第4章 魔法教育教会の戦い
彼は、パリの空を見上げる。
そこには、学園都市、未来都市、科学都市――自分たちの家へと繋がる衛星ネットワークの光が瞬いていた。
「科学連合国が負けたら、あそこが焼かれる。妹も、幼馴染も、仲間も、全部だ。……だから、ここで引けない。お前らも同じだろ?」
マヤは、悔しそうに唇を噛む。
「そうだよ。科学に家族を奪われた子も、魔女狩り計画で傷ついた子も――みんな、ここにいる。だから私も、引けない」
二人の間に、再び魔力と演算の光が満ちていく。
そのとき――
教会本棟の鐘楼から、古めかしい鐘の音が鳴り響いた。
低く、重く、戦場の喧噪を押し流すような音色。
「……あの鐘は」
マヤが顔を上げる。
科学兵隊の通信機にも、同じ瞬間、暗号信号が届いた。
こちら魔法同盟国軍本部――最大主教、指揮権を行使する
短いフランス語の文が、流暢な日本語訳と共に流れる。
テル・アルス――魔法同盟国軍の最大主教の名が、通信に刻まれていた。
「ついに、上が出てきたか」
芳樹は、ほんの少しだけ目を細める。
「リオ・トレールも、たぶん動く。リン、お前の家族も、こっちの戦場に来るぞ」
遠く前線通信拠点のモニター越しに、その言葉を聞いたリン・トレールは、強く拳を握りしめた。
「だったら――」
彼女の瞳に、パリ郊外の森と石造りの教会が映り込む。
「この第三次世界大戦で、絶対に奪わせない。科学も、魔法も、私の家族も」
パリの空に、再び光と炎と雷の線が交差する。
科学と魔法が互いの家を賭けてぶつかり合う、その最初の大きな戦いは、
まだ、始まりに過ぎなかった。
鐘の音は、戦場の喧噪を裂くように鳴り響いていた。
重く、深く、あらゆる魔力と振動を押し流すような余韻が、石畳と空気の奥まで染み込んでいく。
「……最大主教の鐘だ」
吉崎マヤが小さく息を呑む。
魔法教育教会の誰もが幼い頃から聞かされてきた「絶対の合図」。――聖なる儀式か、総力戦の号令か、そのどちらかだ。
次の瞬間、頭の中に直接、澄んだ声が響いた。
――魔法教育教会の子どもたちへ。ここは、君たちの家であり、戦場だ
テル・アルス。魔法同盟国軍最大主教。
遠く離れたパリの塔から放たれた声は、魔力通信を通じて、広場の一人ひとりの心に届いていた。
恐れるな。科学連合は、我らの大地を踏み荒らした。
だが同時に、彼らもまた守るべき家を持つ者たちだ
(そんなこと、分かってる。でも――)
マヤは歯を噛む。
科学に家族を奪われた夜の記憶が、脳裏でちらついた。
ゆえに、命じる。
教師と上級生は戦え。だが、幼き者たちを守る手を決して離すな。
――我らは、家を守るために戦う。復讐のためだけに戦うのではない
その言葉に、ほんのわずか、マヤの胸の奥の棘が揺らいだ。
(テル様……)
同じ声が、科学連合国側の通信機にも翻訳を介して届いていた。
「最大主教が、正面から家を守る戦争だと言い切ったか」
砕けた柱の陰で、佐藤芳樹は眉根を寄せた。
指先に集めていたベクトルの演算を、一瞬だけ緩める。
「お兄ちゃん、どうするの?」
瓦礫の上に立つ芳美が、鋼鉄の翼をゆらりと揺らす。
その足元では、科学兵隊が魔法防御陣との最前線を維持しつつ、じりじりと前進していた。
「……駄目だこりゃぁ。悪の帝国ってラベル、どっちにも貼れなくなってきたな」
ぼやきながらも、芳樹はすぐに視線を戦場へ戻す。
中庭の中央では、マヤと科学兵隊前衛のぶつかり合いが続いていた。
「【火柱】!」
地面から噴き上がる炎の塔が、機動鎧の進路を塞ぐ。
対して、神宮寺浩太の原子操作が、炎の周囲に電子の殻を作り、その熱を側面へ滑らせてやり過ごした。
「マヤ、さすがに一人で全部は無理だ。交代しろ!」
教会側の教師が叫び、雷撃系の魔法を連射して援護に入る。
科学側の電子操作と、魔法側の雷が空中でぶつかり合い、しばしのあいだ互いを打ち消し合った。
(こっちも、本気で殺す魔法ばかりじゃない……)
芳樹は、魔力の流れを読むように目を細める。
足元では、ベクトルの陣が静かに回転していた。
敵味方問わず、致命傷になりかねない攻撃だけをほんの少し外へ逸らすための、小さな介入。
そのたびに、胸の奥がきしむ。
(やりすぎると心臓が飛ぶ。
でも、ここで手を抜いたら、本当に学園ごと燃える)
「――佐藤芳樹!」
マヤの叫びが飛んでくる。
炎と光の残光の中、虹色の瞳がまっすぐこちらを射抜いていた。
「さっきから、あんたは守るほうばっかりだ!攻めてこないで、何が第三次世界大戦の開戦なの! ??」
「攻めてるさ」
芳樹は、静かに返した。
「俺は攻撃魔法じゃなくて、戦争そのものに手を突っ込んでる。――その結果、今のところ、死んでない子どもの数は増えてるはずだ」
「そんなの、戦争じゃない!」
マヤが、五つの属性を一気に解放する。
「【五大属性連結砲】! !!」
火と水と風と土と光が、一点に収束し、轟音とともに前方へ解き放たれた。
それは、さきほどよりもはるかに細い。
だが、その分だけ密度が高い――本気の一撃だ。
「優希奈!」
芳樹が叫ぶより早く、浜原優希奈が電子操作の陣を拡張した。
「フルバリアじゃ受け切れない! ベクトル側、そっちでいじって!」
「了解」
芳樹は、走る。
足元の見えない階段を駆け上がり、一気に射線の真正面へ飛び出した。
視界いっぱいに、五色の奔流が迫る。
(ここで折れたら、魔法教育教会は焼かれた学園として世界地図に載る。
――それは、さすがに趣味が悪すぎる)
「現在物象――!」
彼は両腕を広げた。
ベクトルの陣が、限界ギリギリまで回転数を上げる。
五大属性の奔流に含まれる、熱量、運動量、電荷、質量の流れ――それらすべての向きだけを、一瞬で組み替える。
「全面反射はしない。――散らす!」
五色の光が、目の前で花火のように弾けた。
一本だった砲撃が、無数の細い線に分裂し、真上と側面へと散乱していく。
その軌道を、優希奈の電磁の網と神宮寺の電子壁が、さらに細かく制御して、森の上空へと放り投げた。
閃光が、雲の中で咲き、遠くパリ市街からも見える巨大な「光の花」となった。
しばしの沈黙。
「……今の、本気で殺せた」
マヤがかすれ声で言う。
「その気になれば、寮も、聖堂も、そこらの兵隊も、まとめて……それを、全部――」
「戦争の開幕花火に変えさせてもらった」
芳樹は、足元の陣を消しながら、息を整えた。
膝が笑い、視界がわずかに揺れる。
胸の奥で、手術痕が焼けるように痛んだ。
「駄目だこりゃぁ……あと二、三回やったら、本当に倒れるな」
「お兄ちゃん!」
芳美が慌てて支えに入る。
「ちょっと休んで! そういう無茶をやるために、うちら前衛組がいるんだから!」
そのやり取りを見て、マヤは複雑な顔をした。
(あいつは――本気で、両方守ろうとしてる)
科学兵隊の背後に見えるのは、学園都市や未来都市を守るための衛星軌道軍。
自分の背後にいるのは、魔法教育教会の子どもたちと、魔法同盟国の街。
どちらも、「誰かの家」だ。
ふと、別の声が頭に響いた。
――マヤ。よく持たせたな
「テル様……」
ここから先は、大人たちの戦争だ。
お前たちは、子どもたちを連れて地下聖堂へ下がれ
「でも――ここは――」
魔法教育教会という場所は、いつでも建て直せる。
だが、ここで死んだ子どもたちは帰ってこない
テル・アルスの声には、一片の迷いもなかった。
科学連合国は、既に第三次世界大戦を選んだ。
ならば我らも、その戦争に参加する。
……だが、子どもたちを生贄にするつもりはない
マヤは、ぎゅっと杖を握った。
(本当は、ここでテル様の術式が直に見たかった。
最大主教と科学連合国最強超能力者の本気を、この目で。それでも――)
「了解しました、最大主教テル・アルス」
彼女は深く息を吸い、科学兵隊と芳樹に向き直った。
「――魔法教育教会・上級生部隊、後退開始!」
叫びと同時に、魔法陣が次々と反転する。
攻撃陣形から防御と撤退支援へ――動きが切り替わった。
「逃がすと思うか?」
科学兵隊の一人が、追撃の構えを取った瞬間、背後から冷たい声が飛ぶ。
「追うな」
佐藤芳樹。
まだ息は乱れているが、その瞳は冷静そのものだった。
「俺たちの目的は、魔法教育教会という軍事頭脳の牙を折ることであって、子どもたちを撃ち落とすことじゃない。追撃したら――中立科学連携として、そいつは絶対に許さない」
科学兵隊の隊員たちが、一瞬、顔を見合わせる。
だが、すぐに指揮回線越しに、横岡大興の声が飛んだ。
佐藤の判断を優先。
ここで無用な殺戮を行えば、第三次世界大戦の開戦責任が全面的に科学連合国側にあると歴史に刻まれる
横原代官の低い笑いも混じる。
そんな不名誉は、ごめん被る
追撃の銃口が、一斉に下ろされた。
その様子を振り返って確認すると、マヤはほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
「……恩は、感じないから」
遠くから叫ぶ。
「これは、テル様の命令に従っただけ。次に会うときは、本気で魔法教育教会を守るために戦うから!」
「ああ。その時は、その時だ」
芳樹も、遠くから声を返した。
「その時までに、魔女実験を全部潰しておく。――お前の家族を材料にした計画は、絶対に残さない」
マヤは、何も返さなかった。
ただ一度だけ、背を向ける前に、虹色の瞳を細める。
(……言ったからには、やりなさいよ)
魔法教育教会本部――フランス・パリ郊外の森に建つその学び舎は、
この日、大きく傷ついたが、焼き尽くされることだけは免れた。
けれど、この戦いの映像は、
「科学と魔法が、互いの聖域を攻撃した最初の事例」として、世界中に拡散することになる。
科学連合国軍、魔法教育教会奇襲。
魔法同盟国軍、対科学全面報復声明。
その二つの出来事が重なった日――
人類史は、正式に「第三次世界大戦元年」と書き記すことになる。
そしてその裏で、
中立科学連携という名前だけが、静かに、しかし確実に世界の戦略地図に書き込まれ始めていた。
第三次世界大戦元年――と、後に歴史が呼ぶ年の、その最初の数日は、あまりにも静かに過ぎていった。
フランス・パリ郊外の森では、魔法教育教会本部の石壁に開いた傷跡が、魔法と応急処置で少しずつ埋められている。
崩れた塔の代わりに足場が組まれ、焼けた回廊の上には防水シートがかけられていた。中庭の石畳には、まだ爆発の黒い焦げ跡が残っている。
その中央に、マヤは立っていた。
「……ここ、本当に元の教会に戻るのかな」
さらさらと降る灰を指先で受けながら、彼女はぽつりと呟く。
「戻すんだよ、ここを。私たちの手でさ」
横から声を掛けたのは、ミサヨだった。
包帯を巻いた腕で、土砂を浮かべる魔法を起動しながら、苦笑いを浮かべる。
「テル様も言ってたじゃん。場所はいくらでも建て直せる。子どもは戻ってこないってさ」
「……うん。でも、それでも悔しいの。ここが戦場って名前で呼ばれるのがさ」
マヤの虹色の瞳が、遠くの森を見つめる。
あの森の向こうから、科学兵隊は来た。白衣と金属の足音を響かせて。
(あいつ……本当に、寮を守るシェルターまで作ってた)
憎むべき敵のはずの少年――佐藤芳樹の顔が浮かぶ。
家族を焼かれた怒りと、「全部焼きたいわけじゃない」と言ったリンの姿が重なり、胸の奥がざらついた。
「マヤ?」
「……なんでもない」
そう言って、彼女は杖を握り直す。
当面の命令は、魔法教育教会本部の防衛強化と再建。そして、次に来る「本当の総力戦」への準備だ。
「次は、テル様が最前線に立つ。その時、私たちが足を引っ張るわけにはいかないからね」
マヤの言葉に、ミサヨは小さく頷いた。
――守るために強くなる。その決意だけは、誰にも折れなかった。
一方その頃、未来都市。
高層ビル群で組まれたガラスの谷間を、ホログラムのニュースが埋め尽くしていた。
速報:科学連合国軍と魔法同盟国軍、互いの教育機関を攻撃――第三次世界大戦へ
