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死の華 -Toten Blume- 嘆きの王  作者: ハルヲミ
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嘆きの王 前編







 ぐしゃり、と。

 彼は(てのひら)の中で一対のそれを握り潰す。

 美しい指の間から暗く紅い液体が(したた)り、嗅ぎ慣れた甘い液体が鼻腔を刺した。一瞬前まで愛おしいとさえ思っていたそれが、今はたまらなく(いと)わしい。

 白い手首までを伝っていた真紅は、主の不快げな視線にあって、恥じ入るように消滅する。

 ──(いや)、むしろ滅することを許されたというべきか。

 もはや刃の色をした長い爪にも、青白く端正な指先にも、その痕跡はない。潰されたはずの死者の瞳も。

 染みひとつ、(けが)れひとつない掌が、再びきつく閉ざされる。

 悔しげに。

 この世界に思い通りにならぬことなど、数えるほどしか持たなかった。生きとし生けるものすべてが彼のものであったし、そうでないものもいずれは彼のものになる。

 例外は彼と同格である六つの存在だけ──。

 ──なのに、何故。

「……なぜお前だけが、思い通りにならない?」

 彼は銀色の眼差しを突き刺すように背後へ向けた。つぶやきは怒りよりも微かな苦渋に満ちている。

 漆黒の空間を背に、王侯が腰かけるのに相応しいようなビロード(天鵞絨)の長椅子が置かれてあった。座っているのは少女だ。豪奢な蜂蜜色の金髪と、しなやかな肢体の美しい少女。

 ミルク色の肌に薔薇色の頬、(あで)やかな唇は淡い薄紅。高すぎぬ鼻梁はすっきりとしていて、眉は優美な弧を描いている。蜜色の睫毛は眠るように伏せられ、その双眸を窺えないのがいかにも惜しい。

 だが瞳が閉ざされていてさえ、少女は完璧な美貌の持ち主だった。身を包む白絹のドレスは裾や胸元に金糸で華麗な刺繍が施されたもので、縁は繊細なレースで飾られ、足下に覗く小さな靴も、肘までを覆う手袋、それらに絶妙のアクセントを与える宝飾品の数々も、すべてが髪の色までよく考慮した最高級品である。

 この世でもっとも美しく、また少女にもっとも相応しいものを、彼が与えた。その体内に埋め込んだ小さな心臓──永劫に動き続ける賢者の石(アスフォーデル)と同じように。

「ノディエ」

 (いら)えがないのを承知で、彼は少女の名を呼んだ。

 厳密にいえば、それは今ここにある少女自身(うつわ)の名ですらなく──

「……ノディエ」

 遠い過去に失った少女の幻影、妄執の果て。

 掠れた声音の囁きは、悲痛な嘆きに彩られていた。



    ▼   ■   ▲



 東に黒き森があり、魔の国へと繋がる扉があるように、北にも白き湖があり、やはり魔の国へと通じる(ゲート)がある。

 幾つもの山を越え、世界の果てとも思われる地に、その湖はあった。湖水が白いのではない。湖水を(たた)える器こそが白いのだ。

 水を囲む岩盤と、それゆえに白い湖底の砂と。波に洗われた白い小石が岸辺を覆い、風雨に晒された白い奇岩の群れが小さな塔のように(そび)えていた。

 決して枯れることのない湖水はけれども、命を育む役には立たない。白い石から溶け出す毒素がありとあらゆる生命(いのち)を拒む。極めて清浄に見えるというのに、獣を殺すなら一口、人を殺すならグラス一杯も必要なかった。

 だから【白の湖】は死の湖である。

 そして、そう冠された以上、この湖は紛う方なく【死】のものであった。



    ▼   ■   ▲




 なぜ人間は死ぬのかと、誰もが一度は思うとしよう。

 百人いたとして、その内の九十九人は仕方がないのだと諦める。生まれた以上、死ぬのは当たり前のこと。定められた時を定められた時まで生きることが宿命(さだめ)であると。

