裳は貴族の師弟が好んで身につけそうな室内着だが、色彩はほとんど黒ずくめに近い。月光に似た見事な銀髪は軽く後ろに撫でつけられ、瞳も刃のような冴え冴えとした銀。肌は透き通るように白いが、白皙という言葉さえ似つかわしくない。そしてその造作──
その凄烈な美は、見るものを完膚なきまでに叩きのめしてしまう。美しいなどという呑気な感銘も与えず、人間の本能を脅かす底知れぬ恐怖がそこにあった。
「……死の、公爵……?」
魔術師の姿しか知らないクルストがつぶやくと、青年は今さらなにを、とでも言いたげに端正な眉を上げる。当然のごとく見下ろす視線。冷ややかな唇が小さな笑みを刻んだ。
「──我が塔へようこそ、ズィグムントの坊や」
その笑みは見るものを陶然とさせるほど美しいものだったが、同時に慄然とさせずに置かない残酷なものでもあった。
物憂く胸に響く声、鋼の瞳……忘れもしない。
──シヴィルコラック。
死を司り、闇を制する夜の覇王。
今こうして対峙していても、あれほどに胸を焦がした憎悪は感じない。穿たれた絶望の余韻は、まだかすかに形を残してはいるというのに。
「……なぜ……俺を助けてくれたんだ? 俺は、あんたの命を狙ったのに」
ふと口を衝いてしまった言葉に、シヴィルコラックは口許の笑みを深くした。
「毒はすっかり抜けたようだな。あの場所の毒は水や石だけでなく大気にも含まれていて、あそこで死ぬと屍は永遠にそのまま、魂は死霊でなく悪霊となる。だが悪霊の扱いは少々面倒でな。それでやむを得ず連れ帰ったというわけだ。ま、こちらの都合だ。別に助けてやったとは思っていない」
「……でも、助けて貰ったことは事実だ。──ありがとう」
クルストは本心から礼を述べ、深々と頭を下げた。だからシヴィルコラックがわずかに顔をしかめたことには気づかない。ただ、レノーレだけが怯えるように小さく身動いだ。
「それで?」
と、シヴィルコラックは長椅子の袖に、この上なく優雅な仕草で頬杖を突く。
「人界に戻りたいという話か? それとも──お前の誑かした私の人形の話かな?」
口端をほんの少し歪めただけの邪悪な微笑は、人間が浮かべたものなら「質の悪い」と表現されるべきだろう。それはシヴィルコラックという魔の本質を如実に示していたが、己の感情を見透かされた罪悪感に苛まれたクルストと、主への恐怖へ慄くレノーレに気づけというのは酷だった。
「……あんたにとって彼女はただの人形なのかも知れない。だが俺にとっては違う!」
衝撃から立ち直ったクルストは、崩れ落ちそうな少女を庇うように後ろにした。
「おやおや、これはまた随分と入れ込んだものだ。たかが人間の身で私のものを奪えるとでも? みすみす助かった命を投げ出すほどにそれは価値のあるものなのか? 会ったばかりの、ただ美しいだけのその人形に」
嬲る口調。力ある存在が当たり前に放つ嘲りの混じった声音は、心底愉しげに響いた。
きっ、とクルストは顔を上げる。
「……いいや、あんたからなにかを奪うなんて誰にもできないだろう。確かに俺はレノーレとは会ったばかりだし、自分でもどうしてこんな気持ちになったのか解らない。でも俺は、彼女を愛している。一目見ただけで、俺は彼女を愛してしまったんだ。もちろん彼女があんたのものだなんて知らなかったけど……知ってもこの気持ちは変わらない。だから……」
「だから?」
笑い含んだ声に促され、クルストは【死】の前に膝を突いた。あれほどに憎み、追い続けてきた相手の前に。
「無理を承知で、だが俺は頼むしかない。お願いだ、公爵。レノーレを解放してくれ」
クルストはレノーレをシヴィルコラックの愛人であるのだと曲解している。もちろんその勘違いを正してやるつもりなどない彼は、真剣そのものの美しい琥珀に過去の愛の残滓を見ていた。
──……ノディエ。
胸を貫くのは紛れもない痛み。ささやかな痛みさえ手放せないでいる自分自身に苦く笑う。だがそれも一瞬のこと。瞬きひとつで儚い感傷を振り払い、シヴィルコラックは足下で震える少女に視線を移した。
「レノーレ、お前はどう思う? この坊やはなんとお前を愛しているそうだが」
主の視線に晒されたレノーレはがたがたと躰を震わせ、顔を上げることもできない。