パリ郊外・魔法教育教会本部、被害状況。児童の死者ゼロ、中立科学連携の介入か
街を歩く人々の足取りが、わずかに早くなっている。
誰もが画面に目をやり、しかし見ていないふりをして通り過ぎる。
中立科学連携の本部も、その空気の延長線上にあった。
「……要するに、世界中からお前らどっちの味方だって聞かれてるわけだな」
会議室のモニターに映し出された各国ニュースの見出しを見ながら、浜原優希奈が肩をすくめる。
「科学連合側の掲示板じゃ、裏切り者予備軍扱い。魔法側の地下ネットじゃ、偽善者の仲裁屋扱い。いやぁ人気者」
「駄目だこりゃぁ。全方位に嫌われるのは想定内だけど、ここまで早いとはな」
佐藤芳樹は、椅子にふんぞり返ったまま、胸元を押さえた。
魔法教育教会でのベクトル操作の連発が、まだ体に残っている。心拍は落ち着いているが、妙な疲労感が抜けない。
「でも、結果は出してる」
壁際で腕を組んでいた西園寺奈保美が、淡々と数字を読み上げる。
「理工学都市奇襲と魔法教育教会奇襲――二つの戦闘で確認された民間人の死者、ゼロ。戦闘参加者の戦死者も、両陣営合わせて通常の開戦規模の三分の一以下」
「その代わり、戦争は始まってしまった」
神宮寺浩太が、ホログラムの世界地図を指差した。
科学連合国と魔法同盟国の国境線が、じわじわと赤く染まっていく。
「局地戦じゃなく、正式な世界大戦。両陣営とも、本格的に兵站を動かし始めた。逃げ道、どんどん減ってるぞ、リーダー」
「逃げる気はないさ」
芳樹は、いつもの調子で言う。
「俺は最初から、この戦争のど真ん中に座るつもりだった。科学側の勝利条件も、魔法側の勝利条件も、全部テーブルに並べて――その上で、家族が死なない線だけを無理やりこじ開ける」
「難易度設定バグってない?」
優希奈が苦笑する。
「科学側の家族ってのは、芳美や、未来都市の連中だけじゃなくて、魔法側のあの子たちも入ってるんでしょ?」
「当然」
答えは即答だった。
「魔女実験施設にぶち込まれたリオ・トレールも、魔法教育教会で、科学に家族を奪われた子どもたちも。科学連合国と魔法同盟国が、まとめて戦争の燃料にしようとしてる連中は――全部、俺の守備範囲だ」
「……そこまで言い切るなら」
奈保美が、わずかに口元を緩める。
「私の未物原子は、あんたの無茶な線引きを補強するために使うわ。常識外の物質は、常識外の戦争でこそ役に立つ」
「頼もしいこと」
芳樹は、立ち上がろうとして、ほんの少しだけふらついた。
「お兄ちゃん」
即座に支えたのは芳美だ。
「心臓、まだ完治じゃないんだから。戦争の舵取りまで背負って倒れたら、洒落にならないよ?」
「分かってるさ。だから――」
彼は、会議卓の中央に表示されたある名前に視線を落とした。
「そろそろ、あいつらにも動いてもらう」
ホログラムに浮かび上がるのは、「佐藤春香」「佐藤夏香」「木島四姉妹」の名。
現在物象演算最適化計画――
芳樹の能力の一部を分担するために作られた、準高位順位たちのネットワークだ。
「二人で現在物象、ってやつか」
神宮寺が呆れ混じりに笑う。
「時間止められるやつと、絶対分解持ちのやつ。あいつらを前線に出せば、戦場の速度と崩壊を、ある程度こっちで制御できる」
「戦争の速度を遅くする、って発想は新しいね」
優希奈が、顎に手を当てる。
「早く決着つけるんじゃなくて、間延びさせる。その間に、中立科学連携で黒い研究を潰して回る……ってこと?」
「そう。火力を一気にぶつけ合えば、第三次世界大戦は一瞬で終わる。――でも、その終わり方は、きっと誰も望んでない」
芳樹の声は、静かだが、揺れてはいなかった。
「だから俺は、わざと決着のつかない戦争にする。両陣営が、これ以上やったら自分の家が燃えるって気づくまで、ギリギリで引き伸ばす」
「面倒くさい戦略だね、ほんと」
芳美が、あきれたように笑う。
「でも、そういう面倒くさいやり方じゃなきゃ、科学も魔法も、誰も銃を下ろさないんだろうね」
魔法同盟国・前線通信拠点。
薄暗い部屋の中で、リン・トレールは一人、モニターに映るパリ郊外の衛星写真を見つめていた。
魔法教育教会の傷跡と、科学兵隊の軌跡。
そして、その中央で、どう見ても無茶なベクトル操作をやっている白衣の少年の姿。
「……本当に、寮を守りながら攻めてたんだ」
彼女は小さく息を吐いた。
怒りは消えていない。
科学連合国に家族を奪われた者たちの怨嗟は、日々積み上がっている。
けれど、それでも――
「テル様は、子どもを生贄にしない戦争を選んだ。あいつは、子どもを守る戦争をやろうとしてる」
リンは、胸元の魔導通信具に触れる。
「……だったらね」
小さく笑みを浮かべ、どこかへと通信を繋いだ。
「リオを取り戻す作戦――第三次世界大戦のど真ん中でやるのに、一番向いてる相手が一人いるのよ」
返ってきたのは、静かな電子音と、冷静な女性の声だった。
中立科学連携・連絡窓口、西園寺奈保美。
魔法同盟国の上級魔女さんから直接通信を受けるのは、これが初めてね
「そっちの天才超能力者に伝えて。――理工学都市を奇襲した魔女リン・トレールが、交渉を望んでるって」
第三次世界大戦の炎は、ゆっくりと世界を包み始めていた。
だがその中心で、科学と魔法のごく一部だけが、
誰にも理解されない奇妙な線を引こうとしていた。
家族を守るためだけに、
世界大戦という名の地獄の上に、細い細い綱を渡すように。
未来都市・第零会議室の照明が、ほんの少しだけ落とされた。
ホログラムの世界地図は消え、代わりに空中には一本の光の線だけが浮かんでいる。
――第三の座標。
西園寺奈保美は、通信ログを一度だけ確認してから、椅子にもたれた佐藤芳樹のほうを振り返った。
「確認するわね。魔法教育教会奇襲の相手だった魔女リン・トレールから、中立科学連携宛に交渉要請」
「まだ、相手の本気度は不明」
宮原優希が静かに続ける。
「ただし、テル・アルスの指揮下にいる上級魔女が、単独で中立へコンタクトを取るのは、かなりのリスクだ」
「……駄目だこりゃぁ。世界大戦が始まったばっかりだってのに、もう裏口から人が出入りしようとしてるのかよ」
言いながらも、芳樹の目は真剣だった。
「で、リンは何を望んでる?」
「短く言うと――リオ奪還作戦への協力」
奈保美が、ホログラムに新しいウィンドウを浮かべる。
そこには、魔法教育教会奇襲の衛星写真と、科学連合国側極秘施設の位置情報が重ねて表示されていた。
「魔法教育教会は、聖域を攻撃された。科学連合国は、魔女実験施設の存在を世界に晒したくない。――その挟まれたところに、リオ・トレールがいる」
「妹を取り戻したい魔女と、魔女実験を潰したい中立科学連携、か」
浜原優希奈が、くるりと椅子を回して笑う。
「利害は一致してる。問題は、戦時中に敵国の主力級一人を連れ出すって発想が、どっちの陣営から見てもほぼ裏切り行為なことくらい」
「そこは、中立が全部かぶるしかないな」
芳樹は、胸の奥の重さを確かめるように息を吐いた。
「リオを助けたいってのは、向こうの願いだ。でも、魔女を材料にした実験をこのまま続けさせたくないってのは、こっちの願いでもある。なら――第三の座標で、一度きっちり話をつける」
「心臓は?」
奈保美が、ごく当たり前の確認事項のように訊く。
「駄目だこりゃぁ、ってほどじゃない」
「その基準、そろそろ信用しないわよ」
それでも、誰も止めなかった。
第三次世界大戦が動き出した今、会いに行かないという選択肢は、もうどこにも残っていない。
第三の座標。
世界のどこにも属さない、白い空間。
壁も天井も境目のない、その外側に、地球の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
そこに、二つの影が、ほぼ同時に現れた。
一人は、魔術教会の戦闘ローブをまとった少女。
腰には魔導銃、手には杖。琥珀色の瞳が鋭く周囲を見回す。
リン・トレール。
もう一人は、白衣に首かけIDカードの少年。
足元に淡い光の陣をまといながら、どこか気だるげに片手を上げる。
佐藤芳樹。
「ようこそ、また中立科学連携の部屋へ」
「……本当に、何もないのね、ここ」
リンは、床を軽く蹴ってみる。
感触はある。けれど、石でも金属でもない、ただ立っていられる場所というだけの平面。
「科学でも魔法でもない座標だからな」
芳樹は、以前と同じ説明を、わざと端折った。
「ここでやれるのは、攻撃の結果を出さないことと、話をすることだけ。そのつもりで来たんだろ?」
「ええ。……今日は撃ち合いに来たんじゃない」
リンは、杖を腰に戻した。
代わりに胸元から、古い紙片を取り出す。
焦げ跡と血の染みがついた、その紙片には、幼い字で魔法陣の写しが描かれていた。
「リオが、最初に書いた魔法陣よ。家族を守るための魔法って言って、嬉しそうに見せてきたやつ」
ほんの一瞬だけ、彼女の声が揺れた。
「……科学連合に捕まったとき、これだけは、なんとかポケットに押し込んで渡してくれたの」
紙片を見つめるリンの横顔を、芳樹は黙って見ていた。
「確認だけど」
やがて、静かに口を開く。
「お前の目的は、科学連合国に報復することじゃなくて――リオ・トレールという一人の人間を、魔女実験から救い出すことでいいな?」
「そう。あと、余裕があるなら、そんな実験施設、片っ端から潰したい」
リンは、じっと芳樹を見る。
「科学連合国が魔女を材料にしない科学に戻るなら、私は、科学そのものを滅ぼす必要はないと思ってる」
そこで、言葉を区切った。
「……ただし、戻れないって言うなら――その時は、科学そのものを敵に回す」
「脅しとしては、十分だな」
芳樹は、肩をすくめる。
「結論から言おう。リオ・トレールのいる施設には、すでに現在物象で最低限の防護をかけている。実験という名の暴力は、もう行えない状態だ」
「……本当?」
リンの声が、思わず素に戻る。
「この空間で、あからさまな嘘をつくのは、どっちのためにもならない」
芳樹は、白い床を軽く踏む。
「ここで俺がついた嘘は、魔法同盟国にも科学連合国にも、どっちにとっても毒になる。そんなリスクを取るほど、俺は器用じゃない」
リンは、ゆっくりと息を吐いた。
「なら、次。――奪還作戦」
「そこからが本番だ」
ふっと、空間にもう一人、影が現れた。
「……あら。やっぱり、あなたが出てくるのね」
リンが目を細める。
白衣に無造作なポニーテール、虚数空間ボードを片手にした女。
西園寺奈保美。
「リオ・トレールを科学連合国から連れ出すには、魔法同盟国の奇襲でも科学連合国の極秘移送でもダメ」
奈保美は、淡々と告げる。
「どちらか一方の勝利条件として使われた瞬間、彼女は人質としてしか扱われなくなる」
「じゃあ、どうするつもり?」
「中立科学連携名義で、試験的停戦ルートを一本作る」
奈保美の背後に、ホログラムが展開される。
そこには、科学連合国の極秘施設、魔法同盟国の転移拠点、そして第三の座標が一本の線で結ばれていた。
「科学連合国側の公式名目は、被験体移送のための安全ルート。魔法同盟国側の公式名目は、戦時捕虜交換の予備協議ルート。――その実態は、リオ・トレール一人を第三の座標に連れ込むための一本路線」
「そんなの、両方の上層部にバレたら一発で潰されるわ」
「だから、中立科学連携に任せるしかない状況を作る」
奈保美の口調は、もはや戦略会議のそれだった。
「科学連合国にとっては、魔女実験の処理を外部に押し付けるチャンス。魔法同盟国にとっては、科学の罪を捕虜交換のカードに使えるチャンス。どっちも、自分にとっての得しか見ないように誘導する」
リンは、しばらく黙ってその図を見ていた。
「……本当に、面倒くさい人たちね」
「そこは、お互い様だろ」
芳樹が、苦笑しながら会話に戻る。
「中立科学連携の仕事は、面倒くさい線引きを現実にすることだ。その線の上に乗りたいなら――覚悟を決めてくれ」
