人の願い、狼の心
私は、この山が好きだ。
仕事を辞めてここで暮らすようになってから、それまでの荒廃した自分の心が、嘘のように安らいでいった。
人間関係のいざこざ。他人を貶め、優位に立とうとする者たちの醜い内面。そんなものを見なくてもいい毎日。
周りを気にせず、自分らしく生きていける居場所を、定年間際になってようやく見つけることが出来たのだ。
共に移り住んだ妻も以前より笑顔が増え、ここの暮らしを気に入っていたらしい。
けれどそんな幸せも長く続かず、10年前に妻はこの世を去った。
一人の寂しさはもちろんある。
しかしこの山には、日々移り行く自然がある。
穏やかな春の木漏れ日や、激しい雨。優しく見守ってくれるようで、決して手を差し伸べてはくれない自然。
変わらないようで少しずつ変化する毎日。
生活すること自体が試練。そんな日々を過ごしていると、寂しさなどちっぽけな感情だと思えた。
そして、季節はあっという間に移ろいでいく。
ヤウルとの出会いは、ある凍てつく雪の夜だった。
真夜中。
吹雪と隙間風に雑じり、不規則にドアを叩く音に私は目を覚ました。
ここには来訪者など来ない。しかもこんな悪天候の夜に。
不審に思いながらもドアを開けると、目の前には誰もいない……いや、視線を落とすと、そこには一匹の痩せ細った白い狼がいた。
「なっ……」
言葉を失いつつそいつをよく見ると、口には小さな赤ん坊の狼が咥えられている。
白い狼は赤ん坊を雪の上にそっと離すと、まるでお辞儀をするように頭を下げ、またふらふらと吹雪の中に消えていった。
私はただ呆然とし、まるで超常現象のようにその後ろ姿を見送った。
足元の赤ん坊狼はぐったりと泣くこともせず横たわる。
冷たくなった小さな体を拾い上げ、私は必死に人肌のお湯で温めた。
数分後、小さな狼はうっすらと目を開ける。
その瞳には、確かな生命力が感じられた。
「お前……生きたいのか?」
◇
その後、私の不慣れな世話にも関わらず、赤ん坊だった狼はその名に相応しい姿に成長する。
灰色の体毛は艶があり、凛とした黄色い瞳。
じっとしていれば、まるで神話にでも出てきそうな美しい姿に、私は『ヤウル』と名付けた。
「これ、ヤウル! 家の中で走り回るんじゃない!」
<ワフ! ワウワウ!>
前言撤回。
美しいのはその見た目だけで、ただの落ち着きの無い子供と同じだ。
一体何がそんなに楽しいのか、ヤウルは飽きずに狭い小屋の中をよく駆け回った。
鍋や壁に掛けてある調理器具はそこらじゅうに散らばり、何度頭からシチューを被る羽目になった事か。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったが、ヤウルとの生活で、その子育ての悩みが少しだけわかるような気がした。
◇
月日は早く、あっという間に三年が経つ。
日に日に大きく成長するヤウルは、次第に私の言うことを理解するようになる。
一日中はしゃぐ子供のようだった頃に比べ落ち着いたが。
年老いた私は、自分の事にも支障が出るようになった。
時折感じる激しい息苦しさ、骨が軋むような痛み。
狩りに行ける回数も、明らかに減っている。
ここで暮らし始めて健康的な日々を送っていたはずだが、どうやらここに来て昔の不摂生が祟ったようだ。
やはり生き物は、寿命というものには逆らえないらしい。
同じベッドで眠るヤウルの尻尾を撫で、私は毎晩、自分が死んだ後の事を考えるようになっていた。
私は今まで、ここで狼を見たことはない。
少なくとも、私の行動範囲には生息していないのだろう。
だとしたら、ヤウルの母親は一体どこからやってきたのか。
私は古い友人の事を思い出し、僅かな希望を持って一通の手紙を出すことにした。
その友人は生物学者で、長くこの辺りの生態系を調べている。
山暮らしを始めたのも、その友人の勧めからだ。
暮らし始めてから連絡はしたことがないが、彼ならば何か手がかりを持っているかもしれない。
そして、木々が赤く色づいてきた頃、彼からの返事は届いた。
『突然便りをよこして何かと思えば、狼の居場所を知りたいだと?
ふん、簡単に言いやがって……ワシがどれだけの時間を研究に費やしたと思っているのか。
だが、他ならぬお前の頼みだ。
冥土の土産に教えてやってもいいだろう。
お前の山小屋から、常に雪の積もった山が見えるだろう?
その山の頂上に、狼の群れが生息している。
この辺で狼は、もうそこにしか生きていないんだ。
詳しい地図を一緒に送る。気になるなら、一度行ってみるといい。
今ならまだ、雪は山頂にしか降らんだろ。
車でもかなり時間がかかるが、山道にはくれぐれも気をつけるんだぞ』
私は眼鏡をずらし、一緒に入っていた地図を見る。
学者らしく細かく丁寧に描かれているが、なにせ昔から字が小さ過ぎる。
しかしようやく掴んだ手がかりだ。
私は重い荷物を降ろしたような、ホッとした気持ちだった。
「ヤウル……今度、少し遠出をしようか」
椅子の下で寝そべっていたヤウルの頭を撫でると、ヤウルは尻尾を振ってワンと鳴いた。