 だが、残りのたったひとりはこう思う。

 ではその宿命とは、一体誰が決めたのだ、と──

 神が決めたとしてその神はいずこに。また、神に近しい魔の者がいたとして、それが死を支配するというなら、魔を打ち破る手段(すべ)はどこにでもある。

 九十九人は、たったひとりの狂気を笑うだろう。その愚かさを嘲って、たったひとりを排除するかも知れない。

 けれどもし、そのたったひとりがそれを為したなら、それでも人は彼を狂人と呼ぶのだろうか──?



 ここにひとりの少年がいる。

 あまりに多く死せる者たちを間近に見続け、憎悪と狂気の淵に落ちた少年だ。

 死霊の王、すべての死と死を冠する言葉の支配者、【死の公爵】と呼ばれる魔を倒すためだけに聖剣を欲し、幸運にもそれを与えられた。

 少年の名をクルスト。

 黄金の髪、琥珀の瞳。聖剣を持つ彼を狂人と呼ぶ者はいない。それにクルストは賢明にも【死】を討とうとしていることを、誰にも話したりはしなかった。

 彼は誰も、なにも信じていなかった──神でさえ。

 時に破滅を、時に恩恵を施すという気まぐれな魔のものたちは夜を跋扈(ばっこ)し、確かに存在しているというのに、神はその姿さえ伝わらず存在するのかどうかも不確かだ。

 その上なにも救わない……誰も救われなかった。そんなものを、今さらどうして信じることができよう。

 だが神の存在を疑うことは、神の名が刻まれているという【ズィグムントの剣】の所有者として、相応しからぬことだった。その矛盾に少年はまだ気づいていない。【死】を滅ぼせば一族を襲った死の病(クーガ)も絶え、その復讐が果たせるのだと一途に思い極めていただけだ。

 十の年から七年をかけ、やがてクルストは死の湖に辿り着く。世にも美しい、真っ白な湖に。

 そして待つ。

 夜と闇を統べる魔の君がひとり【死の公爵】──

 シヴィルコラック(背くもの)を、ただ。



 白い湖畔に待って、ひと月も過ぎる夜。

 クルストは鏡のように()いだ湖面をじっと睨んでいた。

 ぎりぎりまで持たせた食糧や水は尽きてしまっている。一度ここを離れて補充する必要があったが、毒に冒されていない場所まで山ひとつは確実に離れていた。

 安全な水場を探し、狩りを済ませて戻るのに最低七日。手間取れば幾日かかるか解らない。その間に目指す相手が現れてしまったらと思うと、なかなか移動する踏ん切りがつかなかった。

 といって、飢えと渇きに体力を奪われてしまえば、移動も困難になる。そうなれば【死】を(たお)すどころの話ではない。本末転倒だ。

「……仕方ないな」

 この夜が明けたら移動しようと決心し、クルストは色彩のない湖を見つめる視線の緊張を解いた。

 外套も必要のない暖かさであるというのに、芯から寒々としてしまうこの世ならぬ情景。獣や人はともかく妖魔の類さえ近寄ってこない。命の気配がまるでない環境は、思っていたよりずっと辛いものだ。

 眺めていると、わけもなく不安になる。自分はちゃんと生きてここにいるのだろうか? 本当は死んでいて魂だけでここにいるのではあるまいか、と。

 無論そんなはずはない。だがすぐにそんな(らち)もない疑念や不安に蝕まれてしまう。それが己の弱さゆえなのか、この場所が持つ尋常ならざる魔力の所為なのかは解らなかったが。