「覚悟?」
「この作戦が成功したら、リオ・トレールは、魔法でも科学でもない第三の座標の庇護下に入る」
芳樹の目が、まっすぐリンを捉える。
「つまり、魔法同盟国も科学連合国も、彼女を独占する権利を失う。それでもいいか?」
一瞬、リンの表情に葛藤が走る。
妹を連れ戻したかった。
魔法教育教会の寮で、一緒にご飯を食べて、一緒に魔法を学ぶ未来を、何度も夢見た。
(でも――)
魔女実験に使われたリオが、
もう以前のように「魔法だけを信じていられる世界」に戻れないことも、分かっている。
科学連合国の白い天井。
無機質な機械の光。
そこに閉じ込められる痛みを知ってしまった彼女を、
一つの陣営の象徴にしてしまうのは、あまりにも残酷だった。
「……分かった」
リンは、ゆっくりと頷く。
「リオが――生きて、自由でいられるなら。それが、科学でも魔法でもない場所であっても、構わない」
その言葉を聞いて、芳樹は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「決まりだな」
指を、軽く鳴らす。
白い空間の上に、もう一枚、薄い地図が重なる。
科学連合国の極秘施設。
魔法の転移網。
そして、その間を縫うように走る細い線――
「第三次世界大戦の只中で行う、一人の少女の奪還作戦。中立科学連携・第一種特別作戦として正式に承認する」
「作戦コードは?」
奈保美が、形式的に尋ねる。
芳樹は、少しだけ悩み、
やがて、自嘲気味に笑った。
「CURRENT FAMILY」
「……今の家族、ね」
リンが短く呟く。
「科学も、魔法も、関係なく。今ここで、守りたいって言える相手全部の名前、ってわけだ」
「そういうことだ」
芳樹は、胸の奥で疼く心臓を軽く叩いた。
「バカじゃ俺は倒せない――けど、この心臓は、そういう面倒くさい戦いのために、もう一回動かしてもらったんだと思ってる」
白い空間に、静かな決意だけが満ちていく。
第三次世界大戦。
科学と魔法が互いの家を撃ち合い始めた、そのど真ん中で、
ひとつだけ、奇妙な作戦が静かに動き出した。
――一人の少女を奪還するためだけに、
世界大戦の線を、少しだけ書き換える試みが。
作戦コードCURRENT FAMILYが正式に記録された瞬間、第三の座標の白い空間に、かすかな震えが走ったように見えた。
「……じゃ、具体的なやり方に入ろうか」
西園寺奈保美が、虚数空間ボードを掲げる。
淡い光で描かれた図面には、科学連合国極秘施設の断面図と、魔法同盟国の転移陣ネットワーク、そして第三の座標が三角形を成すように並んでいた。
「リオ・トレールがいるのは、科学連合国第七研究区画・地下三層。名目上は魔法反応パターン長期観測用だけど、実際には魔女妖術演算実験の中枢だった場所ね」
「だった、ね」
リンが言葉を拾う。
「――ってことは、今は?」
「芳樹が現在物象で、実験系そのものを封鎖済み。データだけなら取れるけど、生身の人間には手を出せない状態にしてある」
奈保美が肩をすくめた。
「ありがたいことに、監視査委員会はそれを危険な実験の凍結として歓迎してるわ。戦時中に内側で暴発する火種を抱えたまま戦いたくないんでしょうね」
「つまり、科学連合国の一部は、リオをどこかに押し付けたいと思ってる」
リンの声に、苦い色が混ざる。
「科学にとって都合のいい場所か、責任をなすりつけられる場所か」
「そこに、中立ってラベルを貼ってやるわけ」
奈保美の指先が、ボードの一点を軽く叩く。
第三の座標を示す光の点が、わずかに明るさを増した。
「公式には、中立科学連携による被験体保護プログラム。科学連合国は、戦争の大義名分として国際社会に説明できる落としどころを手に入れる。――過去の非人道的実験を反省し、第三者機関に保護を委ねましたってね」
「きれいな台詞にするわね」
リンが皮肉気に笑う。
「魔法同盟国側は?」
「戦時捕虜交換の予備協議ルート。リオを直に返せとは言わない。ただ、科学が一方的に魔女を弄んだというカードを、いつでも切れる場所に置いておきたい――そう思わせる」
「……どっちも、自分の得しか見てない」
「だからこそ、通る」
会話に割って入ったのは、ずっと黙っていた佐藤芳樹だった。
「戦争中に、相手のためだけになる案は、絶対に採用されない。でも、自分の得にもなるし、相手の得にもなる案なら――誰かが渋々でもハンコを押す」
「その裏で、本当に守りたい人間を、一人だけ第三の座標に逃がす」
リンが、ゆっくりと確認するように言う。
「……本当に、面倒くさい戦い方」
「それをやるために、生き延びた心臓だからな」
芳樹は胸を軽く叩いた。
「で――問題はいつ動くかだ」
科学連合国・第七研究区画地下三層。
厚い強化ガラスと、重い扉で仕切られた観測室。
その中央のベッドで、一人の少女が静かに眠っていた。
リオ・トレール。
細い腕には点滴とセンサー類が繋がれ、胸には心電図モニターのパッドがいくつも貼られている。
だが、部屋そのものはあまりにも静かで、白かった。
「――また、ここ」
薄く目を開けたリオは、ぼやけた天井を見上げた。
いつもの白い天井。いつもの無機質な灯り。
腕を少し動かそうとして、ぴたりとやめる。
ガラスの向こう側で、誰かが見ている気配がしたからだ。
(……あの剣の少年じゃない)
前に一度だけ、この部屋に来た別の少年――黒髪で、こちらを真剣に見つめていた瞳を思い出す。
その時、彼女の周囲の空気は、ほんの少しだけ柔らかくなった。
この部屋に、実験という名の暴力を持ち込ませないための最低限だ
そう言って、ガラスの表面に薄い光の膜を張った少年。
(芳樹さん……って、言ってたっけ)
今、ガラスには薄く光が走っていた。
触らなくても分かる。
何度も実験の魔法式が起動しかけては、この光の膜に阻まれて消えていったのを、体で覚えている。
気配が遠ざかる。
――今日も、何もされなかった。
それだけで、胸の奥に、かすかな安堵が広がる自分が悔しかった。
(お姉ちゃん……)
ポケットの中で、小さく折り畳まれた紙切れの感触を確かめる。
護送される前、無理やりリンに押し付けた、拙い魔法陣の写し。
(私の魔法、まだちゃんと家族を守る魔法になってるかな)
薄れゆく意識の奥で、彼女は、なぜか見たこともない白い空間を夢に見た。
世界でも教会でもない、どこにも属さない場所。
そこに、見覚えのある背中が二つ――
ひとつは、いつかの白衣の少年。
もうひとつは、焦げた紙片を握りしめる姉のものだった。
科学連合国軍本部・会議室。
第七研究区画からの報告書がホログラムで浮かび、監視査委員会の面々が黙々と目を通していた。
「……で、被験体N0854の処遇だが」
桒原委員長が書類を閉じ、視線を上げる。
「中立科学連携からの提案は、保護プログラムとして、だな?」
「名目上は、そうです」
佐藤芳樹が前に出る。
「魔女妖術演算実験は、国際的にも倫理上の批判を受けかねない。第三次世界大戦という状況で、その火種を抱え続けるのは、得策とは言えません」
「では、君は実験を全て中止すべきだと?」
「とっくに中止してます」
さらりと言い切る。
「現在物象で、魔力への直接干渉を禁止するベクトル膜を張りました。強行すれば、施設そのものが壊れるようにしてあります」
「勝手な真似を」
誰かが、小さく舌打ちした。
だが、鷹司正文元帥は笑いも怒りもせず、ただじっと芳樹を見ていた。
「……理由を聞こうか」
「簡単ですよ」
芳樹は、淡々と続ける。
「魔女実験に関わった研究者の一部は、今も現場に残っている。魔法同盟国がこの施設の存在を暴露した場合、彼らは真っ先に戦犯候補になるでしょう」
「それを避けたい?」
「いいえ、まとめて燃やしたいと思っている勢力もいるはずです」
室内の空気が、わずかに揺れる。
「ようするに、この施設は、科学連合国にとって守る価値のない、でも燃えれば厄介な倉庫になりかけている。――なら、その厄介な部分ごと、中立に押し付けてしまえばいい」
「押し付けられる側としては、たまったものではないな」
鷹司が、皮肉混じりに笑う。
「中立科学連携としてのメリットは?」
「両陣営の罪を、丸ごと観測できることです」
芳樹は、嘘ではない言い方で、それだけを答えた。
「魔女実験の全記録。リオ・トレールの魔力パターン。それを持つことで、中立科学連携は誰の味方でもない第三者として、戦後処理の議論に口を挟める」
沈黙。
やがて、桒原が小さく頷いた。
「……監視査委員会としては、条件付きで賛成とする」
「条件?」
「被験体N0854が中立科学連携の保護下に移された後も、一定期間、科学連合国に観測データの閲覧権限を残すこと。そして、その間に彼女が戦場に出る兵器として使われないことを保証することだ」
「構いません」
芳樹は即答した。
「彼女を兵器として使うつもりは、最初からない」
鷹司が、深く息を吐く。
「では――中立科学連携・被験体保護プログラムを承認する。リオ・トレールの移送作戦は、第三の座標経由で行え」
ほどなくして、似たような議論が、魔法同盟国側でも行われた。
断崖の上の会議室で、テル・アルスは窓の外の荒れた海を見下ろしながら、静かに言った。
「科学連合国が、一人の魔女を中立に渡すと申し出ている。罪を隠すためか、罪を分け合うためかは、まだ断定できない」
評議会の魔導師たちが、ざわめく。
「だが、我々にとっても得はある。魔女を材料にした実験の存在を、第三者に認めさせられる。それだけでも、この戦争の正義の天秤は、わずかにこちらに傾く」
「……最大主教は、その提案を飲むおつもりか」
「飲むさ」
テルの声は静かだった。
「ただし――その魔女を、第三の座標に奪われたままにするつもりはない」
その言葉が、リークのようにリンの耳にも届く。
「……やっぱり、そう来るか」
通信を切った後、リンは苦笑した。
「テル様も、家族は手放す気はないのね」
だが、それでいい、とも思っていた。
科学も、魔法も、誰も簡単には引かない。
だからこそ、その間に細く引かれた第三の線が、ほんの少しだけ意味を持つ。
作戦当日。
第七研究区画・地下三層。
リオの部屋の前に、静かに扉が開く。
白衣の研究員でも、兵士でもない影が、そこに立っていた。
「……こんにちは、リオ・トレール」
穏やかな声。
科学連合国の制服でも、魔術教会のローブでもない、中間色のコート。
胸元のIDには、小さくこう記されていた。
――【中立科学連携・フィールドエージェント】
「今日から君は、ここじゃないどこかに連れて行かれる」
その言葉は、
第三次世界大戦の、別の意味での第一歩になろうとしていた。
少女は、しばらく瞬きを繰り返していた。
ベッド脇に立つその人物は、白衣でもローブでもない。
柔らかい灰色のコートに、胸元には見慣れない紋章――円の中に、科学連合国と魔法同盟国の紋章が、どちらも完全には重ならないまま刻まれている。
「……どこかって、どこ、ですか」
リオ・トレールは、細い声でそう訊ねた。
喉はからからで、言葉は少し掠れていたが、それでも彼女ははっきりと相手の瞳を見ようとしていた。
「科学でも、魔法でもない場所だ」
エージェントは、穏やかに答えた。
年齢はそれほど離れていないように見える。少なくとも、いままでこの部屋に出入りしていた研究者たちのようなガラス越しの目ではなかった。
「中立科学連携――って、聞いたことある?」
「……ニュースで。パリの……魔法教育教会の時、子どもを守った第三の組織って」
リオの脳裏に、光の柱と、割れた石の天井の映像がよぎる。
眠らされる前、断片的に見せられたニュースのフラッシュ。
エージェントは、軽く頷いた。
「その中立科学連携が、君を連れ出す。ここにいれば、実験材料であり続ける。科学連合国の手に戻れば、兵器候補。魔法教育教会に渡されれば、象徴にされるかもしれない」
淡々と並べられる言葉は、残酷なほど正確だった。
