表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/12

第12章 焦げた名札

 夜が明けても、火は消えなかった。ローマ近郊の丘の上で裂けた空は、朝日に照らされても裂け目のままだった。裂け目は映像になり、映像は見出しになり、見出しは命令になった。命令になった瞬間、それはもう事件ではない。世界の呼吸の一部になる。

 魔法同盟国の議場は白い石でできている。白は清らかさの色のはずなのに、今日は裁きの色に見えた。石の床に足音が落ちるたび、その音が血の滴みたいに響く。

 最大主教テル・アルスは壇に立っていた。壇の下には魔法教会、魔術教会、魔法教育教会の代表、そして名札を外した影が混じっている。混じっているのに、誰も混ざらない。


「魔工学教会が攻撃された。……このまま黙れば、次に燃えるのは民だ。誰かが言葉を出さなければならない」


 テルの声は大きくない。大きくないのに、石の壁が震えた。壁が震えたのは声のせいではない。議場の全員が、同じ映像を見たからだ。

 天井の光輪に、ローマの丘が映る。青白い膜。裂け目。折れた塔。火。そこに映る人影の小ささが、逆に現実を重くする。


「科学連合国の空から、飽和攻撃が降った。黙れば、次に殴られるのは民だ」


 壇の下でざわめきが広がる。ざわめきの中に涙が混ざり、涙の中に計算が混ざる。

 ワシリーサが腕を組んだまま、吐き捨てるように言った。


「聖域を殴られたら、言葉は死ぬ。迷っている時間なんてない。次の夜は、私たちの民が燃える」


 テルは頷かない。頷いた瞬間、議場の方向が一つに揃ってしまう。揃った方向は、戻り道を消す。

 壇の下から黒いローブの女が一歩出た。イザベルだ。目の下に影がある。その影は疲労ではなく、決意の影だった。


「許可を。黙って祈れと言うなら従わない、止めたいなら止める手を示して」


 短い。短い言葉は引き金に近い。


「SDSが動く。怒りの形をした刃が、もう鞘から出ている」


 議場の空気が一段汚れる。SDSという名は、発音した瞬間に倫理を擦り切らせる。科学を根本から根絶やしにするために作られ、手段を択ばず残虐性が高い。定義ではなく、体感として皆が知っている。