「……?」

 我知らず両手で顔を覆っていたクルストは、ふと妙な気配を感じて耳を澄ます。

 波の音。

 だが常とは違う。湖面を走る緩やかな波紋に気づくまで少々。微かな振動が空気を伝わり肌に届く。

 ざわり、と。

 いきなり全身が総毛立った。まだなにも知覚できていない。恐怖すら生まれていないというのに──

 咄嗟に立ち上がったまでは良かったが、クルストはそのまま金縛りにあったように動けなかった。見開いた琥珀の瞳を閉ざすことさえ。

 逸らせぬ視界の中で、白い湖面の中心に真っ黒な闇が生じているのが視えた。

 毒の水を震わせ、ゆっくりと膨らんでいくばかりだった闇は、突然その役割を果たしたかのように凝縮してゆく。跡形もなく消え去るのかと思えたそれは、曖昧な輪郭の人型を取って止まった。

 やがてそれは水の上を氷上のように、滑るように渡ってくる。明らかにこちら側を目指して来るというのに、いまだ呪縛されたままのクルストは剣を構えることさえできずにいた。

 漆黒の影が近づいてくるにつれ、いよいよその人物の外観がはっきりと見えてくる。すらりとした長身、漆黒の長衣(ローブ)頭巾(フード)は深く下ろされ、手には異形の杖。それはどう見ても魔術師(ヴラジトール)を意味した。

 その瞬間、指先を駆け上ってきた戦慄を一体なんと表現すれば良かったろう。

 畏怖? それとも歓喜か?

 ──奴だ……!

 憎悪が、否──別のなにかが、その衝撃をいとも容易く駆逐する。躰の呪縛が解けた瞬間を見逃さず、クルストは足下の剣を拾い上げた。

 抜いた(さや)を投げ捨て、正眼の位置に構えるまでの一呼吸。

 考えてみれば、すぐにそれと覚らなかった己がどうかしていたとしか思えない。聖剣を手に数多の妖魔と戦い、(ほふ)ってきた自分を縛るほどの気配の持ち主など、そうそう存在するはずがなかった。

 ──ようやく。

「まずは……僥倖というわけだ」

 低くつぶやき、クルストは乾ききった唇をぺろりと舐めた。気分が恐ろしい勢いで昂揚していくのが解る。少年の身で七年という歳月はあまりにも長かった。それこそ本来確かに持っていた善なる性質が、(いびつ)に変質してしまうほどに。

 湖を渡りきろうとしていた魔術師(ヴラジトール)は、クルストが向ける不躾な殺意に気づいたのか、ちらりと頭巾に隠れた顔を向けた。唯一隠れていない端正な口許が、笑みの形に吊り上がる。

「──私の湖に人間とは珍しい。だがここは生者にとって好ましからざる土地柄だ。命が惜しくば、()く去れ」

 気怠げな声音は、訊くものの魂を直に震わせる不思議な美しさと力に溢れていた。クルストはその(おのの)きを捻じ伏せるように大きく息を吐く。

「生憎と、特に惜しい命じゃないんでね。【死】を、あんたをここで殺せるんなら、幾らでもくれてやるさ!!」

 ぎらぎらと双眸を輝かせ、クルストは魔術師の喉元に刃を突き入れる。十分に鋭い斬撃は、あろうことかほんの半歩避けるという動作に空を切った。

「ほう……これは驚いたな。ズィグムントの聖剣か」

 魔術師は悪意のない感嘆の声を洩らす。その間にも繰り出すクルストの剣は、闇で織ったような黒衣を掠りもしない。

「……くっ……!」

 相手が最上位の魔の者だということを差し引いても、それは異常なことだった。クルストの持つ剣は魔と闇を、瘴気さえ切り裂く聖なる剣だ。その前にあれば魔はことごとく力を削がれ、ましてやこれほどの至近距離にあれば、それだけで苦痛を与えるはずの。

 ──それなのに……っ!