「だから――そのどれにもならない場所へ、行ってもらう」
「……お姉ちゃんは?」
絞り出すような問い。
エージェントは、少しだけ困ったように目を伏せた。
「リン・トレールは、この作戦に同意した」
わずかに間を置いてから、言葉を重ねる。
「君を誰かの兵器にされるぐらいなら、どこにも属さない第三の座標で、ただの妹に戻ってほしい――そう言ってた」
リオの指先が、シーツを握りしめる。
リンが、そんな決断をしたのだと想像するだけで、胸が痛んだ。
同時に、それがどれほど苦しい選択だったかも、簡単に想像できてしまう。
「……分かりました」
短い沈黙のあと、リオは小さく頷いた。
「ここから出られるなら。もう、あの光の中に縛られたくないから」
「決まりだ」
エージェントは、端末に何かを打ち込む。
室内の照明が一段階落ち、扉の外のロックが解除される音がした。
「これから、移送用のストレッチャーで地上一階の中立受け渡しポイントまで運ぶ。見た目は、ただの搬送作業にしか見えない。でも途中で、一回だけ曲がり角をすり替える」
「曲がり角……?」
「そこで、世界のほうを曲げる」
エージェントは、冗談とも本気ともつかない笑みを浮かべた。
「君はただ、目を開けていてくれればいい。あとは――中立科学連携のリーダーが、全部やる」
第零会議室。
ホログラムに、地下三層の通路が立体表示されている。
その一点に表示された赤いマーカーが、少しずつエレベーター方向へ移動していく。
「ストレッチャー、動き出した。予定通りだな」
宮原優希の報告に、芳樹は頷いた。
額にはうっすら汗が浮かんでいる。まだ何もしていないはずなのに、心臓だけが先に戦場に出てしまったような鼓動を刻んでいた。
「第三の座標との接続準備、完了」
奈保美が、虚数空間ボードから視線を上げる。
「科学側の監視網も、魔法側の転移感知も、通常の搬送としてしか認識しないように、情報を書き換えてあるわ。問題は――」
「世界のほうを曲げる瞬間、か」
芳樹は、指先を軽く鳴らした。
指の先に、小さな光の点が浮かぶ。
「俺がやるべきことは三つ。ひとつ、地下三層の曲がり角の行き先を、第三の座標に繋ぎ替える。ふたつ、科学連合国と魔法同盟国のセンサーにとっては、あくまで通常の直進に見えるよう、ログを現在物象する。みっつ――」
「心臓を止めない」
横から芳美が口を挟む。
冗談めかした口調だが、眼差しは真剣だった。
「そこ、一番重要だからね、お兄ちゃん」
「……わかってる」
笑ってみせるが、胸の奥の疼きはごまかせない。
(駄目だこりゃぁ。これ以上は、本当に無茶の領域だ)
それでも、やると決めた以上、引くつもりはなかった。
「作戦開始まで、あと三十秒」
優希奈がカウントを始める。
第三の座標の白い空間が、会議室の隣にかさなっていく感覚。
世界の線を一本、別の紙の上になぞり直すような、奇妙な違和感。
「リンのほうは?」
「魔法側転移拠点から、第三の座標行き仮ルートに待機中。あっちも、ぎりぎりまでテル様にバレないよう、魔力値を絞ってる」
奈保美が苦笑する。
「本当に、面倒くさい連中よ。戦争してるくせに、一人の妹のために、ここまで綱渡りをするんだから」
「だから、やる価値がある」
芳樹は、深く息を吸う。
「――CURRENT FAMILY、フェーズ1開始だ」
地下三層。
白い天井の下、ストレッチャーが静かに運ばれていく。
リオの視界は揺れ、蛍光灯の光が規則正しく流れていく。
(いつもと、同じ……)
何度か別室に運ばれた経験がある。
痛みの部屋、光の部屋、記録の部屋。
どれも、戻るときには体が重くなっていた。
でも今日は――
曲がり角に差し掛かる瞬間、空気が変わった。
温度が変わったわけでも、匂いが変わったわけでもない。
ただ、体の落ちていく方向だけが、ふっと別の向きにずれたような感覚。
「――え」
瞬きした次の瞬間には、天井が、変わっていた。
蛍光灯の白ではなく、境目のない白。
壁も床も天井もわからない、真っ白な空間。
ストレッチャーを押していたはずの研究員の姿は消え、代わりに――
「やあ、リオ・トレール」
あのときの少年が、そこに立っていた。
白衣に、首から下げたIDカード。
以前ガラス越しに見たときよりも、少しだけやつれた顔。
でも、その目はあの時と同じ、まっすぐな光を湛えていた。
「……剣の人」
リオは、思わずそう呼んでしまった。
自分でも、なぜそう思っていたのか分からない。ただ、ガラスの向こうで光の膜を張った時の彼が、何かを振り下ろしたように見えたから。
「剣って柄でもないが――まあ、そういう役回りかもな」
佐藤芳樹は、ほんの少しだけ笑った。
「ようこそ、第三の座標へ。ここは、科学でも魔法でもない、どこにも属さない場所だ」
「……本当に、あるんだ」
リオは、周囲を見回す。
何もない。
けれど、その何もなさが、妙に落ち着いた。
「お姉ちゃんは?」
「すぐ来る。――お前のために、世界大戦のど真ん中で綱渡りしてる、厄介な姉貴だ」
その言い方に、リオはくすりと笑った。
胸の中の張り詰めた糸が、ほんの少しだけ緩む。
その瞬間、白い空間の別の場所に、もう一つの扉が生えた。
魔法陣の輪郭をした、丸い穴。
そこから飛び出してきたのは――
「リオ!」
息を切らしたリン・トレールだった。
一直線に飛び込んできて、ストレッチャーごと妹を抱きしめる。
頬をこすり、額をぶつけ、声にならない何かを何度も呟きながら。
「お姉ちゃん……っ」
リオの瞳から、堰を切ったように涙が溢れた。
魔法でも、科学でもない、ただの涙。
第三の座標の白い床に、その雫が静かに落ちていく。
「――フェーズ1成功。リオ・トレール、第三の座標への移送完了」
未来都市の第零会議室で、奈保美が静かに報告する。
同時に、魔法同盟国側の転移拠点でも、別の声がそれを確認していた。
「家族が、世界の外側に辿り着いた」
テル・アルスの声が、かすかに震えていたのを、リンは知らない。
第三次世界大戦の只中――
科学と魔法が互いを撃ち合う世界の裏側で、
たった一人の少女の座標が、静かに書き換えられた。
その小さな成功が、このあとどれほど大きな波紋を生むのか。
まだ、誰も知らないままだった。
第三の座標に、しばし現実じみた静けさが戻った。
リンがようやく腕の力を緩めると、リオは涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、きょとんと瞬きをした。
「……ここ、本当にどこにも属してない場所なの?」
リオの瞳に、境目のない白い空間が映る。
床はある。重力もある。だが、天井も壁も見当たらない。
「魔力の流れも、地脈も感じない」
リンは、肩越しに辺りを見回しながら小さく唸った。
「科学の機械も、配線もない……何もないって、逆に不気味ね」
「そういう仕様だからな」
少し離れた場所で様子を見守っていた佐藤芳樹が、白衣のポケットに手を突っ込んだまま近づいてくる。
「ここは、俺の現在物象と、西園寺たちの未物原子演算で、とりあえず人が生きていける最低限だけを貼り合わせた空間だ。空気と重力と、歩ける床以外は、何も決めてない」
「決めてない、って……」
「だから、ここには国籍も、宗派も、陣営もない。――どこの旗の下にも置きたくない人間だけを、一時的に避難させる場所」
芳樹の視線が、リオの顔で止まる。
「少なくとも今は、お前がその第一号ってわけだ」
リオは、胸元に手を当てた。
鼓動は早い。けれど、さっきまでのような「何をされるか分からない」恐怖のざわめきは、少しだけ薄れている。
「……ここにいれば、もう実験はされないんですか」
「ああ」
即答だった。
「科学連合国も魔法同盟国も、この座標に直接手出しはできない。やろうとしたら、両方とも、戦争のタブーを破ることになる」
「タブー?」
「第三次世界大戦を、ただの殲滅戦にしないための最後の約束事だ」
芳樹は、少しだけ視線を伏せる。
「中立科学連携の空間を爆撃したら、科学も魔法も、誰も正義を名乗れなくなる。――それぐらいには、俺たちの存在が世界地図に書かれ始めてる」
リンが、長く息を吐いた。
「つまり、こういうことね。科学も魔法も、自分の家を守るために、第三の座標だけは壊さない。その皮肉な均衡の上に、リオの居場所がある」
「面倒くさい……」
リオが思わずぽつりと漏らすと、芳樹は肩をすくめた。
「そう言ってくれると、やった甲斐がある」
「褒めてないです」
それでも、リオの声音に、微かな笑いが混じるのを、リンは聞き逃さなかった。
「……ねえ、芳樹さん」
リンが、妹の頭を撫でながら尋ねる。
「この子は、ここで何として生きるの?魔法使い? 科学の被験体? それとも――」
「ただの、リオ・トレールだよ」
芳樹の答えは、拍子抜けするほど単純だった。
「魔法は忘れなくていい。科学を憎んだままでも構わない。でも、どこかの陣営の切り札としてじゃなく、ひとりの人間として何をやりたいかを、ここでゆっくり考えればいい」
リオは、布団をぎゅっと握った。
「……まだ、よく分かりません」
「分からなくて当然だ。世界大戦の火種にされかけたあとで、いきなり自分の望みを言えるやつの方がおかしい」
芳樹は、小さく笑う。
「だから、急かさない。――ただ、ひとつだけ決めてくれ」
「ひとつ?」
「ここを、帰ってきていい場所にするかどうか」
その言葉に、リンの表情がぴくりと揺れた。
「お前がいつか、魔法教育教会に戻りたいと思うなら、その時は、中立科学連携もルートを探す。逆に、科学の側と何かをやりたいって言うなら、その時も同じだ。でも、そのどっちでもなく、第三の座標から世界を見ていたいって言うなら――ここが、お前の家になる」
リオは、しばらく言葉を失っていた。
どこにも属さない家。
旗も、紋章も掲げない場所。
魔法教育教会の石壁でも、科学連合国の白い天井でもない、ただの「空白」。
それは、とても心細くて――
けれど、同時に、とても魅力的な提案に思えた。
「……もう少しだけ、考えてもいいですか」
「もちろん」
リンが先に答え、そっと妹の額に額を寄せる。
「今は、とりあえず生きてるって実感から取り戻しなさい。それだけでも、十分すぎるほどの進歩なんだから」
科学連合国軍本部。
「被験体N0854・中立科学連携保護プログラム移送完了」の報告書が、
無機質な電子署名とともに次々と承認されていく。
「……これで、ひとつ戦犯候補リストが減ったことになる」
監視査委員会室で、桒原が低く呟いた。
「同時に、中立科学連携に弱みを握られたとも言えるがな」
対面の席で、鷹司正文元帥は苦笑を浮かべる。
「弱み、か。確かに、魔女実験の全記録を第三の座標に預けた形になる」
「芳樹君が裏切れば、それだけで科学連合国は致命的だ」
「裏切ると思うか?」
問われ、桒原はしばし沈黙する。
彼は、理工学都市奇襲と魔法教育教会奇襲、そして今回の奪還劇まで、
可能な限り全てのログと映像を見ていた。
そこに映る佐藤芳樹は、いつも同じように――
「自分の優先順位だけを守っている」
やがて、桒原は小さく息を吐いた。
「第一に、妹と仲間。第二に、未来都市と科学都市。第三に、この世界全体――だったな」
「そうだ」
鷹司は頷き、立ち上がる。
「奴は、その順番を崩さない限り、裏切らない。そして、その順番を崩さない限り――我々と完全に同じ側にもならない」
「駄目だこりゃぁ。実に厄介な中立だ」
しかし、その「厄介さ」こそが、
第三次世界大戦という地獄に、かろうじて人間味を残しているのだと、
二人とも薄々分かっていた。
魔法同盟国・断崖上の会議室。
テル・アルスは、海を眺める背中を動かさずに報告を聞いていた。
――以上、中立科学連携による被験体移送の概要です
報告を終えた魔導師が頭を下げる。
室内には、沈黙が溜まった。
最大主教、リオ・トレールを第三の座標に預けたままでよろしいのですか?