 テルはイザベルを見下ろした。


「イザベル。おまえたちは、もう動いている。なら、誰を守る刃なのかだけは今ここで言え」


 イザベルは視線を逸らさない。


「止めますか。そんな問いが出る時点で、議場はもう割れている」


「止めたい。……犠牲の数を増やしたくない。だが『止める』と言えば、私はおまえたちの刃を折る側になる」


 テルは正直に言った。正直に言った瞬間、議場の何人かが息を呑む。最大主教が正直であることは、戦争の場では弱点になる。


「だが、止める言葉には血が必要だ。だがやり方を誤れば、もっと燃える」


 イザベルが小さく笑った。笑いは短い。


「血なら、丘の上で流れている。あなたが止めないなら、止まらない。ならせめて、狙いを一つに絞らせろ」


 テルは目を閉じる。閉じた瞼の裏に、裂け目と火と、崩れた祈りの音が浮かぶ。祈りの音は、本当は音ではない。祈りが壊れるときの、胸の中のきしみだ。


「報復は必要だ。だがやり方を誤れば、もっと燃える」


 テルは言う。


「だが、報復は“怒りのまま振るう刃”にしない。次の刃を止めるための線として使う」


 壇の下で別の声が割り込む。名札を外した影の声だ。


「線など、もう向こうが引いた。引かれた線の内側で、私たちは切り刻まれる」


「向こうが線を引いたなら、こちらは“引き返し方”を選べる。怒りの向きを、せめて民へ向けさせない」


 テルは言った。

 イザベルが、少しだけ首を傾ける。


「引き返す道があると思っているのですか。今ここで答えないと、火が勝つ」


 テルは答えない。答えれば、議場がその答えに縋る。縋った瞬間、責任が消える。責任が消えた戦争は、いちばん長い。

 テルは光輪の映像を消し、代わりに文字だけを浮かべた。

 第三次世界大戦。

 誰かが先に置いていった見出しだ。議場が置いたのではない。だが、議場の誰もが読めてしまう。読めてしまうものは、すでに刺さっている。


「名付けられた戦争は、名付けた者のものではない。だからこそ、名を持つ者が責任を背負う」


 テルは低く言った。


「だからこそ、名付けられた戦争の中で、名付けられない夜を一つでも残す」


 ワシリーサが眉をひそめる。


「きれいごとだ。きれいごとで空襲は止まらない」


 テルは否定しない。きれいごとを捨てた瞬間、魔法側はSDSに飲まれる。飲まれた魔法は、祈りではなく刃になる。

 テルは壇の縁に手を置いた。石が冷たい。冷たい石が、戦争の熱を吸うように感じる。


「許可は出さない。許可を出した瞬間、私はSDSの刃の柄になる」


 議場の空気が止まる。


「だが、止めもしない。止めれば私はおまえたちの刃を折ることになる。それは、いまは出来ない」


 空気がまた動く。止めないという言葉は、許可より残酷だ。責任を誰にも渡さないからだ。

 イザベルが目を細める。


「ならば、最大主教。あなたは何をする。許さないなら止めるのか、止めないなら見届けるのか」


 テルは一拍置いてから答えた。


「守る。守ると決めたなら、代償も引き受ける」


「何を守る」


「魔法同盟国の名を。聖域の名を。守るべき夜の名を」


 テルは言い切り、壇の下を見渡した。


「SDSが燃料を撒くなら、私は消火の水を撒く。だが、水は火を消せても、火種を殺せない。火種を殺すのは、線の引き直しだ」


 誰かが呟く。


「線の引き直しなど、誰ができる。希望を言う前に、まず火を止めろ」


 テルはその呟きを拾わない。拾えば、希望になる。希望は甘く、戦争の中では毒になる。


「議場を閉じる。今この場で議論を続ければ、怒りが刃になる」


 テルが言った。


「各教会は、自分の民の避難を優先しろ。聖域を守るために民を捨てるな。民を守るために聖域を焼くな」


 矛盾した命令。矛盾した命令は、現場に判断を押し付ける。テルはそれが残酷だと知っている。知っていて、押し付けた。押し付けなければ、今この瞬間にSDSが勝つ。