「……お、お許し下さい。我が君……わた……私は……」
血の気のない蒼白な顔色で、少女は泣き伏すように柔らかな絨毯に身を伏せる。それを驚愕の表情で見遣ったクルストは、少女の肩を抱きシヴィルコラックを見上げた。
「公爵、お願いだ。俺はどうなってもいい。だから、レノーレを自由にしてやって欲しい」
その勁い勁い琥珀の眼差し──
頷くことは企みだったが、そうでなくともシヴィルコラックは頷いてしまったかも知れない。
むろん仮定は無意味だ。これは確かに策略であり、死の公爵ですら魅了する一対の琥珀──それこそを彼は所有しているのだから。
それと知らず闇の淵に立つ少年は、悪意に彩られた強きものの提案を受け入れる。
契約の代価は、その両の瞳。
光を失うわけではないと知れば、躊躇う理由はどこにもなかった。
▼ ■ ▲
ただ純粋に愛しいと、欲しいと思う。
クルストの思いは単純だったが真実であり、それゆえに願いは呆気ないほどに容易く叶った。代償に琥珀の両眼を失ったが、少女を得たクルストにとっては些細なことだ。
──『だがひとつだけ条件がある』
公爵はそういって、クルストに少女を与えた。
──『違えた時、お前は死より辛い罰を受けるだろう』
けれどその約束は違えようのないものだ。
決して。
そう答えると、公爵はただ不可解な笑みを浮かべた。
──『……私の人形を、よろしく』
その笑みは嘲笑でも同情でも、心からの笑みでもなく。
クルストの新しい瞳には、なぜか自嘲のように映っていた。
▼ ■ ▲
──腐臭がする。
さっき斃した妖魔のせいだ。
琥珀の双眸の代わりに、ありふれた蒼い瞳を得たクルストは、手にした木の枝をぽきりと折り、小さく焚いた炎に放った。
傍らには横になって眠る少女。
辺りは薄暗いが、視界を奪うほどではない。天上には月に似た不思議な天体が鈍い光を放っていた。
魔の国にも昼夜があるのだと知ったのは、【死霊の塔】を出てからのことだ。人界における月や太陽と違い、その天体は沈まない。昼に少しだけ輝きを増し、夜に光を減じるが、移動も不規則なようでなにがなんだか解らない。
塔を出て六日目──
旅慣れぬ少女に合わせてゆっくりとした道行きだが、自由以外の不自由を味わったことのないレノーレは弱音を吐くことなく懸命についてきている。むろん辛い旅路には違いなく、そもそもの目的地までどのくらいかかることになるか、クルストにも見当がつかない。
人界で白い毒の水を湛えていた【白の湖】は、魔の国で水銀を満たす湖に繋がっているのだが、【死霊の塔】のすぐ傍にある湖の門は、宙を浮く手段の持たない人間に潜ることは不可能だった。仮に潜れたとしても、あちらで猛毒の湖で溺れるハメになるのでは諦める以外ない。
結局もっとも安全なルートを取るということで、もうひとつの門がある【黒の森】へ向かうことにした。公爵はこともなげに隣といったが、大人の男が一心不乱に歩いて十日ほどの距離では少女の足の目安にはならない。
正直、クルストは高貴な生活に慣れたレノーレを、荒野も同然の世界に連れ歩くのは気が進まなかった。
もしも損ねたら、とそればかりを思う。すぐ傍で寝息を立てている美しい少女を失ってしまったら、自分も生きてはいられまい。
埃に頬が汚れようと、なんの変哲もない頑丈な木綿の衣服に包まれていようと、少女は相変わらず宝石のようだった。
焚火の火を小さくし、クルストも毛布を引き寄せて横になる。死臭の纏いつく己に辟易しながら、やがて浅い眠りに落ちていった──
▼ ■ ▲
シヴィルコラックは漆黒でできた鏡を、見るともなしに眺めている。不機嫌なのは自覚していた。しかし理由となると今ひとつ定かでない。
この先、少年が選ぶことのできる運命は二択。
破滅か栄華か、善意か悪意か、幸か不幸か。確率は常に均等にある。もちろんどれを選んでもいい。
だがこれには彼の悪意に満ちた仕掛けがある。
たとえば、もっとも見窄らしい場所に金剛石を隠すように。たとえば、もっとも美しい器の奥に、汚らしい蟲どもを放っておくように。
どれほどおぞましい結果に導かれようと、必ずたったひとつの救いが隠されている。選択者の目を歪め、なおそれを見極めよとは、随分な言い草ではあったが。