誰かが代表して問う。
本来なら、彼女は我々魔法教育教会の庇護下に置かれるべき存在
象徴としても、戦力としても、価値が高い
象徴か
テルの口元が、わずかに歪んだ。
科学も、魔法も、象徴を欲しがる。
自分たちの正義を語るために、誰かの悲劇を持ち上げて、振りかざす
窓の外の波が、断崖に砕け散る。
だが、リオ・トレールは、一人の少女だ。
――象徴にしてはならない
評議会の空気が揺れる。
我々が本当に守るべきは、魔女という概念ではない。
魔法を持って生まれてしまった誰かの、たった一人の人生だ
テル・アルスは振り返り、評議会の面々を見回した。
中立科学連携が、それを理解しているとは限らない。
だが、少なくとも科学連合国よりは、象徴に仕立てる速度が遅い
ゆえに――
今は、第三の座標に預けるという選択を取る
その決定は、魔法同盟国の一部から激しい反発を受けるだろう。
だが同時に、それはテルという男の一貫した信念でもあった。
――戦争は、大義で語られる。
しかし、守られるべきものは、いつだって個人だ。
第三の座標。
リンとリオが、ようやく涙を枯らし、
ひとまず「ここに座る」という行為を自然に受け入れ始めた頃。
少し離れた場所で、それを見ていた芳樹は、胸の奥の痛みを確かめるように手を当てた。
(……駄目だこりゃぁ。やっぱり、こういう綱渡りは心臓に悪すぎる)
それでも――
目の前で、姉妹がただ抱き合っているだけの光景は、
理工学都市の炎や、魔法教育教会の光柱よりも、よほど「世界を書き換えた」実感を与えていた。
「芳樹さん」
リンが、涙で赤くなった目でこちらを見る。
「ありがとう。これで、家族全員が戦争の燃料になる未来だけは、ひとつ潰れた」
「その代わり、別の未来が増えただけだ」
芳樹は、肩をすくめる。
「リオがここにいることは、科学連合国にとっても、魔法同盟国にとっても、いつでも切れるカードになる。中立科学連携は、その両方から同時に睨まれる立場になった」
「怖くないんですか」
リオがおずおずと尋ねる。
「世界中から狙われるかもしれないのに」
「怖いさ」
あっさりと認めて、芳樹は笑った。
「でも、もう一回心臓を動かしてもらった時点で、自分の家だけ守れればいいって言い訳は捨てたつもりだ」
その言葉の重さを、リンは感じ取っていた。
科学と魔法が互いを焼き合う第三次世界大戦。
そのど真ん中で、「家族を守るためだけの戦い」を貫こうとすることが、
どれだけ無謀で、どれだけ尊い選択なのか。
「……だったら、私も綱を握る側に回る」
リンが立ち上がる。
「テル様の下で、魔法同盟国の家も守る。でも同時に、第三の座標にいる家族のために、科学と魔法が完全に橋を焼き払うのだけは止めたい」
「欲張りだな」
「お互い様でしょう?」
リオが、二人のやり取りを聞きながら、布団の中で小さく笑った。
それは、魔女実験施設に囚われて以来、初めて見せた年相応の笑顔だった。
第三次世界大戦は、なおも拡大を続ける。
新たな戦線、新たな兵器、新たな憎しみが生まれ続けるだろう。
けれど同時に――
科学でも魔法でもない第三の座標で、
たった一人の少女を守るために綱を握る者たちがいる。
その事実が、いつか世界全体の戦争の形を変えることになるのだと、
まだ誰も気付いてはいなかった。
第三の座標に時間の感覚が戻り始める頃、外の世界は、確実にきな臭さを増していた。
未来都市・第零会議室。
壁一面のホログラムに、世界地図と戦況が淡く浮かび上がっている。赤い矢印がいくつも伸び、科学連合国と魔法同盟国の国境線を舐めるように動いていた。
「――魔法同盟国内部で、ちょっと面倒なのが本格的に動き始めたわ」
西園寺奈保美が指先で一点を弾く。
地図の上に、新たなロゴが浮かんだ。
黒い三日月を、折れた試験管が貫くような意匠――
「SDS。search and destroy of science。魔術教会が科学根絶のために作った、極端派組織」
「……名前からして物騒だな」
佐藤芳樹は、椅子にもたれたまま眉をひそめる。
「これまで局地的なテロと小競り合いだけだったけど、リオ奪還の件で、科学は罪を認めたくせに反省してないって論調が強まってね」
奈保美は、別の画面を呼び出す。
そこには、魔法側の地下ネットワークのログが並んでいた。
中立科学連携は科学の隠れ蓑だ
魔女の血を第三の座標に隠した。あれこそ新しい実験室だ
「……やっぱり、そう見えるんだ」
芳樹は、小さく息を吐いた。
「こっちは、どこにも属さない場所にしたつもりでも、外から見れば、どこでもないなら敵の一部って理屈になる」
「それだけじゃない」
浜原優希奈が、別のウィンドウを拡大する。
「SDS、魔法同盟国軍の正規ルートをほぼ無視して動いてる。テル様の指揮系統とは別に、科学都市を根絶やしにするための独自作戦を立ててるっぽい」
映し出されたのは、科学都市近郊の工業区画。
赤く点滅するポイントには、目標候補というタグが付けられていた。
「ターゲットは、兵器工廠じゃない。生理化学都市の外れにある、民間研究区画――」
奈保美の声が、わずかに硬くなる。
「……芳美の不老不死研究所も、候補に入ってる」
会議室の空気が、一瞬で冷えた。
「マジかよ」
芳樹の声に、いつもの軽さはなかった。
「科学の象徴を潰すことで、魔法の正義を誇示する。リオを第三の座標に取られた腹いせもあるでしょうね」
「テル様は?」
「止めてる。表向きはね」
奈保美は、肩をすくめる。
「でも、魔法同盟国の中でも科学に家族を殺された魔女たちは、SDSの理屈に引き寄せられやすい。完全な鎮圧は難しいわ」
「魔法側の魔女動乱の予行演習みたいなもんか……」
神宮寺浩太がぼそりと呟く。
「問題は、いつ来るか、だ」
芳樹は、ホログラムの一点を見据えた。
生理化学都市外縁部――そこには、芳美がよく出入りする研究棟群が並んでいる。
「こっちから先に動く?」
優希奈が訊ねる。
「第三の座標の防衛線を厚くするか、それとも科学都市側の盾を増やすか。リソースは有限だぜ、リーダー」
「盾を増やす」
答えは早かった。
「第三の座標は、現時点で手を出したら世界中から袋叩きって位置にある。SDSみたいな連中でも、そう簡単には触れない」
「でも、科学都市の研究区画は?」
「触れるさ。だから――」
芳樹は、ホログラムの別の層を呼び出した。
そこに浮かぶのは、双子の少女の顔。
同じ髪型、同じ笑顔。胸元には「佐藤春香」「佐藤夏香」の名札。
「二人で現在物象の出番だ」
未来都市・高層ビル屋上。
風に長い髪をなびかせながら、双子は並んで空を見ていた。
「呼ばれたね、お姉ちゃん」
「呼ばれたわね、夏香」
声も、タイミングもぴったりだ。
春香は、両手を広げて虚空を撫でる。
そこに、細いベクトルの線が無数に現れ、網のように組み上がっていく。
「方向数量――これは、戦場の速度を遅くするための布石」
隣で夏香が、ポケットから金属ケースを取り出した。
中には、銀色の微粒子がぎっしりと詰まっている。
「物質構成。こっちは、当たる前に砕ける弾丸をばら撒くお仕事」
彼女が指先で弾くと、微粒子は風に乗って空へと散った。
絶対分解――攻撃が触れた瞬間、素粒子レベルに崩れる罠だ。
「ねえ、春香」
「なに、夏香」
「こうやってさ、戦争の速度を遅くして、弾丸を当たらなくして――それって、世界から見たら、決着を先延ばしにしてるだけなのかな」
春香は、少し考えてから答える。
「いいんじゃない? 先延ばしで」
風が吹く。
「その先延ばしの間に、お兄ちゃんがきっと、別の答えを見つけてくれる」
「根拠は?」
「親戚補正と、天才への信頼」
双子は、同時に笑った。
「二人で現在物象――」
「世界の速度、ちょっとだけ遅くします!」
その宣言とともに、彼女たちの演算が世界に染み込んでいく。
ベクトルの向きがわずかにずらされ、弾道がほんの少し曲がる。
爆発のタイミングが一拍遅れ、突撃の足が半歩だけ鈍る。
その半歩が、誰かの生死を分けることになる。
生理化学都市・外縁部。
夜。
研究棟群の窓には、まだ灯りが残っていた。
そのひとつで、白衣の少女がパソコンに向かっている。
「――よしっ、あと一息で寿命の物理式がまとまりそう!」
佐藤芳美は、カップラーメンを片手に、嬉しそうに画面を覗き込んだ。
「お兄ちゃんの心臓、もっと楽に動かせる方法、絶対見つけてやるんだから」
その背後、窓の外の暗闇で、何かが微かに煌めいた。
高高度から落下する、光の粒。
魔力と科学では説明できない何かの混じった、呪詛じみた火種。
――SDSの、第一波だった。
だが、その軌道は、地表に届く前にふっと逸れる。
誰もいない空域で、見えない壁に当たったかのように、火種は弾かれた。
春香のベクトル網が、わずかな角度の差を生み出していた。
爆炎は研究棟から数百メートル離れた空中で花開き、
夜空に大きな火の花を咲かせるだけに終わった。
「……今、揺れた?」
芳美が首をかしげる。
微かな衝撃で、天井の蛍光灯がチラついた。
その瞬間、研究棟の非常回線が鳴る。
こちら中立科学連携・防衛ライン。
生理化学都市外縁部上空に、魔力反応を伴う落下データを観測。
第一種警戒体制に移行します
「お兄ちゃん……!」
芳美は、躊躇なく端末を掴んだ。
魔法同盟国・海上輸送艦の甲板。
暗い海の上、フード付きのローブを纏った一団が立っていた。
「第一波、迎撃された」
報告に、中央の女が舌打ちする。
目元だけが見えるマスク。その裏で、瞳が憎悪に燃えていた。
「やっぱり、中立科学連携が張った変な壁が生きてるわね」
彼女のローブの肩には、SDSの紋章。
科学根絶を掲げる魔女たちの、最前線指揮官だった。
「テロを花火に変えるつもりか、中立の気取り屋どもが」
女は、海の向こう――科学都市の灯りを睨みつける。
「でも、いいわ。こっちは第二波からが本番。科学の街そのものを焼けないなら、科学を守る連中を先に潰す」
「目標、中立科学連携?」
「そう。科学も魔法も、家族を守りたいなんて甘いことを言って戦争を長引かせてるあいつらこそ、この世界の延命装置。――だったら、壊すしかない」
第三の座標。
白い空間で、リンとリオは並んで座っていた。
遠くで響く、かすかな振動。それは、外の世界の揺れが、薄く伝わってきたものだった。
「……今の、何?」
リオが不安そうに尋ねる。
「外で、誰かがドンパチやってる」
リンは、微かに眉をひそめた。
「魔力の波形的に、うちの正規軍じゃない。もっと、ギザギザしてる……SDS、かも」
その名に、リオの肩がびくりと震える。
実験施設に送られる前、噂で何度も聞いた名――
科学の街を焼き払うことだけを目的にした魔女たち。
「大丈夫だ」
そこへ、芳樹の声が割り込んだ。
白衣の少年は、少し青い顔をしながらも、いつもの調子で手を振る。
「春香と夏香が、速度を遅くして弾を砕いてくれてる。芳美のいる研究棟にも、最低限のシェルターは張ってある」
「最低限?」
リンが目を細める。
「それ以上やると、この心臓が先に落ちる」
自嘲気味に胸を叩く。
「でも――子どもが死ぬ速度だけは、これでかなり削れてるはずだ」
「……それでも、ゼロにはならない」
「ああ」
認めた上で、彼は続ける。
「だからこそ、中立科学連携が盾を増やす。科学側にも、魔法側にも、SDSみたいなのに乗っかったら家が燃えるってちゃんと見せてやる」
「見せるって、どうやって」
「現場で止めて、その映像を世界に流す。科学を根絶するための魔女と魔女を実験材料にした科学者の、どっちも同じくらい醜いってことをな」
リンは、短く息を吐いた。
「じゃあ、私もやることがあるわね」
「テル様のところに戻るのか?」
「うん。テル様は、子どもを象徴にしない戦争を選んだ。でも、SDSは、その決定に正面から刃を向けてる」
リンの虹色の瞳が、強く光る。
「魔法同盟国の家を守るって決めた以上、うちのバカどもは、私が殴る。――あんたが科学側のバカどもを殴るみたいにね」
「役割分担か」
「そう。第三の座標から、両側に手を伸ばす。家族を戦争の燃料にしようとする大人は、科学でも魔法でも容赦しない」
リオは、そのやり取りを聞きながら、そっと手を握りしめた。
「……じゃあ、私も」
小さな声が、白い空間に落ちる。
「ここで、何かを覚えます。科学でも魔法でもない、第三の座標の魔法みたいなものを」
「第三の座標の、魔法?」
芳樹が目を瞬かせる。
「私の家族を守る魔法が、もう誰かの旗に使われないようにするために」
リオは、自分の胸を指さした。
「ここで、自分の魔力を、もう一回ゼロから覚え直したい。魔女実験の記録とかじゃなくて、私が私のために使う力として」
しばしの沈黙。
やがて、芳樹は小さく笑った。
「いいじゃないか。第三の座標産、オリジナル魔法。科学側にも魔法側にも、簡単には解析できない――そういうやつを、ゆっくり育てよう」
「そのための時間を、二人で現在物象が稼ぐからね!」
いつの間にか現れていた春香と夏香が、同時に親指を立てる。
「中立科学連携、科学と魔法と第三の座標――全方向同時進行型で、世界大戦に喧嘩売ってやろうじゃないの」
第三次世界大戦の炎は、なおも広がり続けている。
だがその中心で、わずかに速度を落とされた戦争と、
どこにも属さない小さな家が、確かに形を取り始めていた。
いつかその家が、科学と魔法の両方にとって、
「帰ってきてもいい場所」になれるのかどうか――
その答えを知るには、まだもう少しだけ、時間が必要だった。
科学都市――夜。
幾何学模様のビル群の中心に、一本だけ異様に高い塔がそびえていた。
その最上層こそが、科学連合国軍最高司令官総司令部・SGHQである。