 顔を歪め、渾身の力を込めた横薙ぎの一閃を放つが、これも手応えは虚しい。

 クルストが打ちかかり、魔術師が避ける……一方的な、しかし体力ばかりを削っていく戦いは半刻あまりも続いた。

 息が切れ、気持ちばかりが先に立つ。剣の返しが遅くなり、躰が泳いでたたらを踏んだ。その刹那──

 正面にあったはずの気配が霧消し、次の瞬間には背後から肩を掠めて漆黒の杖が伸びていた。異形の杖がクルストの顎の下を捕らえる。

「剣を引け、ズィグムントの遣い手よ。お前では私に傷ひとつ刻むことは叶うまい」

 明らかな嘲笑を含んでいたとしても、その言葉は死の王に似つかわしくない、慈悲の言葉であったろう。

 ──……ここまでか……。

 ぎり、と唇を噛み、クルストはゆっくりと躰の力を抜く。指先が白くなるほどに握りしめていた柄が手から離れ、落ちた剣はその重さだけで白石の岸に刃の中程まで深く突き刺さった。衰えのない切れ味を確認しつつ、クルストの頬にどうしようもない自嘲が浮かぶ。

「……殺せ。俺の負けだ。聖剣をもってしてもまるで歯が立たないとはな」

 肩をすくめ、剣の前に腰を下ろす。敗北のツケは命で贖うものだった。

 杖を引いた黒衣の死神は、さも可笑しげに喉を鳴らす。

「いいや、聖剣は我らにとって十分に不快な存在だよ。相殺することを傷つけるというなら、確かに闇を傷つける唯一のものだからな。──だが滅することはできない。私を滅するには、私と同じだけの質量の光が必要なんだよ、坊や」

 くだけた物言いは、荘厳な佇まいをした魔術師の姿に相応しいものではなかったが、口許に揺蕩(たゆた)う皮肉げな笑みと物憂げな声には似つかわしい。

「……じゃあ、どうして」

 仮にも剣士の端くれとして名を為した身としては、腕が足りないとは思いたくなかった。レベルが違うといえばそれまでだが、それではあまりに救いがなさ過ぎる。

「お前では、といったろう? 強さの糧が憎悪では、聖剣としての属性が反発するのさ。憎しみも悪意も、主たる私を傷つけることなどできない。お前の手にあるズィグムントの剣は属性そのものを失って、今や切れ味のいいただの刃物だ。残念ながら信じないものに力を貸せるほど、光も闇も万能じゃない」

「……もし俺が神を信じていて、あんたを憎んでいなければ、あんたを倒すことができたということか?」

「さて、傷のひとつくらいは刻めたかも知れないがね」

 顔の見えない魔術師は、さっきクルストがしたよりずっと優雅に肩をすくめて見せた。

 応えを訊いて、クルストは深い溜息を吐く。なるほどそれでは叶わぬ道理だ。それにしてもこの死の公爵は、随分と親切に自分の問いに答えてくれた。悪意の主といいながら、悪意を感じ取れないのは強者の余裕というものだろう。

「万全で挑んでも傷ひとつか……ならば力及ばなかったと嘆く必要だけはないんだな」

 死を、目の前に佇む魔術師を見上げ、クルストは微笑する。故郷を出て初めて本心から笑えたような気がした。

 凪いでしまった心とは裏腹に、躰の芯へまだ熾火(おきび)のような熱いものを残している。戦意はまったく残っていなかったが、この熱が去るのは惜しいと思う。だがそれも死ねば永遠に消える。