彼は選択に悪意を鏤める。けれどその上で、このまやかしを打ち砕いて欲しいと願わずにはいられないのだ。
おかしな話だ。矛盾といえば、これ以上の矛盾もない。
恐ろしく冷ややかな視線を流した横に、白銀の光でできた小さな円柱がある。中で浮いているのは、二粒の琥珀。
なるほど、──と。
不機嫌の理由に思い当たって、シヴィルコラックは低めた声で密かに笑った。
あの少年もまた、この悪意の迷路を抜けることはできないのだ。素直で正直なことは確かに美徳だろう。だが同時に愚かさでもある。単純な思いが断ち切れる時は一瞬だ。
「そろそろ腐敗が始まる……さて、どこまで耐えられるかな」
己の望む結末ではないことは解っていた。
彼の望みは叶わない、どちらにしても。彼ほどの力を有して叶えられない望みがあるなら、一体他の誰が叶えられるというのだろう。
くつ、と彼は喉を鳴らす。
少年が感じた通り、それは自嘲の色濃い笑みだった。
▼ ■ ▲
塔を出て十二日目。
視界の果てに、森の黒い稜線が見えてきた頃──
クルストを悩ませている腐臭は、ますます耐え難いものになっていた。
確かに妖魔にはよく襲われている。かなりの数を斃してはいるものの、その腐臭は異常だ。レノーレにも尋ねてみたが、彼女はあまり感じないという。この腐臭は自分にしか嗅ぎ取れない類のものかも知れない。
「ねえ、見て。クルスト」
曇天のようなぼんやりとした光の中で、レノーレは岩と短い草ばかりの荒地から、少しずつ緑が増えていることを無邪気に喜んでいる。
「あれはなんの木? 花は咲くのかしら?」
人界では見たこともない巨大で不思議な木々を指差され、クルストは適当な相づちを打った。
「……ああ、たぶんその木は針葉樹のようだから、君が思っているような綺麗な花は咲かない。でももうすぐ森に入る。そうしたら花も咲いているんじゃないかな」
「本当?」
レノーレはさも嬉しげに笑う。だが見かけほどに少女は元気そうに見えなかった。
緑玉のようだった瞳は艶を消し、この頃は視線も覚束ない。疲労と土埃に目をやられたようなのだが、飲み水を使って洗っても一向によくならず、今では布で交互に片目を覆っている。
瞳を洗えるほど綺麗な水場はまだ見つかっていないし、森に入れば湧き水くらいは見つかるかもしれないが、湖が水銀で満たされているような世界では、それも幾分心許ない。
意地を張らずに塔へ戻るべきだろうか。
苛酷な旅に慣れた自分でも戸惑うような世界に、いきなりレノーレを連れ出したのは間違いだったのかも知れない。せめてもう少しずつ外に免疫を持たせてから連れ出すべきだったのではないかと、クルストはひどい後悔に囚われる。
彼女は平気だというが──
とん、と思索に没頭していたクルストの背に少女がぶつかる。
腐臭が、強くなった。死臭の混じる、腐った肉の匂い。
「ごめんなさい」
レノーレは少し渇いた唇を、にこりと笑みの形にする。
すらりと伸びた優美な手足、蜜色の巻き毛、透き通るような肌、薔薇色の頬。美しさは少しも損なわれていない。鈴のような声音も小首をかしげる仕草も、以前と変わりなく愛らしかった。
ただ、その瞳だけが。
──本当は気づいている。
腐臭の源は彼女だ。
この居たたまれない匂いは、確かに彼女の両の眼窩から発せられているのだ。
平気、だと? そんなはずはない。あり得ない。そこまで傷んでいるなら、その苦痛は絶えられるようなものではないだろう。
「……レノーレ」
尋ねてしまえばいい。一言ですむ。
「なあに? クルスト」
──だが、一体なんと?
「瞳は……瞳は本当に平気なのか……?」
クルストは少女を振り向く。向かい合って覗き込んだ少女の片目は、どんよりとして動かずあらぬ方を見ていた。
まるで、死人の瞳のように。
「……よく見えないような気がするけれど、大丈夫よ」
平気そうな少女の言葉とは裏腹に、眼球の瞳孔は開ききっていた。
伸ばした指先が震える。ぞわぞわと背筋を這う悪寒。それを振り払って、クルストは祈るような気持ちで大人しくされるがままになっている少女の、もう片方の瞳を覆っている布を解いた。
──……う!