厚い防弾ガラス越しに、東京湾の黒い水面がかすかに光を返していた。
その手前で、一条実雄は黙然とホログラムに目を通していた。
「――SDSの第一波は、中立科学連携の防御網に弾かれた、というわけか」
スクリーンには、生理化学都市外縁部上空で花火に変えられた魔力弾頭の軌跡が映っている。
「魔法同盟国は、SGHQを国際科学都市中枢の上空に据えていると信じているようだな」
一条は、別のウィンドウで敵側の作戦想定図を呼び出す。
そこには、国際科学都市の上に赤い×印と「敵司令部(推定)」の文字が踊っていた。
「実際には科学都市にあるこの塔ではなく、もっと目立つ場所だと考えている。戦略的には、国際科学都市を焼ければ科学連合国の首を落としたと宣伝しやすいからだ」
ホログラムの別窓に、鷹司正文元帥の姿が現れる。
「SGHQの本当の位置までは、まだ把握されていない。だが、どこを首と見なして襲おうとしているかは、これではっきりしたな」
「そして同時に、中立科学連携の面子も潰せる」
桒原孝彦が、腕を組んで口を挟む。
「リオ・トレールと魔女実験の記録を握り、魔法教育教会や生理化学都市を守る盾にもなっている。SDSから見れば、科学の罪を隠している第三の敵だ」
一条は、指先で机を軽く二度叩いた。
「……最高司令官の頭上で、勝手に戦争の速度を調整されている、というわけだな」
その声音には皮肉が混じっていたが、怒気はない。
「しかし、現状あの双子の現在物象とやらがなければ、科学都市も国際科学都市も、とっくに火の海になっていたかもしれん」
鷹司の視線が、別のホログラムに移る。
そこには、戦場のあちこちで不自然に逸れていく弾道、
寸前で空中爆発に変わる砲撃のログが並んでいた。
「二人で現在物象――戦争の速度を落とす双子か。あれは、誰の差配だ?」
「もちろん、芳樹だろう」
桒原が即答する。
「一条大元帥。貴方が最高司令官である以上、認めねばなるまい。――この世界大戦の実質的なブレーキは、中立科学連携の少年が握っている」
一条は短く息を吐いた。
「面白くない話だが、事実だな。だからこそ、SGHQは落とせん」
彼は、ガラスの向こうの夜景を見下ろす。
「ここが焼かれれば、科学側の理性が一気に吹き飛ぶ。ブレーキを握る少年を守る意味でも、科学都市と国際科学都市、その両方の空を、確実に盾で覆う必要がある」
「では――」
鷹司が、わずかに口角を上げる。
「科学都市上空の防衛権限を、一時的に中立科学連携と共有する。名目は共同防衛演算実験。佐藤芳樹に、SGHQ周辺空域のベクトル演算権を与えよう」
「最高司令官の頭上を中立に委ねる、か」
一条は、自嘲気味に笑った。
「だが、第三次世界大戦を首無しの殲滅戦にされるよりはまだましだ。――理性を保つための屈辱など、安い代償だよ」
第三の座標で、白い空間に「日常」が生まれ始めていたころ。
外の世界では、またひとつ、戦争の歯車が音を立てて嚙み合おうとしていた。
魔法同盟国・外洋上、夜。
濃い霧に包まれた海上輸送艦の甲板で、黒いローブの一団が星を見上げていた。
肩章には、黒い三日月と折れた試験管――SDSの紋章。
「第一波は、科学都市の外れで花火にされたわけね」
指揮官の女が、舌打ち混じりに言う。
目元だけを露出させた仮面の奥で、瞳がぎらりと光った。
「中立科学連携の現在物象。あれがある限り、生理化学都市の上から降らせる程度じゃ、象徴も首も落とせない」
副官の魔女が、魔力で描いた簡易地図を広げる。
そこには、ふたつの都市が並んでいた。
――科学都市。
――国際科学都市。
「本命は、こっちよ」
指揮官の指先が、国際科学都市の上をなぞる。
その上には、尖塔のようなホログラムと、「SGHQ(推定)」の文字。
「科学連合国軍最高司令官総司令部。奴らは政治的に見栄えのいい場所に首を置きたがる。なら、世界中の目が集まる国際科学都市の中央塔――そこが本物のSGHQ」
副官が頷く。
「そこを焼けば、科学連合国は混乱し、中立科学連携も司令部の真下を守れなかったと信用を失う」
「そう。中立という名の偽善者たちを、まとめて焼く」
女は、海風の中でローブを翻した。
「魔女を材料にした科学も、科学を根絶やしにしそこねている魔法も、どちらも中途半端なら――私たちSDSが、歴史を完全な焼却で塗り替える」
甲板の上空に、淡い魔法陣がいくつも浮かび上がる。
次の標的は、国際科学都市。その中枢塔の上空だった。
魔法同盟国・断崖上の会議室。
テル・アルスは、窓の外の荒れた海を眺めたまま報告を聞いていた。
「――SDSが、独自に戦力を集めています。魔力の流れから見て、次の標的は国際科学都市かと」
「科学都市ではなく、国際科学都市か」
テルは静かに目を閉じる。
「彼らは、SGHQがあちらの塔の上にあると信じている」
「最大主教は、そうは思われないのですか?」
「……科学都市の異常な演算負荷を見る限り、総司令部はそちらに置かれていると考えるのが自然だ」
テルは、淡々と言った。
「しかし、それを公に指摘してやる義理はない。彼らは正義の名の下に、科学と中立を同時に焼こうとしている。我々が警告したところで、聞きはしないだろう」
評議会の魔導師のひとりが、慎重に問う。
「では、SDSをこのまま……?」
「許容はしない」
テルの声が、わずかに低くなる。
「だが、今は内戦を始める余裕もない。SDSを完全に叩き潰すには、魔法同盟国自身の血も流れる。それは、第三次世界大戦の火線をさらに増やすだけだ」
彼は、卓上の地図の一点を指で押さえた。
国際科学都市――そして、その少し離れた海域。
「……リン・トレールに連絡を。彼女はすでに、第三の座標と科学側の両方に足をかけている」
「リンに、何を?」
「簡単だ」
テルは、短く笑った。
「バカどもの尻拭いだと伝えろ。SDSが本気で国際科学都市を焼きに行くなら――魔法同盟国の家を守るためにも、彼らを止めねばならない」
第三の座標。
白い床の上に、簡素な机と椅子が現れていた。
リオがノートを広げ、その隣でリンが腕を組んで覗き込む。
「……これは?」
「ゼロからの魔法の式です」
リオは、恥ずかしそうに笑った。
「科学の式でも、魔法教育教会で習った術式でもない、ここで、自分で組み立て直してるところ」
ノートには、丸や矢印と一緒に、
「家族」「戻る場所」「ここでは傷つけない」といった言葉が、魔法式の記号と混ざって書き込まれていた。
「第三の座標の結界みたいなやつを、ちゃんと自分の手でも作れるようになりたくて」
「……ずいぶん欲張りな結界ね」
リンが肩を竦める。
「誰も傷つけない誰も象徴にしない誰も実験しないって、世界大戦の真逆じゃないの」
「だから、ここでやるんです」
リオは、ペンを握り直した。
「外では無理でも、ここなら――誰にも邪魔されずに、ゆっくり試せるから」
そこへ、白衣の少年が姿を現した。
「お、研究進んでるじゃないか」
「芳樹さん」
リオが顔を上げると同時に、リンの胸元の通信具が震えた。
魔法同盟国本営からの呼び出しだ。
「テル様から?」
「ええ。SDSが国際科学都市を狙ってるって」
リンは、短く要約しながら芳樹を見た。
「どうやら、うちのバカども、本気であそこの塔をSGHQだと思ってるみたい」
「……やっぱりそう来たか」
芳樹は、額を押さえた。
「本物のSGHQは科学都市、でも魔法側は国際科学都市=首と思い込んでる。そこでSDSが暴れれば――」
「科学連合国は魔法が世界の首脳会議の場を焼いたと宣伝できる」
リンが続ける。
「中立科学連携も、守り切れなかった第三の座標の外側として叩かれる。魔法側の正規軍は、過激派を止められなかったと責任を問われる」
「つまり、誰も得をしない。……いや、一部の戦争屋以外、誰も得をしない」
芳樹は、深く息を吐いた。
「駄目だこりゃぁ。放置したら、戦争の速度を落とすどころか、一気にトップギアだ」
リオが、不安げに二人の顔を見比べる。
「国際科学都市って……ニュースでよく映る、あの大きな塔のある街ですよね」
「ああ。科学連合国と中立圏と、いくつかの小国が共同で使ってる顔だ」
芳樹は、ホログラムを呼び出す。
世界中の会議と宣言が発信される、高層の塔。
科学連合国の正式領土ではあるが、そこにはまだ「戦場の匂い」が薄かった。
「そこが燃えたら、この戦争はもう交渉の余地がないって合図になる」
「止めなきゃ」
リンの声には迷いがなかった。
「テル様は、内戦を避けるために正面からSDSを抑え込めない。なら、第三の座標経由で――あんたと一緒に止めるしかない」
「中立科学連携として?」
「いいえ」
リンは、ニヤリと笑った。
「第三の座標の住人として。科学でも魔法でもない場所の住人が、どっちのバカも叩くって形なら、世間体は、ちょっとマシでしょ?」
芳樹は、思わず笑いかけ――
すぐに真顔に戻った。
「じゃあ段取りだ」
彼は指を鳴らし、第三の座標の床に新しい光の線を描く。
「ひとつ、国際科学都市上空に現在物象の滑り皿を追加する。科学都市ほど厚くはできないが、直撃さえ避けられれば被害は減らせる」
「ふたつ、テル様を通じて魔法同盟国正規軍の防衛線を薄く張ってもらう」
リンも、床に魔法陣めいた紋様を描き足す。
「SDSを支援はしないが、科学の街を焼き尽くすのも望んでいないって形を、あっちの世界に見せておく必要がある」
「みっつ――」
そこで、リオがそっと手を挙げた。
「あの……このゼロからの結界の式、国際科学都市に、ちょっとだけ写しを送ることってできますか」
リンと芳樹が、同時に瞬きをする。
「え?」
「いや、それはさすがに――」
「完全な結界じゃなくていいんです」
リオは、ぎゅっとノートを抱きしめた。
「科学の人たちも、魔法の人たちも、あの街では戦争が来ない世界を、少しは信じて生きてたはずだから。もし、ほんの少しでもここは象徴じゃなくて、ただの人の街だっていう印を、この式で刻めるなら――SDSの魔法が、ほんの少しだけ躊躇してくれるかもしれない」
しばしの沈黙。
やがて、リンが小さく笑った。
「やるじゃない、うちの妹」
「第三の座標産・試作結界、ためらいの魔法か」
芳樹も、口元を緩める。
「よし、採用。俺のベクトル式と、西園寺たちの未物原子演算に、この式を混ぜよう。ここを焼くのは気持ち悪いって、攻撃側の背筋にほんの少し冷や汗を流させる程度にはできるかもしれない」
「そんなことが、本当に……」
「戦場ってのはな」
芳樹は、リオの頭を軽くつついた。
「最後の一発が撃たれるかどうかなんて、案外、なんとなく嫌だなって感覚ひとつで変わったりするんだよ」
国際科学都市・夜。
塔の上空で、誰にも見えない何かが、静かに組み上がっていく。
科学連合国の対空システムとは別に、
中立科学連携のベクトル皿と、第三の座標の試作結界が薄く重なる。
――これは首じゃない。
――ここは象徴じゃない。
そんな、言葉にならない違和感だけを刻み込む結界。
そこへ、SDSの魔力弾頭が降りてくる。
黒い三日月の紋を刻んだ火の穂先が、夜空を裂いた。
そのとき――
遠く離れた第三の座標で、ひとりの少女がそっとペンを握りしめる。
(どうか、これはただの街だって、少しだけでいいから思い出して)
リオの願いとともに、白い空間の床の紋様が、かすかに光った。
第三次世界大戦の空に、
科学でも、魔法でもない、もうひとつの線が引かれようとしていた。
国際科学都市の夜空に、黒い星屑が降ってきた。
SDSの魔力弾頭。
黒い三日月の紋を刻んだ火の穂先が、いくつも塔の上空へ突き刺さるように落ちてくる。
「第ニ波――着弾まで、あと十秒……!」
地上の対空管制室で、誰かが叫ぶ。
警報が鳴り響き、人々が地下への避難通路へと走る。
塔の上空には、科学連合国製の防御シールドと、中立科学連携のベクトル皿が薄く重なっていた。
そして、そのさらに外側に――
目に見えない、もうひとつの「輪」がある。
第三の座標。
白い床に描かれたリオの式が、淡く光っていた。
「ここは象徴じゃない」「これは首じゃない」――言葉にはならない意味だけを持つ、奇妙な結界の紋様。
「……そろそろ、来る」
リンが目を閉じ、遠くの魔力の流れを読む。
海上から浮かび上がったSDSの魔法陣が、黒い波のように国際科学都市へ向かっていた。
「ベクトル皿、展開完了」
芳樹が短く告げる。
科学都市とは違い、こちらの皿は薄い。それでも、直撃さえ避けられれば意味はある。
「未物原子、軌跡の外縁に違和感を付与したわ」
奈保美も、虚数空間ボードを見つめながら言った。
「弾頭が結界に触れた瞬間、一瞬だけここ、本当に焼いていい? って感覚が頭をよぎるはずよ」
「そこに、ためらいの魔法をねじ込む」
芳樹は、リオのノートに視線を落とした。
「準備はいいか、リオ」
「……はい」
リオは、ペンを握る手にそっと力を込める。
(これは、私の魔法。誰かの兵器じゃなくて、私がそう願いたい世界の式)
魔力と言うにはあまりにも細い、けれど確かな何かが、
第三の座標から国際科学都市の塔の上空へと伸びていく。
外洋上――SDSの輸送艦の甲板。
「視認――国際科学都市、上空に防御反応あり。だが、あの程度なら、圧し潰せる」
副官の報告に、指揮官の女は嗤った。
「科学の玩具と、中立の薄っぺらい盾ね。まとめて焼き尽くすわ。――科学の首ごと」
彼女が杖を掲げると、空に浮かんだ魔法陣が黒く染まり、
魔力弾頭の軌道が一斉に変化する。
標的は、塔そのもの。
「ここで、歴史を書き換える。科学の街に、魔女の終止符を――」
そのときだった。
指揮官の胸の奥を、ひやりとしたものがかすめた。
(……あれ?)