 笑みが微かな苦いものに変わった瞬間、不意に視界が歪んだ。痛みはない。

 頭上で魔術師がなにかいったが、耳鳴りが邪魔をして訊き取れなかった。頬に冷たい感触がする。上手く働かない頭で、これが死なのかと考えた。

 ああ、【死】が覗き込んでいる。鋼の色をした美しい眼差しが不機嫌そうだ。なぜだろうと首をかしげた意識はそれきり途絶えた。



「…………面倒な」

 座り込んだ姿勢から突然崩れ落ちたクルストに向け、シヴィルコラックは大きく舌打ちをする。

 白い石の吐き出す毒にやられたのだと解ってはいた。毒は水ばかりでなくこの辺りの大気をも(むしば)んでいる。このまま放置しておけば、死ぬのは時間の問題だろう。

 だが──

 愛しかった少女と同じ、琥珀の瞳。

 捜し物が早々に見つかったことは幸運だったが、死者のものでは(まず)い。そして死者のものなら彼のものであったが、生者のものを手に入れるには契約が必要だった。

 人間から見れば万能にしか思えぬ魔の者も、存在する以上は見えぬ(ことわり)に縛られている。人間が容易く破ることのできる禁忌や道徳と違い、その理は絶対のものだ。

「──仕方あるまい。丸ごと持ち帰って蘇生するか」

 心底面倒そうにいって、シヴィルコラックは異形の杖で地面を二度叩いた。

「お呼びにございますか、我が君」

 白い地面から、普段は近寄ることも許さない死の乙女(クーガ)たちが現れる。蒼白な顔色の、美しい女たちは主の前に次々と(ひざまず)いた。

「これを私の塔に。丁重に扱え。──大事な客だ、……今のところはな」

「承知いたしました」

 深々と(こうべ)を垂れた死の乙女たちを一顧だにせず、死霊と死者の王たる公爵の姿がかき消える。

 やがて、仮死状態にされた少年の躰を死の乙女たちが恭しく持ち上げた。冷酷な主の言葉が彼女たちにとってはすべてだ。主の名を冠す湖の上を葬列のように粛々(しゅくしゅく)と渡る。

 そうして、再び生まれた漆黒の扉に消えていった。



    ▼   ■   ▲



 巨大な二匹の蛇が、(サークル)の中で不可思議な紋様を刻んでいる。尾を喰らい合い、絡み合い、(ねじ)れて、まるでなにかの文字を表しているようだ。

 どこかで、見たことがある。

 ──無限。

 始まりと終わりを呑み込んだ蛇は、破壊と再生、生と死を意味したはずだ。

「……生と死……どこで」

 己の声が耳に届き、クルストは唐突に覚醒した。

 見覚えのない高い天井。のたうつ蛇のレリーフ。記憶がどこからかふっつりと途絶えている。横たわったままぐるりと辺りを見回せば、ざらりとした石造りの壁が視界に入った。

 壁は緩やかな角度で湾曲(カーヴ)している。どうやらここは円形の建物であるらしい。

 慌てて起きあがって途方に暮れる。とにかく無駄に広い部屋だった。窓はなく、扉がひとつ。調度といえるものは、クルストが座る大きな寝台と、水差しの載った小さなテーブル。暗くはないが、照明らしき灯りもないのに明るい理由が理解できない。

「ここは……?」

 テーブルの横には剣が立てかけられていた。己の剣──ズィグムントの聖なる剣。真っ白な毒の岸辺に信じがたいほど深く突き立っていた。自分の所為で属性を失い、本来の役割を果たすことのできなかった、哀れな聖剣。

 ──ああ、そうだ。

 連鎖するように記憶が蘇って、クルストは琥珀の双眸を見開く。自分は【死】と戦って無様に負けて、そして──

「……なんで生きてるんだ……?」

 自問自答にしてはあまりに間の抜けた問いだ。その所為かどうかは知らないが、酷い頭痛がした。

「……ええと、確か」

 痛みに耐えかねて蟀谷(こめかみ)を押さえる。確かあの時、突然意識かぼやけてきて【死】がなにかいった。だから死ぬのだとなんの脈絡もなく思ってしまっていたのだが。

 あの不機嫌そうな銀色の美しい眼差し……刃のような瞳には、はっきりとした苛立(いらだ)ちがあった。

 ──苛立ち……?