クルストはその惨状に息を呑む。
押さえていた布を追うように、腐敗しきった眼球がどろりと涙のように零れ落ちた。後には真っ黒な眼窩。底知れぬ穴の中で、小さな蟲が蠢いている。
「……!」
悲鳴が喉の奥に絡んだ。恐怖より先に生理的な嫌悪感が先に立ち、口の中に酸っぱいものが込み上げてきた。
「……どうしたの?」
少女の声は、心底からクルストの態度を不思議がっているように訊こえる。
「クルスト?」
少女が一歩踏みだし、クルストは一歩下がった。
「大丈夫。瞳は新しいものを入れれば治るわ」
瞳以外のすべてが完璧な少女は、そういってふんわりと微笑んだ。なによりも美しく、それゆえにおぞましい。
「なぜ怖がるの? 私を護って、私を永遠に愛してくれるのでしょう?」
残った死人の瞳が、ぐるんと下を向いた。
「ひ……っ!」
怖じ気づいたように、クルストはさらに後ろへ下がった。この情況でまるで動じず微笑む少女。それはその正体を端的に表していた。
「怖がらないで。もう一度、私を愛してるといって」
「触るな」
少女が縋るように伸ばしてきた指先を、クルストは咄嗟に払った。
「あ……君は……君は一体、なんなんだ?」
表情を表すべき双眸はないというのに、少女は拒絶された指先を宙に残し、哀しげに唇を噛みしめる。
「私──、私……?」
少女は愕然として、口を開いた。言うべきことを今、思い出したかのように。
その瞬間、少女とクルストを繋いでいたなにかが、ぶつんと音を立てて断ち切られた。クルストには見えなかったが、少女は悄然と眼球のない眼窩でそれを見遣り、天を仰いだ。
「私は──そう、私は人形」
まるで歌うような声で。
死の公爵はあの時なんと言った?
──『私の人形を、よろしく』
「あ……あ……」
恐慌状態に陥ったクルストが喘ぐ。その視線を捉えて闇が凝る。『白の湖』で目にしたように、闇は見る間に魔術師の姿を取った。
──『だがひとつだけ条件がある』
「──もしも、お前からその愛が消えたら、と」
銀の瞳をした魔術師が、口許に酷薄な笑みを象る。
「約束したな? クルスト」
初めて彼に名を呼ばれ、クルストは胸に恐ろしく重いものがのしかかるのを感じて、がくりと膝を突いた。
「死よりも重い罰を与えると。……お前はレノーレがなんであろうと永遠に愛すると誓った。だが、今その愛は途絶えた」
異形の杖がクルストの喉元に突きつけられる。
「もしもこの旅でお前の愛が変わらなければ、レノーレは人間となり、お前たちはその先も幸福であれたのにな。見目でしか判断できぬ実に人間らしい結末ではあったが──」
無限と、生と死を意味する漆黒の蛇が、杖の上でしゅるりとほどけ鎌首をもたげる。
「私の人形を悲しませた罰だ。お前には終わらない死をやろう。私は死と死を冠する言葉の支配者。私はお前を受け取らない。永遠に己の愚かさを悔いて、死んだように生きるがいい」
放たれる力が、絶望の帳を引く。
死を斃すと誓いながら、心は裏腹に死ぬことばかりを考え続けていた昔。そしてこの先生きる指針も希望もなく、たったひとり永遠に──?
「……や、め……」
全身を呪縛する耐え難い恐怖に、力なく首を振る。だが異形の杖から形を為した二匹の毒蛇は、容赦なくクルストに襲いかかった。
──う………………ぁぁぁっ!!