 議場が動き出す。人の足音が増え、石の床が戦争のリズムを刻み始める。

 イザベルは壇の前で立ち止まり、最後に一言だけ残した。


「名付けは、もう止まりません。あなたの言葉は追いつけますか」


 テルは答えなかった。答えれば、それも名付けになる。

 同じ頃、国際科学都市の空は青かった。青い空の下で、人は普通に歩いていた。普通に歩けることが科学の勝利であるかのように、誰もが信じていた。

 研究者が紙コップを持ち、学生が大きな鞄を抱え、警備ロボが舗道をゆっくり進む。

 その日常の縁に、ひとつだけ不自然なものが混じった。

 空の端が、薄く裂けた。

 裂け目は雲の形をしていない。裂け目は自然の顔をしていない。見た瞬間、誰の脳も理解を拒む。拒んだまま、体だけが動く。


「走れ!!」


 誰かが叫んだ。

 叫びが届く前に、裂け目から落ちたものが建物の角に突き刺さった。音がしない。音がしないまま、色が変わる。青が灰になり、灰が赤になり、赤が白になる。

 白が、爆音を連れてくる。

 遅れて、窓ガラスが割れた。遅れて、足元の舗道が跳ねた。遅れて、肺の中の空気が揺れて、咳になった。

 理工学部の修士課程の学生、桐生優花きりゅうゆうかは紙コップを落とした。落としたコーヒーが舗道に黒い円を作る。その黒い円が、今だけは妙に平和に見えた。


「嘘!?」


 声が出たのか出ていないのか、自分で分からない。

 目の前の建物の角が、溶けていた。燃えているのではない。溶けている。金属が垂れ、ガラスが波打ち、空気が甘い鉄の匂いに変わる。


 『避難!!』


 街の端末が一斉に鳴り始める。


「窓から離れろ! 今だけは感情を捨てろ!」


「伏せろ!」


「地下へ!」


 正しい言葉。正しいのに、足が動かない。理解が追いつかないからだ。理解が追いつく前に、二発目が落ちる。三発目が落ちる。

 落ち方が、軍のものではない。狙いが、人の反応を見ている。

 桐生は気づく。

 あれは建物を壊すだけじゃない。人の恐怖を育てている。

 人が集まる場所を作り、集まったところを殴る。救助のために集まった人間を次の的にする。恐怖が恐怖を呼び、恐怖が動線を変え、その動線をまた殴る。


「こっち!」


 誰かが桐生の腕を掴んだ。白衣の研究者だ。顔が粉塵で灰色になっている。灰色なのに目だけが真っ赤だ。


「君! こっちだ! 地下通路へ走れ! 入口には集まるな! 次の爆風が来る!」


 地下通路。

 桐生は頷き、走り出す。走りながら振り返ってしまう。振り返った瞬間、屋上の縁に黒い影が立っているのが見えた。

 ローブ。

 手に持つのは銃の形をした魔道具。

 黒い影は笑わない。笑わないまま、見下ろしている。見下ろしているのに、見ているのは人間ではない。人間の反応だ。

 影が口を動かす。声は届かない。だが意味だけが、なぜか胸に刺さる。

 科学を根絶やしにする。

 意味が刺さった瞬間、桐生の足がもつれる。恐怖は、足首を掴む。

 隣で別の影が腕を振り、空中に新しい裂け目が開く。裂け目は輸送路だ。小さな裂け目から、次々と破壊が落ちる。爆弾ではない。魔力で編んだ破壊の塊。

 破壊の塊は燃やさず、溶かす。溶けた建材が流れ、流れた熱が空気を焦がし、焦げた空気が喉を焼く。

 地下通路の入口が見えた瞬間、そこに人が集まり始める。

 集まる。

 集まった場所が、次の的になる。

 桐生は喉が凍り、声が出ない。声が出ないまま、肩が震える。震える肩を、掴んだ研究者が強く引いた。


「止まるな! いいから走れ! 立ち尽くせば、次に飲まれる!」


 その言葉だけが、命綱だった。

 国際科学都市の監視室で、桒島美咲は端末を叩いていた。画面に映るのは火点ではなく、拡散の波形だ。投稿の初動。引用の連鎖。ボットの混入率。そこから逆算される火種の意図。