 クルストは座り込んだまま、なんとなく辻褄の合わぬ記憶に煩悶(はんもん)する。頭痛が治まるまでの間しばらくそうしていて、やがて考えることを放棄した。

 思い出せるかどうかも解らないものに努力を傾けるより、ここがどこなのかを知るために動いた方がまだしもである。

 さっさと思考を切り替えたクルストは、寝台から立ち上がる。着ているものは寝間着のようだったが、寝台の上に衣服が置かれていた。色合いが同じなのでてっきり自分が着ていた服だと思ったが、着てみると数段質のいいものだった。寝台の脇には新しいブーツもあり、クルストは疑問を捻じ伏せてありがたくそれらを甘受した。

 身支度を整えて扉に向かう。窓がないことを思えば、地下なのかも知れない。閉じ込められている可能性も考えつつ扉に触れたが、重厚な木材で作られた暗い飴色のそれは、呆気ないほどにすんなりと開いた。

 滑らかに磨かれた石の階段。上下に続く階段は後も先も見えない。どうやら部屋のある空間を中心に壁の外側を螺旋に上る塔のような建物だと思われる。

 扉から足を踏み出したクルストは迷いなく上ることを選びつつ、ぞくりと躰を震わせた。まるで上に待つ運命を予感するように。



 とはいえ、行けども行けども終わりのない階段。扉の一枚も見つけられぬまま、ひたすら上る。その距離ときたら戻ることを考えるのも辛いほどだ。

 大人三人が並んで歩ける広さと高い天井のお陰で、四方を石に囲まれているという圧迫はそれほど感じない。どこにも灯りが見当たらないのは部屋と同じだ。燭台も、蝋燭も見つけられなかった以上、この際なにが光源だろうと構いはしない。いつ果てるとも知らない道を、照らし続けてさえくれるなら。

 終わらない階段、見つけられない扉。

 この階段はまるで明けない夜に似ている。いつかは明けるのが夜だとしても、その瞬間は決して明けない。今ではないと、嘲笑うように。

 クルストはずっと死の公爵を斃すことだけを思って生きてきた。一族の仇、父母の仇。己の道をこんな風に歪めた【死】を憎み、求め、流離(さすら)い……。

 だが、今なら解る。

 なぜ、自分だけを見逃したのか。なぜ、皆と一緒に死なせてくれなかったのか。

 恐らく自分は【死】にそう問い続けてきたのだ。

 本当は死にたかった。憎悪がなければ生きていくのも困難なほど、自分はたったひとりだったから。

 本当はもう父の顔も母の顔も思い出せない。死んでしまったものを、当時のまま愛し続けることはできない。少なくとも永劫には。結局、持続したのは憎しみだけ。

 では。

 ──それさえも失ってしまいそうな今は。

 クルストは奇妙な彫り物の走る天井を見上げ、ゆっくりと目を閉じた。湧き上がってくる絶望を心の奥底に押し込める。でないと、一歩も歩けなくなる。

 怯懦(きょうだ)を振り払うように頭を振って、クルストは琥珀の眼差しに力を込めた。

 ふと、十段ほど上った内側の壁になにかが見える。湾曲した壁に合わせてはめ込んだ……それは凝った彫り物を施した木の扉だった。

 砂漠で沃地に辿り着いたかのごとく、クルストは駆け上って扉に触れる。消えてしまうのではないかという怖れもあったのだが、扉はただ触れただけで奥へ沈むように開いた。

 ノックもなく他人の部屋に踏み込む不作法はどうかと思う。しかしまあ、扉の方が開いてしまったのだから仕方がない──と、まるで盗賊の言い訳を浮かべ、クルストは中の空間にその身を滑り込ませた。

 暗く、広い。

 階段を照らしていた明るさと比べれば、室内はずいぶんと光量が落としてあった。瞬くような不安定な光源は中央のみを照らし、それゆえに壁が闇に溶け込んでしまっている。さらによく見れば壁も床も黒い滑らかな石で出来ていて、まるで灯りに照らされている中央部分が、闇に浮かんでいるようだ。