白く遠のいていく意識の中で、クルストは声にならない凄まじい絶叫を上げた。
▼ ■ ▲
わざわざ国境まで呼び出した死の乙女たちへ、再び仮死状態にしたクルストを門の外に捨ててくるよう命じて、シヴィルコラックは傍らに跪いた人形を見下ろす。
「──楽しかったか、レノーレ?」
彼はすっかり容色を落としてしまった人形を差し招く。レノーレと名づけた死の乙女の魂は、クルストとの絆が断ち切れた瞬間に消滅してしまっていた。
──思いに殉じた、というべきか。
あの少年は死の病をことのほか憎んでいたようだから、上手くいったにしても皮肉な成り行きではあったろうが。
シヴィルコラックは手ずから少女に新しい瞳を入れてやる。
美しい琥珀の宝玉を。
虚ろに戻ってしまった人形は、元々ひとりの少女を模したものだ。魂の欠片も残さず消滅してしまった、愛しい少女の虚像。
彼女と同じ琥珀の瞳をはめ込むと、人形は完璧にその姿を写した模造人形となった。
胸に甘美な痛みが走る。
「……ノディエ……」
彼が唯一、心の底から望んで手に入れられなかった少女。無表情なその顔を見て、痛みは更に狂おしいものとなる。
魂を入れればそれらしくはなるが、彼はいまだそれに相応しい魂を見つけられずにいた。
「ノディエ……笑ってくれ」
懇願の響きさえ込め、滑らかな頬を指先でなぞる。虚ろな人形は主の命に従い、微笑を浮かべた。感情も持たぬ人形ゆえに、ただぎこちなく。
「死の乙女の方がまだマシに笑ったぞ?」
シヴィルコラックは頬にどうしようもない自嘲を浮かべ、人形の白い額を指先で突いた。
「折角だ。お前もあれらに殉じるがいい……」
ぱしっ、と亀裂の入る音とともに、少女の人形が粉々に砕け散る。まるでその姿こそが命だとでもいうように、欠片も残さず消滅した。あれほどに欲した琥珀の瞳ももろともに。
シヴィルコラックはその痕跡すら見当たらぬ宙を見つめる。
馬鹿馬鹿しい感傷だ。愛した少女を精緻に写したものだからこそ、ほんの少しの差異も許せない。喪失ってどれほどの年月が流れようとも、結局欲しいのは彼女自身なのだ。
人形作りがどれほど虚しくとも、彼女がいない以上やめることはできなかった。彼女と同じものを造り出せる可能性が、わずかでもある限り。
──笑わせる。
この手は、死者を蘇らせることすら可能だというのに。
「──やれやれ。また壊したのか」
唐突に背後から声がかかる。
「造っては壊し、造っては壊しか。そなたの気が知れん」
シヴィルコラックは振り向きもしなかった。
「お前にいわれたくはないな。──少なくとも私には、人間を魔性に変えて鬼ごっこを楽しむ酔狂さの持ち合わせはないね」
「……酔狂? 良い趣向だろう?」
まるで夜の化身とでもいうべき色彩を纏った男はゆったりと笑い、人形の消えた辺りの地面から白い歪な石を拾う。
「賢者の石か……こんなものを動力に使っているとは」
白い石をしげしげと眺める男は、【黒の森】を統べ、血と血を冠する言葉を支配する血の公爵──ウーストレルと呼ばれる。夜を具現する紺青の髪と瞳、青銅の肌、そしてシヴィルコラックに優るとも劣らぬ美貌の主だ。
「なにか問題が?」
シヴィルコラックは軽く肩をすくめた。賢者の石は属性のない莫大な力の結晶体である。稀少なそれを人形ごときに使う同胞に呆れ、ウーストレルは苦い笑みを浮かべた。
「いや、らしいといえばらしいがな。酔狂さに関していえばそなたにはかなわん」
賢者の石をシヴィルコラックに投げ渡し、ウーストレルは思わしげに人形の消えた辺りを眺める。
「……それにしても、灰燼と帰すには惜しい琥珀だったな。我が城のコレクションにもあれほどのものは中々……」
「──相変わらずの目玉収集か。悪趣味なことだ」
「シヴィル。目玉ではなく宝玉といって欲しいものだな。そなたとて千の宝石に優る瞳を知っているだろう。だからこそあれほどの琥珀を躊躇いもなく消し去ったのだ」
ウーストレルの最後の言葉は驚くほど真摯に響き、シヴィルコラックは眉を上げた。
「……お前、いつから覗き見ていた?」
「そなたが出てくる少し前にな。魔界で人間の気配がすれば、気づくなといわれても無理だろう?」
人形に生者の瞳を必要とするため、ウーストレルとは時に気に入った瞳の奪い合いにまで発展することもある。互いに人間との関わりが深いが、感じ方や捉え方はさらに複雑に入り組んでいた。
ウーストレルはふと視線を遠くし、詩を諳んじるようにつぶやく。
「──永遠の愛、永遠の誓い、か。そなた人間に変わらぬものが見たいのだな」