「SDSだ。分析は走りながらやる。まず遮断と避難線を引く」


 桒島は言った。短い。短い言葉の中に、無数の数式が詰まっている。


「狙いが人の反応を食ってる。判断が一拍遅れたら、次の火点が移る」


 安心院留美子が息を呑む。


「止められる? ……もし遅れたら、次の街区が燃える!」


 桒島は一瞬だけ口を閉じた。閉じた口の中で、答えを噛み砕く。


「止められない。止める手段がない。だから、被害の形だけは変える」


 正直な答えは、いつも喉を痛める。

 桒島は別モニターを開いた。衛星運用の回線。ネクサス。エレクトロ。凶器の名前が、正規の書式で並んでいる。


「だから、殺し方を選ばせる。下で潰すより、外れ方を管理する」


 彼女は通信を開く。宛先はSGHQ。


「国際科学都市が叩かれてる。民間に寄せてる。恐怖を増やす狙いだ」


 返ってきた一条実雄の声は、迷いがなかった。


「エレクトロを切る。やるなら今だ」


 桒島は喉が乾く。


「上から切るのは、上から焼くのと紙一重だよ。……でも、下が潰れるよりは“外れ方”を選べる」


「同じではない。『同じにしない』ために切る。外れた分の責任は、指揮系統で背負う」


 一条が言った。


「同じにしないために切る。外れた分は把握して、被害の波形を丸める」


 桒島は言い返したかった。切る瞬間に、誰が死ぬかを知っているからだ。だが、言い返す暇がない。下で死ぬか、上で切って死なせ方を変えるか。どちらも地獄だ。

 SGHQの作戦室では、鷹司正文が椅子に深く座り、ホロマップを睨んでいた。国際科学都市の点が赤く滲んでいる。滲みは火点ではない。人の動線の滲みだ。


「向こうは、こちらが取り乱すのを待っている。だから冷静に手順を回す。線を引け」


 鷹司が言う。


「誘われるかどうかじゃない。線を引かなければ、線は相手に描かれる」


 一条が淡々と返す。淡々と返す声の奥に、硬い疲労がある。

 鷹司は視線を上げた。


「線を引けば、線は太くなる。だが引かねば、線は相手に描かれる」


「一条。太くなった線の上に立ってでも、守る場所を作る。ここで手を止めれば、次に落ちる先は都市だ」


 一条は端末を叩く。エレクトロの発射権限確認が表示される。最上層部と権限委譲者。署名。承認。

 鷹司は一瞬だけ目を閉じた。閉じた瞼の裏に、ローマの丘の光が残っている。あの光の責任が、まだ手の平にある。


「先に撃たせるな。相手の一発が入った瞬間、都市が連鎖で落ちる」


 鷹司が言う。


「先に守る。守るために撃つ。……撃つなら、外れた先の数字まで背負う」


 一条が頷いた。


「撃て。外れ弾の責任まで背負う、それが指揮だ」


 鷹司の一言が、世界の上層へ滑る。

 宇宙の端で、エレクトロが起動した。光ではない。光に見える熱だ。熱が大気を割って落ちる。落ちた場所の空気が一瞬で白く沸騰し、次に黒く焦げる。

 国際科学都市の上空に、一本の線が引かれた。

 線は細い。細いのに、空が鳴る。細いのに、街が震える。

 桐生は地下通路の入口で、空が変な音を立てたのを聞いた。音は上から落ちてきたのに、胸の中で鳴った。


「何だ、あの音……」


 誰かが呟く。

 次の瞬間、地上の裂け目の一つが、その線に触れた。裂け目が崩れた。崩れた裂け目から落ちかけた破壊が、落ち損ねる。落ち損ねた破壊が軌道を乱す。

 乱れた破壊が、狙いを外す。

 外した先に、人がいる。

 悲鳴が上がる。

 悲鳴が上がる場所は、人が集まる。集まる場所が、また次の的になる。

 戦争が構造になる瞬間だ。

 第三の座標の灰色の壁では、赤い線が増えていた。国際科学都市。裂け目。エレクトロ初射。名付け拡散。

 佐藤芳樹は椅子に座ったまま、その線に触れた。触れた瞬間、遠くの粉塵が喉に入る感覚がした。遠くの叫びが、耳の奥に刺さった。

 リン・トレールが画面を睨む。


「上が切った。……外れ弾が出る。地上は俺たちが薄くする」


 芳樹は頷く。


「切った。切ったから外れた。外れた先に、また人がいる」


 リオ・トレールが手で口元を押さえる。


「外れた先に、人がいる。……それでも切らなきゃ、もっと広く死ぬ」


 芳樹は目を閉じた。


「薄くする。ゼロにはできないが、集まる場所を変えられる」


 リンが即答する。


「薄くするって、またそれだね。……でも今の私たちにできるのは、その“薄さ”だけだ」


「ゼロにできない。だから、誰がどこで折れるかを決めるしかない」


 芳樹は言った。言いながら、自分の言葉が嫌になる。嫌になるのに、言わないと手が動かない。

 総科理総が淡々と補う。


「誘導か。選べないなら、選ばされる」


「誘導だ。『選ぶ』ふりをさせてでも、群衆を外へ逃がす」


 芳樹は現在物象を組む。物質とエネルギーを一時的に形作る。形作るのは壁ではない。壁に見える空気だ。煙に見える光だ。避難路に見える錯覚だ。

 人は見えた道に逃げる。見えた壁を避ける。それだけで、死ぬ場所が変わる。変わるだけで、ゼロにはならない。

 国際科学都市の交差点で、人々は突然、風を感じた。風が吹いたわけではない。視界の端にだけ、矢印が浮かぶ。矢印は端にしか見えない。端にしか見えないのに、人はそれを追う。

 追った先に、白い霧が立っている。霧の向こうは見えない。見えないから、そこに突っ込まない。突っ込まないから、集まらない。

 桐生は霧の前で足を止めた。止めた瞬間、背後で爆音がした。爆音は遠くない。遠くないのに、ここには届かない。届かないはずなのに、胸が痛い。胸が痛いのは、爆音のせいではない。生き延びたことの痛みだ。