視界の端で、国際科学都市の夜景が揺らぐ。
塔の周囲に、淡い輪郭だけの「街」のイメージが重なる。
会議に向かう人々。
屋台で串を買う観光客。
塔を見上げて写真を撮る、どこかの子ども。
――今までも、何度も情報として見た光景だ。
だが、今だけはそれが妙に「生々しく」感じられた。
(ここは首じゃない。ただの……街?)
魔法陣に込めた殺意が、一瞬だけ鈍る。
すぐさま彼女は首を振った。
「……何を迷っているの、私は」
自嘲するように笑い、魔力を叩き込む。
「科学に家族を奪われた子たちの怨嗟を、忘れるな。ここが象徴でなければ、何だというの」
だが、そのほんの一拍の「遅れ」が――
すでに、別の演算に捕まっていた。
国際科学都市・上空。
黒い魔力弾頭が、塔の手前でふっと軌道をずらす。
ベクトル皿が、運動量を横へ滑らせたのだ。
同時に、リオの結界式が薄く光る。
弾頭を構成する魔力の一部が、「街」を見てしまった術者たちのためらいを増幅させ、
爆心の座標を微妙に外側へシフトさせる。
轟音。
だが、爆炎は塔の直上ではなく、国際科学都市から遠く離れた高空で咲いた。
夜空を彩る巨大な火の花となり、地上からは「異常な花火」としか見えない。
「着弾予測点、ずれました!」
管制室のオペレーターが叫ぶ。
「塔への直撃は回避! 衝撃波のみ――被害レベル、軽度!」
別の弾頭も、同じように「微妙に」外されていく。
わずかな角度の違い、わずかな爆心位置の違い。
しかし、そのわずかな差が、
塔にいた人間を炎の中に放り込むかどうかを決めていた。
未来都市・第零会議室。
「……今の、見たか」
神宮寺がホログラムを凝視する。
「狙いは完全に塔の中心だった。なのに、全部ほんの少しずつ嫌がるように避けて爆ぜた」
「未物原子とベクトル皿だけじゃ、あそこまで気持ち悪い避け方はしないわね」
奈保美が、腕を組んでにやりと笑う。
「リオのここは象徴じゃない式が効いたわ」
「良かった……!」
春香と夏香が、ほっと息をつく。
「速度を遅くして、弾を砕いて、それでも最後のラインをずらしてくれたのは、あの結界だね」
芳樹は、額の汗を拭いながら椅子にもたれた。
胸の奥で、心臓がきしむように跳ねている。
「……駄目だこりゃぁ。国際科学都市の上にまで皿を広げるのは、さすがに心臓に悪いな」
「でも、生きてる」
芳美が、兄の肩を支えながら笑った。
「塔も、人も、中立の顔も。今日のところは、みんなギリギリで助かった」
外洋上の輸送艦。
「何が起きた……?」
SDS指揮官の女は、唇を噛んだ。
「狙いは間違っていない。魔法陣も、魔力も、完璧だった。なのに――」
目を閉じれば、あの瞬間の奇妙な違和感が蘇る。
塔の周りに重なった「ただの街」の像。
何も知らない人間たちの顔。
科学も魔法も関係なく、ただ今日を生きているだけの人々の姿。
(……あれを、焼き払うべきだった?)
胸の奥に、針のような問いが刺さる。
「指揮官。国際科学都市側は、対空システムと中立科学連携の防御の成果として発表しています」
副官の報告に、彼女は舌打ちした。
「中立……またあいつらか」
怒りに任せて、杖の先で甲板を叩く。
「科学も魔法も、生ぬるい。中立などという場所を作るから、火が弱まる。次こそ――」
言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。
頭の片隅に、まだあの「ためらい」が残っている。
(……何を迷っているの、私は)
魔法の火種が、ほんの僅か揺らいだ。
その揺らぎは、やがてSDS内部の一部の魔女たちにも伝染していくことになる。
「本当に全部焼き払うのか」という、ごく当たり前の疑問として。
魔法同盟国・断崖上の会議室。
「SDSの攻撃は、国際科学都市に致命傷を与えられなかった。科学側の報道は、共同防衛の勝利と叫んでいるな」
報告を聞きながら、テル・アルスは静かに目を伏せる。
「中立科学連携の介入痕跡は?」
「魔力の流れから見て、明らかにあります。ただし、決定的な形ではなく、違和感のレベルに留めている」
「つまり――」
テルは、ゆっくりと息を吐いた。
「科学も魔法も、まだ完全には橋を焼いていないと、世界に見せることに成功したわけだ」
評議会の魔導師のひとりが、眉をひそめる。
「最大主教。このままSDSを野放しにすれば、いずれ本当に国際科学都市が燃えます」
「分かっている」
テルの瞳が、海の彼方の暗闇を見据えた。
「だからこそ――我々は、中立科学連携と水面下で手を結ぶ必要がある」
「科学と、ですか?」
「違う」
テルは、かぶりを振る。
「科学でも魔法でもない場所。第三の座標に立つ者たちと、だ」
第三の座標。
リオは、まだ震える指でノートを撫でていた。
「……本当に、何かできたんでしょうか、私」
「できてたよ」
リンが、妹の肩を抱き寄せる。
「あの弾頭、最後にちょっとだけ迷ってた。あれは多分、あんたの式のせい」
「こっちから見ても、軌道が嫌そうにずれてたからな」
芳樹も苦笑する。
「戦争を止めるには全然足りない。でも、ためらいを戦場に持ち込めたのは、でかい」
「ためらい……」
リオは、小さくその言葉を繰り返した。
「魔女実験施設では、誰もためらってくれなかったから」
その一言に、リンの喉が詰まる。
芳樹も、暫く何も言えなかった。
やがて、彼はゆっくりと口を開く。
「――だからこそ、だろうな」
「え?」
「ためらいってのは、戦場にとってはノイズだ。合理的でもないし、効率も悪い。でも、誰かがそれを持ち込まないと、戦争は本当に数字のゲームになる」
彼は、自分の胸を軽く叩いた。
「この心臓が生き延びた理由なんて、多分、そういうノイズをやれってことなんだろうよ」
「駄目だこりゃぁ。また格好つけてる」
芳美が、横から呆れたように笑う。
「でも、そういうお兄ちゃんだから、私は寿命の式をいじる価値があるって思えてるんだよ」
春香と夏香も、少し離れた場所で手を打ち合わせた。
「戦争の速度を落として」
「弾を砕いて」
「そこに、ためらいを混ぜる」
「……世界、大混乱だね」
でも、と双子は顔を見合わせ、同時に笑った。
「それでいいや」
第三次世界大戦の空の下。
科学都市と国際科学都市、その両方がまだ灯りを保っている世界で。
科学でも魔法でもない第三の座標から、
たった一人の少女の魔法と、一人の少年の無茶な心臓が、少しずつ、戦争の形を変え始めていた。
国際科学都市の夜は、何事もなかったかのようにネオンを取り戻しつつあった。
塔の足元では、避難していた人々が地上へ戻ってくる。
泣きじゃくる子どもを抱いた母親、スーツ姿で慌てて端末を確認するビジネスマン、
「花火だったんだよ」と必死に笑って見せる案内係。
実際には、花火ではなかった。
だが、塔にも街にも大きな傷跡が残らなかった以上、
この街は「そういうことにしておく」しかなかった。
「……助かった、のかな」
塔のロビーで、若い通訳の青年が、ガラス越しに夜空を見上げた。
さっきまで、そこには黒い火の花がいくつも咲いていた。
今は、星と航空機の灯りだけだ。
彼は知らない。
自分の頭上で、科学と魔法と第三の座標が綱渡りをしていたことを。
ただ、胸の中でひとつだけ強く思った。
(この街だけは、戦争のニュースで終わりたくないな)
その、何の変哲もない願いもまた、
遠い白い空間の魔法式に、かすかに重なっていく。
科学都市・SGHQ。
高層塔の最上階、作戦会議室のホログラムには、
国際科学都市上空の「異常な花火」のログが繰り返し再生されていた。
「……直撃コースからここまでずれるか」
一条実雄は、腕を組んで映像を見ていた。
「対空システムだけでは説明がつかん。中立科学連携のベクトル皿までは理解できるが――最後のためらいは何だ?」
「戦場にためらいを持ち込む演算、だとしたら」
桒原が、半ば冗談めかして呟く。
「合理性はない。だが、あってはならない場所を焼かないためのノイズとしては……効果的だ」
「……第三の座標は、そこまで踏み込んできたか」
一条は、窓の外――科学都市の夜景を見やった。
「国際科学都市は、科学連合国にとって外交の顔であり、魔法同盟国にとってもまだ戦場ではない窓だ。あそこを守ったことで、中立科学連携は、両陣営に対してひとつの貸しを作ったことになる」
「ならば、こちらも応える必要があるでしょう」
ホログラムの別窓に、鷹司正文の顔が映る。
「――第三の座標を公式には認めない。しかし、水面下では話の通じる相手として扱う。そういう線引きが必要だ」
「具体的には?」
「国際科学都市と、科学都市の一部を、限定的不可侵域として扱う協議を、魔法同盟国と始める」
鷹司の提案に、室内の空気がわずかに揺れた。
「第三次世界大戦の最中に、不可侵域を増やす気か」
「戦場を全部にしないための最低限です」
桒原が静かに言う。
「それに――その調整役として、中立科学連携と第三の座標を使う」
一条は、しばらく黙ってから、低く笑った。
「最高司令官の頭上で、ずいぶん勝手な相談だな」
だが、その笑みには、わずかに安堵が混ざっていた。
「いいだろう。戦争を数字の勝負にしたくないのであれば、こういう面倒な線引きも、受け入れねばならん」
魔法同盟国・断崖上の会議室。
テル・アルスの元にも、同じ情報が届いていた。
科学連合国が、国際科学都市の限定不可侵を検討している。
裏窓から、中立科学連携が打診してきた
魔導師が読み上げると、評議会の空気がざわつく。
「我々の聖域ではない。あそこは科学の街だ」
「だが、我々の弟子たちも、魔法理論の共同研究で出入りしている」
別の魔導師が反論する。
「国際科学都市が戦場になれば、科学と魔法の対話の場は消える。SDSの狙いは、まさにそこだろう」
テルは、静かに頷いた。
「科学都市は戦場になる。それは、避けられない。だが、国際科学都市を焼き尽くす戦場にするつもりはない」
彼の視線は、外洋の彼方――SDSのいる海域を向いていた。
「最大主教として、魔法同盟国は宣言する。――国際科学都市を、完全な標的にはしない。そこを焼こうとする者は、たとえ同じ魔法の旗を掲げていようと、我々の敵と見なす」
その言葉は、やがてSDSの耳にも届くことになる。
だがそれは、別の火種を生む。
「魔法同盟国は科学と結託した」という、過激派たちの怒りだ。
それでもテルは、譲らなかった。
「第三の座標との連絡を継続。――中立科学連携と共に、戦場から外す場所の線引きを進める」
第三の座標。
白い空間の中央に、三つの椅子が並んでいた。
ひとつは、白衣の少年――佐藤芳樹。
ひとつは、魔術教会の長衣を纏ったテル・アルスの投影。
そしてもうひとつは、軍服の上からマントを羽織った鷹司正文のホログラム。
科学と魔法の「頭」の一部が、
世界のどこにも属さない第三の座標で向き合っていた。
「――奇妙な絵面だな」
鷹司が、苦笑混じりに呟く。
「科学連合国の元帥と、魔法同盟国の最大主教と、中立科学連携の少年が、同じ椅子の列に座るとは」
「ここでくらいは、肩書きを半分脱いでいただけると助かります」
芳樹が肩をすくめる。
「心臓に悪いんでね。第三の座標は、戦争の頭同士の殴り合いの場にはしたくない」
「その心臓も、世界大戦の綱渡りに付き合わされているようだが」
テルが、柔らかく目を細める。
「――まずは、礼を言おう。国際科学都市を、ただの街として守ってくれたことに」
「あれは、ここにいるリオの式のおかげですよ」
芳樹は、少し後ろに座っている少女に視線を向けた。
テルと鷹司の視線も、そちらへ向かう。
「リオ・トレール。君の魔法が、戦場にためらいを持ち込んだ」
テルの声に、リオは思わず背筋を伸ばす。
「……まだ、ちゃんとした魔法になっていません。ただ、ここは首じゃないって、そう願っただけで」
「それで十分です」