シヴィルコラックは虚を突かれた形になり、非常に不愉快な気分になった。
「……だとしたら?」
「そなたの試みは無駄に終わろう。人間は誓いや契約を破っても物理的にまるで平気な生き物だ。そなたがかつて見た美しいものは、もはや見ることは叶うまいよ」
──その、通りだ。
だからといって、それを諦めることなどできない。奇跡の少女を、いまだ忘れることができないように。
──お前には永劫に解るまい。
シヴィルコラックは視線を上げ、薄い笑みに口の端を歪めた。
「それは忠告か、ウーストレル? だったら余計なことだな」
「……忠告ではない」
頭を振ったウーストレルは大きく息を吐く。
「そなたほど力を持ちながらなお叶わぬ望みがあるとしたなら、それは危険なことではないのか?」
己と等しく闇と憎悪を支配する男がなにをいいたいのかを覚って、シヴィルコラックは剣呑な視線と笑みを緩めた。
「……その懸念はもっともだとは思うが、お前に案じられるとはいささか驚いたな。期待を裏切って済まないが、私は退屈なんだよ。叶わぬ望みのひとつくらいは持っておかないと、死者の王など馬鹿らしくてやっていられない」
力と引き替えに課せられた属性を軽々と否定する死の公爵に、ウーストレルは苦い感情を噛み殺す。
闇の世界に君臨する七人の公爵はそれぞれ別個の属性を持つが、成り立ちもそれぞれである。ウーストレルは人間から転生し、望んでその力を得たが、シヴィルコラックは初めから【死】を統べるために誕生した存在だ。表層上は見透かせても、本当の意味で理解できるはずもない。
だからこそ一抹の不安を感じてしまう。
自分たちにとって闇も憎悪も狂気でさえ、それが負のもとに生まれたものならすべてが支配下にある。絶望さえも。
それを容易く抱ける人間はある意味において幸せだ。魔の者は須くが望みを絶つこともできず、志半ばで死ぬこともできない。力があればあるほど、諦められるものではない。ましてや七人の同胞の中でも一、二の力を持つこの男であれば。
気の毒だというより、自分にも覚えのある感情に正直背筋の凍る思いがする。絶望よりも質の悪いそれと、シヴィルコラックはこの先どう折り合いをつけるつもりなのか。
「……解っている」
不意に、シヴィルコラックがつぶやく。なにが、とはウーストレルも問わなかった。
気ままに魔界を照らす【無】の城が上空を横切る。シヴィルコラックはそれを眩しげに見上げ、もう一度つぶやいた。
「解っているとも」
──と。
それ以上さして話すこともなくウーストレルが去って、シヴィルコラックは手の中の賢者の石を鈍い光に翳した。
塔に戻って、またこれを収める器を造らなければと思う。
──今度こそは完璧なる少女を。
少なくとも人形を造っている間は忘れていられる。
ウーストレルが怖れているのは、絶望の果てにあるものだ。
──解っているさ。
決して覗いてはいけないもの。それは永遠に暴いてはならぬもの。
人間にとって忘却と死は救いにもなる。ならばこの身にとっての救いとは──
くつりと笑みを零して、シヴィルコラックは漆黒の長衣を翻す。
「……別に救われたいわけではないがな」
その低い囁きを聞くものはない。
そうして、彼は少年と少女が何日もかけて歩いた距離を瞬きで渡る。あの少年はこの先、与えられた永遠の呪いをどう生きるのだろう。
脳裏に浮かべた少年は、彼の少女を思い起こさせる美しい琥珀の眼差しをしていた。
だがそれも一瞬のこと。
死の王が、束の間すれ違った少年を思い出すことは二度とない。
その胸の底には常より深く、昏い虚無と嘆きが救ってはいたけれど。
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その後──
ズィグムントの聖剣を持つという勇者が、数多くの国で長きに渡り活躍したという。
その素性は明らかでなく、その年月から不死であるのだとまことしやかに記すものもあったが、聖剣は同じ名の子孫に代々受け継がれていたようだと、史記にはある。そして実際に、彼らの名は正書、偽書に関わらず二百年もの間あちこちの文献に見られた。
いつしか名が消えたのは、家系自体が絶えてしまったのだとする説と、剣を封じどこかに隠遁してしまったのだという説がある。
真偽はまるで定かではない。
史書に繰り返し刻まれた彼らに姓はなく、名を──
──クルスト、と。
歴史からその名が途絶えて以降、ズィグムントの剣とともに彼らが語られることは二度となかった。
読んで頂きありがとうございます。
3話〈時の公爵〉の話はいずれ。