 毛足の長い豪奢な絨毯。その上に配置された凝った造りの調度類は、クルストの目から見てさえ途轍もなく高価なものだと解る。なのに色彩自体は抑えめで、全体的な調和や品格が重んじてあることから、部屋の主の趣味の良さが窺い知れた。

 まさに貴人の部屋だ。

 絨毯の四隅と中央のテーブルに置かれた燭台が、絶妙な揺らぎで辺りを照らしている。けれども人間の気配はなく、クルストは少々落胆しつつも灯りの中に進み出て、そこに信じ難いものを見いだした。

 暗いルビー色の長椅子。普通より広く作られた肘掛けに(もた)れ、美しい少女が貴婦人のようにゆったりと腰かけていた。

 美しい……? 否、そんな言葉ではとても足りない。

 長く柔らかそうな巻き毛は蜜のよう。その肌はミルク色で、面立ちは絶妙に整い、ほっそりとした肢体は優美以外のなにものでもない。金糸の刺繍が入った愛らしい白いドレスがそれらを見事に際立たせ、まるでこの世の儚く美しいものをすべて集めて造られたかのような。人形とてこれほどに完璧ではあり得ない。

 健やかで(かぐわ)しい吐息を立て、少女は眠っている。その双眸はどんな色彩をしているのだろう。

 クルストは少女に心奪われ、ただ陶然とその姿を見つめていた。

 どのくらい少女を眺めていたのだろう。おそらくは永劫に眺めていても飽きはしない。だが、少女を目覚めさせたいという誘惑には抗えなかった。声をかけよう、そう決心してからもクルストは一歩踏み出すことを躊躇う。何度か繰り返して、思わず吐いてしまった溜息は予想以上に大きく、それが少女の長い金の睫毛を震わせた。

 双眸が開き、自分を見つめてくれることを切に願う。その眼差しが己を見つめるその瞬間のためだけに、クルストは信じてもいない神に祈った。

 そして願いは聞き届けられる。まさか神が叶えたわけではあるまいが、少女はつぶらな瞳を開き、確かに無礼な闖入者を見つめたのだ。

 それはまるで美しく磨かれた蠱惑のエメラルド。どこまでも硬質な輝きで射抜く、深い深い森の緑。

 一番不安だった嫌悪の色はなかったが、その双眸が困惑に翳り、クルストの胸に刺すような痛みが走った。

「……貴方は、誰?」

 柔らかく、清雅な声音。

 知らぬ間に、なにか恐ろしい罪を犯してしまったような気がした。



    ▼   ■   ▲



「さて」

 と、シヴィルコラックは暗闇に座して、美しい指先を組む。

 クルストの躰から毒を抜き回復させてやったのは、その珍しい琥珀の双眸を欲したからだが、クルストか目覚め塔を上り始めた時、ちょっとした座興を思いついた。

 そもそもクルストのように欲があるわけではない人間と、魔が契約を交わすのは至難である。契約とは、その望みと引き替えに奪う権利を得ることだ。

 逆の申し出をするのは不快だし、ならばなにに替えても欲しいと思うものを与えればいいのだと気がついた。

 彼は他の同胞(はらから)たちと比べ、その属性もあってか元より人間と関わるのが嫌いではなかった。むしろ好きだといってもいい。

 その儚さを愛しいとさえ思うのに、残酷な遊びを止められない。かつてたった一度だけ犯した過ち──それゆえの慚愧(ざんき)を薄めるように。

  たとえなにを失っても得たいと望むもの──か。

 シヴィルコラックは闇で造った鏡を眺める。映っているのは向き合ったままの、まだ年若い少年と少女。

 くつり、と喉を震わせ、彼は滴るような魅惑の声音で囁く。


「──さあ、第二幕の始まりだ」


パソコンから投稿できないのはなぜだろう……(´;ω;`)ウッ

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