鷹司が、軍人らしからぬ柔らかな声で言った。
「我々は、数字と地図で戦争を見てしまう。だが、その地図の一点一点にただの街があると気づかせる魔法は、我々には使えない」
リオは、小さく目を瞬かせた。
テルと鷹司。
科学と魔法の「頭」が、自分の魔法に礼を言っている。
その事実が、まだうまく呑み込めない。
「本題に入ろう」
芳樹が空気を切り替える。
「科学都市と国際科学都市、それからパリ郊外の魔法教育教会――この三カ所を、とりあえず戦場の中の聖域候補として扱う。完全な不可侵にはできないが、――子どもを象徴や燃料にする攻撃は禁止――司令部を狙う攻撃は、互いに抑制し合うって線を、ここで握りませんか」
「……戦時中に紳士協定か」
鷹司が目を細める。
「そんなもの、守られる保証はどこにもない」
「だから、第三の座標があるんです」
芳樹は、床を軽く踏む。
「ここで合意したことは、科学連合国にも魔法同盟国にも、ダブルで裏切りとして跳ね返る。俺が証人になるし、ここにある全ログは、戦後裁判の資料にもできる」
「自分の首も差し出す覚悟か」
「その覚悟がないなら、最初から第三の座標なんてやってませんよ」
短いやり取りの後、テルが静かに頷いた。
「……良いでしょう。魔法同盟国最大主教として、今の線を飲む」
少し間を置いて、鷹司も口をひらく。
「科学連合国軍元帥としても、同意する。――ただし、SDSのような過激派、および科学側の魔女実験残党に対しては、この限りではない」
「そこは当然です」
芳樹は頷いた。
「家族を燃料にする連中は、科学だろうが魔法だろうが、第三の座標だろうが、全部で殴る対象ですから」
テルと鷹司が、思わず小さく笑った。
奇妙な一致だった。
戦争の目的も、大義も違う。
それでも――
「家族を燃料にする戦争」だけは、
誰も望んでいなかった。
会議が終わり、テルと鷹司の投影が消えたあと。
第三の座標には、ふたたび白い静寂が戻っていた。
「お姉ちゃん……」
リオが、リンの袖を軽く引く。
「今のって、本当に何か変えたんでしょうか」
「すぐには変わらないわ」
リンは、妹の頭を撫でる。
「でも、ここを燃やしたら自分も裁かれるって線を、科学と魔法の頭が握った。それだけで、いつか誰かが最後の一発を撃つときに、ほんの少し躊躇う」
「その躊躇いのために、俺たちは心臓を削ってるわけだ」
芳樹が、苦笑しながら胸を押さえた。
「駄目だこりゃぁ……こういう面倒な戦い方ばっかりしてたら、戦争が終わる前に俺の寿命が尽きるかもしれない」
「だから言ってるでしょ」
芳美が、横からぴしゃりと言う。
「私が寿命の式を仕上げるまでは、絶対に勝手に止まるの禁止!」
第三の座標に、笑い声が広がった。
世界はまだ燃えている。
第三次世界大戦は、終わりの気配すら見せていない。
けれどその中心で――
科学でも魔法でもない小さな合意と、
ひとつの「ためらいの魔法」が、
確かに、戦争の形を少しだけ変え始めていた。
第三の座標に笑い声が満ちたあと、その余韻が静かに沈んでいく。
白い空間の「向こう側」で、世界はまた別の音を立てていた。
外洋上――SDS旗艦・暗号化会議室。
厚い魔結界に覆われた小さな部屋で、数人の魔女が円卓を囲んでいた。
中央の席に座る指揮官の女は、まだ仮面を外していない。
「第二波は、防御と中立の共謀によって阻まれた」
低く告げる声に、しばし沈黙が落ちる。
「国際科学都市は無傷。科学連合国は共同防衛の勝利と叫び、魔法同盟国本営は国際科学都市を完全な標的としないと宣言した」
「最大主教は、科学と手を組んだ」
若い魔女のひとりが、苛立ちを隠さずに言う。
「子どもを守るためですって?笑わせる。私たちの家族を材料にした科学を赦し、その街を不可侵にしようとしている」
「だが、本当に裏切りと決めつけていいのか」
別の魔女が、慎重に口を開く。
「テル様は、科学都市を戦場と認めた上で、国際科学都市だけを外そうとしている。あそこは、私たちの弟子も通う学びの街だ。……焼けば、傷つくのは科学だけじゃない」
「分かってるわよ、そんなことは」
指揮官の女は、仮面の奥で目を細めた。
国際科学都市の夜景。
あの塔の周りに重なって見えた「ただの街」の像が、まだ頭から離れない。
(――ここを焼けば、確かに歴史は書き換わる。でも、その横にいる子どもたちまで、まとめて燃える)
胸の奥のためらいを、彼女は奥歯で押し潰すようにかみ殺した。
「……SDSは、科学根絶を掲げた組織よ。魔法同盟国本営がどう言おうと、私たちの方針は変わらない」
「次の標的は?」
若い魔女の視線が集まる。
「国際科学都市は、一旦保留する」
薄いざわめき。
「科学と魔法の窓を焼けなかった時点で、あそこは中立や科学にとって利用価値のある象徴になった。なら、そこを焦土にはしない。――次は、科学の心臓に近い街を狙う」
「科学都市?」
「いいえ」
指揮官は、魔法陣で新たな地図を浮かべた。
「科学都市と国際科学都市、その中間にある中立寄りの科学区画。名目上は共同研究区域、実態は誰でも入れる実験場。火種を撒くには、ちょうどいい」
彼女の声には、まだわずかな揺らぎがあった。
だが、その揺れを見抜けた者は、この場にはいない。
(……第三の座標。 中立科学連携。あのためらいは、本当に奴らの手品なのか、それとも――)
答えの出ない問いを抱えたまま、
SDSは次の標的に向けて静かに舵を切った。
科学都市・SGHQ・分析室。
壁一面のスクリーンに、魔力と演算のログが流れている。
中立科学連携から提供された加工済みデータと、科学連合国独自の観測結果が並べて表示されていた。
「……やっぱり、妙な揺れがあったな」
神宮寺浩太が、グラフを指差す。
「これ、SDS弾頭の最終段階の魔力波形。国際科学都市を狙った直前で、一瞬だけ出力が落ちてる」
「防御に弾かれたのとは違う?」
優希奈が、椅子の背にもたれながら訊く。
「違う。これは撃つ側の心のブレーキに近い」
「科学の言語で心を語るのは、まだ難しいわよ」
奈保美が、やや意地悪く笑う。
「でも、リオのためらいの式が、SDSの指揮官に何かを見せたのは確かね」
「……SDSの中にも、迷う奴が出始めたってことか」
芳樹が、データを眺めながら呟く。
「全部が狂信者じゃない。家族を奪われたって出発点は、向こうもこっちも同じだ。そこに第三の座標から別の可能性を投げ込めるなら――」
「戦争は、もっとややこしくなる」
芳美が、わざとらしくため息をついた。
「でも、そのややこしさの中でしか、多分、誰も銃を下ろさないんだろうね」
第三の座標。
白い空間の一角に、小さな部屋が増えていた。
床と壁の色が少しだけ変わり、簡素な机と本棚が浮かぶ。
「……なんか、家っぽくなってきましたね」
リオが、ノートを抱えながら周囲を見回す。
「お前が式を書きまくるから、この空間が部屋として認識されたんだろうさ」
芳樹が、苦笑混じりに言う。
「現在物象で最低限の構造だけ決めて、あとは入る人間の認識に任せてるからな。誰かがここは家だと思えば、その分だけ家っぽくなる」
「じゃあ、台所とかベッドとか考えたら――」
「増える可能性はある」
「やった」
思わず笑顔になるリオを見て、リンも口元を緩める。
「第三の座標が家になるのは、悪くないわね。科学でも魔法でもない、もうひとつの帰る場所」
「ただし、ここに籠もりきるのは無しだ」
芳樹が、少し真顔で釘を刺す。
「ここは、世界の外側に作った避難所だけど、同時に世界に戻るための中継点でもある。リオ、お前がいつか外に出たいって言ったときに、ちゃんと道を繋げておく必要がある」
「……はい」
リオは、静かに頷いた。
魔女実験施設のような閉じ込められた箱には、もう戻りたくない。
でも、自分だけが安全な場所にいることに、どこか後ろめたさも感じている。
「だから、そのときまでに、科学も魔法も、家族を燃料にするやり方だけは減らしておく」
芳樹の言葉に、リンがニヤリと笑う。
「減らす、じゃなくてぶん殴るでしょ」
「まあ、表現の違いだ」
心臓の痛みを誤魔化すように、彼は軽く肩をすくめた。
「――その第一歩として、そろそろあいつらにも手を入れるか」
「あいつら?」
「魔女実験を実際にやってた科学者たち。今もまだ、戦争の役に立つなら赦されると思ってる連中がいる」
空間に、いくつかの名前と顔写真が浮かぶ。
白衣に、冷たい目。
リオの記憶の底を、冷たい何かが撫でた。
「……あの人たち、ですか」
「そうだ」
芳樹の瞳に、いつもの軽さはなかった。
「戦犯候補としてまとめて燃やされる前に、第三の座標側で証言を取る。どこまでが命令で、どこからが快楽だったか。どこまでが科学で、どこからが狂気だったか。全部、洗いざらい出させる」
「それ、危なくないですか」
リオが、不安そうに尋ねる。
「危ないさ」
あっさりと認めて、芳樹は笑った。
「でも、科学を赦すかどうかを決める権利は、本当は、被害者の側にあるべきだろ」
リオの目が、大きく見開かれる。
「第三の座標は、その場を用意する。科学と魔法のどちらでもなく、傷つけられた側と向き合うための裁きの場所として」
「……怖いけど、見たいです」
リオは、ぎゅっとノートを抱きしめた。
「あの人たちが、何を考えて、私たちを材料にしたのか。もし、本当に反省してる人がいるなら、その言葉も、ちゃんと聞きたい」
リンが、妹の肩に手を置く。
「無理はしないこと。でも――あんたがそう言うなら、私も隣に座る」
「魔法側のバカどもの裁きは、そのあとでまとめてやりましょう」
リンの目が、遠くを見据えた。
「魔女を英雄にも、怪物にも仕立て上げようとした大人たち。科学でも魔法でも、同じくらい問いただす必要がある」
未来都市・第零会議室。
新しい作戦コードが、ホログラムに浮かび上がった。
――CURRENT FAMILY - phase 二
――罪を燃料にしないための証言作戦
「フェーズ1が家族の奪還なら、フェーズ2は家族の怒りの行き場所ってところね」
奈保美が、半分呆れたように笑う。
「戦争中に、こんな手間のかかることをやろうとするなんて」
「誰かがどこかでやっておかないと、戦後に全部、歴史の一行にされるからな」
芳樹は、心電図モニター代わりの端末をちらりと見た。
まだ鼓動は乱れているが、動ける範囲だ。
「駄目だこりゃぁ……ますます心臓に悪い方向に進んでる気がする」
「だからこそ、やる価値がある」
芳美が、カップ麺の残りをすすりながら笑う。
「お兄ちゃんが倒れる前に、私が寿命の式を完成させて、第三の座標が本当の意味での家になれるようにする」
その言葉は、冗談半分、決意半分だった。
第三次世界大戦は続く。
戦線は増え、憎しみも蓄積していく。
それでも――
科学でも魔法でもない第三の座標で、
「家族を燃料にしない戦争」のための、
奇妙に手間のかかる作戦が、またひとつ動き出そうとしていた。
未来都市と科学都市を結ぶ高架軌道の下――
誰も知らない地下階層に、ひとつの施設があった。
独立治安維持部隊・WS。
科学連合国の内側の汚れを掃除するためだけに作られた、白衣の治安部隊。
「対象確保。抵抗なし。……まあ、抵抗できるわけないか」
分厚い防音扉の前で、桒島美咲が小さく息を吐いた。
WSのリーダー。白衣の上に防弾ベストを着込み、耳には通信具。
扉の向こうの尋問室には、痩せた初老の男が座っていた。
元・魔女狩り計画実験主任研究員。名前を告げられても、リオはその顔を覚えていなかった。
ただ――
白い壁、冷たい手術台、金属音。
そんな記憶だけが、無数に重なっていた。
第三の座標の一角に、「灰色の部屋」が増設された。
床も壁も天井も、白ではなく淡い灰色。
真ん中には、対面式の机と椅子が三脚。
そのさらに奥に、透明な壁のようなものが薄く揺れている。