「……誰かが」


 桐生は呟く。

 誰かが、道を作った。

 誰かが、壁を作った。

 誰かが、彼女を生かした。

 その誰かは、名乗らない。名乗れない。名乗った瞬間、線が増える。線が増えれば、名付けられる。名付けられたら、狙われる。

 空の高いところで、エレクトロの熱がもう一度走る。裂け目が一つ、また崩れる。崩れるたびに、破壊が外れ、外れるたびに、別の場所が焼ける。

 芳樹は歯を食いしばり、現在物象をもう一段だけ組んだ。

 空中に薄い板が生まれる。板は透明で、熱だけを散らす。散った熱が街区の外側へ逃げる。逃げた熱が遠い川面を白く蒸発させる。

 川面が白くなるだけで済む。

 それが、この瞬間の勝利だった。

 SGHQの作戦室で、一条が報告を受ける。


「裂け目崩壊、確認。投射低下。……外れ弾の被害は、こちらで集計します」


 鷹司は頷く。頷いた瞬間、顔が少しだけ歪む。勝利の顔ではない。代償の顔だ。


「外れ弾の被害は」


 一条が一瞬だけ黙る。黙るのは、数字が言葉になるまでの時間だ。


「……出ています」


 鷹司は息を吐く。吐いた息が、どこにも行けずに胸に戻る。


「上から切ることは、上から焼くことと隣り合わせだ」


 鷹司が呟く。


「隣り合わせにしないために、次の線を考える。……ここから先は、戦場の形を変えるしかない」


 一条が答える。

 次の線。次の戦場。次の責任。

 地上では、別の線が太くなっていた。

 バレスト情報団のバレストローデは暗い部屋で映像を眺めていた。ローマの丘。国際科学都市の裂け目。エレクトロの光線。泣く人。走る人。溶ける街。

 同じ映像から、別の物語がいくつも生まれる。

 科学には自衛の物語を添える。

 魔法には聖域侵略の物語を添える。

 どちらにも、同じ札を添える。

 第三次世界大戦。

 バレストローデは笑わないまま言った。


「ほら、名付けは便利だ。短い見出し一つで、人間は勝手に並ぶ」


 部下が訊く。


「便利だと、誰が得をする」


「得をするのは、火を長くしたい者だ。人が考える前に、次の火種を投げ込めばいい」


 バレストローデは即答した。


「火は短いとニュースだが、長引けば支配になる。慣れた頃がいちばん甘い」


 地下では、敵性排除の通路に人が増えていた。増えたのは敵ではない。疑いだ。戦争が始まると、内側にも敵が生まれる。敵は実在しなくてもいい。疑われるだけでいい。

 西東三四は無音の通路を走りながら、拳を握りしめた。


「便利な夜にするな。口実を作れば、内側が先に死ぬ」


 桂昌院ちほが隣で乾いた笑いを漏らす。


「もう便利よ。戦争は便利な刃物を欲しがる。だからこそ、刃を内側へ向けない」


 西東は唇を噛む。噛むことで、自分の線を太くしないようにする。


「内側を燃やすな。やるなら今だ」


「燃えてるのは上だけじゃない。疑いが内側を焼く。だから口実を増やすな」


 桂昌院が言う。

 西東は返さない。返せば、正義になる。正義になれば、排除になる。

 魔法同盟国の議場の外で、テルは廊下の窓から空を見ていた。空は晴れている。晴れているから、戦争の光がよく見える。

 国際科学都市の上空に走った線。

 あれは科学の線だ。

 科学が空から線を引くなら、魔法も空から線を引き返すだろう。そういう誘惑が、テルの喉元まで上がってくる。


「最大主教。あなたが言葉を出さないと、SDSが言葉を出す」


 ワシリーサが後ろから言う。


「止めるなら今だ。誰かが“止める側”に立たないと、止まらない」


 テルは振り向かない。


「止められない。止める言葉が届く前に、火は移る」


「なら、選べ。ここで立ち止まるな。決めたら、身体を先に動かせ」


「選ぶ。やるなら今だ」


 テルは低く言った。


「私は、次の戦場を地上にしないために選ぶ。……その代わり、私の名は汚れる」


 ワシリーサが眉をひそめる。


「空か」


 テルは答えない。答えれば、それも名付けになる。

 第三の座標の灰色の壁では、線が空へ伸びていた。よりひめ。とよひめ。ネクサス。エレクトロ。ネクサスペース。宇宙軌道エレベーター。シュメールのジッグラト。バベルの塔。呼び名が増えるほど、怒りが増える。

 芳樹はその線を見て、息を吐いた。


「次は上だ。軌道を取られたら、地上は守れなくなる」


 リンが即答する。


「空の戦争は、逃げ場を地図から消す。人が隠れる場所がなくなる」


 リオが小さく言う。


「逃げ場を消された世界は、逃げるためにさらに殴る。恐怖が次の殴打を呼ぶ」


 芳樹は頷いた。


「だから、殴る前に、殴られ方を薄くする。逃げ道の形だけでも残す」


 リンが目を細める。


「薄くするって言葉、好きだね。……でも迷ってる暇はない」


「好きじゃない。だけど、いま私たちの手にあるのはそれだけだ」


「好きじゃないから、何度でも口にして、嫌いなままやる。……決めるのは私だ」


 国際科学都市の遠い空で、まだ煙が上がっている。煙は名付けられない。名付けられない煙の中で、人が生きている。生きているだけで、次の章へ運ばれていく。

 SGHQの作戦室では、鷹司がホロマップを見つめたまま呟いた。


「空に戦争が移ったら、世界は下を守れなくなる。守れない夜が、連鎖で増える」


 一条が答える。


「下を守るために、上を守ります。上を取られたら、下は一晩で燃える」


 その言葉が正しいかどうかは、今は分からない。分からないまま、決断だけが積み上がる。

 決断が積み上がると、世界は自分で歩き始める。

 歩き始めた世界は、止まらない。

 そして止まらない世界の上に、誰かがまた新しい見出しを置く。

 名付けは、もう止まらない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