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第6話 それでも、帰すと約束した 第三幕


 一ヶ月後。

 彼らは瘴気の漂う森の中に在った。


「3班、4班、左に。2班は右。5班、後方援護。1班はついて来い」


 隊を率いているのは、西の兵団長リッケル。

 カイナから連絡を受けたシャールが彼の手駒として裏で動きつつ、表立っては合同訓練という名目で、東西南北の兵団から選りすぐりの者たちで討伐隊の編成が秘密裏に行われた結果だ。

 もちろんのことながら横槍が入らなかった訳ではない。

 シャールが裏で動きながら、表立ってのことについてはグレイをうまく使った。

 いかにも横槍を入れて下さいと言わんばかりにあからさまな合同訓練といえども、グレイがそれを望んだというのであれば話しは別。

 いくらあやしかろうとも、救世主として召喚したグレイが兵の増強のためにという名目でそれを望んだということであれば、いかに位が高かろうともそれを崩すことは難しい。下手に崩しにかかれば、救世主の邪魔をするものとして自分の立場が悪くなる。

 カイナが動き易い様にシャールが場を整え、犬族大好きなグレイを使って場を作りあげ、進めるしかないところに追い込んでようやくこの日に至ったのだ。


◇ ◇ ◇


 王城から彼らが出立したのは、5日前のこと。

 東西南北の兵団から編成した小隊を率いるのは西の兵団長リッケル。小隊は6班で構成されていて、2~5班は東西南北の兵団からの混合でそれぞれ各兵団の副団長が率いている。6班は出発直前でねじ込まれた神官兵だ。それはカイナも知らされていなかったようで、面倒な気配しか感じない。

 グレイとシャールは1班に組みこまれ、他はグレイの護衛としてつけられていた豹族のグエン、虎族のリッジ、シャールは名を知らないが彼の監視たち2名に西の兵団から2名の計8名、リッケルが班長を兼ねている。

 一行は馬に跨り首都を出た。被害が最も多く報告されている村に到着すると騎乗馬を預け、進むほどに瘴気が濃く感じられる森へと分け入った。

 調査隊の報告にある、瘴気による熊型変異種の縄張りまで徒歩で3日はかかる。それは獣人族の足でのことで、人族なら5日以上かかるだろう。

 頑強な作りの獣人族をもってして、簡単に倒せないというのだから、討伐対象であるロールベアとやらの強さは相当なものなのだろう。

 いや、こちらが瘴気にやられて動きが鈍ると言っていたことを加味すれば、瘴気さえなければそこまでの相手ではないのかもしれない。

 どちらにしても他の変異種たちを率いているという、その報告までは侮れるようなものではない。

 少なくとも、数度は討伐を失敗しているのだから。

 森は進み始めて半日もした頃から、空気の中に瘴気を含むようになっていた。

 進めば進むほどに濃くなる瘴気。

 ロールベアの縄張りの端に踏み込んだ3日後には、まともな姿の獣を見ることはなくなっていた。

 どの獣もどこかしら変異しており、通常ならば草食だという獣でさえ凶暴化して、己以外の、己の群れ以外の個体で動くものは敵またはエサだとでもいうかのように襲ってくる。

 変異した獣たちを相手に、ピンシャンしているのはグレイくらいのものだった。

 進めば進むほどに濃くなる瘴気の森で、獣からの襲撃に対応できているが、獣人たちの動きはだんだんと鈍ってきている。精鋭部隊ですら動きが鈍っているのだから、一般兵の部隊では獣たちに文字通りに餌にされていてもおかしくはないだろう。

 獣人たちほどではないものの、シャールですら多少は体が重いと感じる程度で。

 周囲の警戒レベルを落とすことなく、彼らはリッケルの指揮の元、2時間に15分程度の小休憩を挟んでの索敵を行いつつロールベアの縄張りを進んでいく。

 小休憩では流石に難しいらしいが、幸いなことに野営に関してはグレイの浄化スキルが彼らの負担を随分と軽くしてくれていた。

 野営の場所を決めると、その四方に小枝を折ってきて地面に刺し、その内部の空間を固定して浄化するのだ。それだけでなく、固定した空間への瘴気の侵入すらシャットアウトしてくれる。

 内部空間が浄化されることで物理的な体への負担はなくなり、なおかつ、瘴気どころか瘴気により変異した魔獣と称する個体の侵入すら阻んでくれるとあっては、討伐隊員たちのグレイに対する信頼は鰻登りに上がる一方だった。


 ロールベアの縄張りに足を踏み入れて、さらに4日が経った。

 隊員たちは口には出さないが、皆一様に瘴気にごっそりと体力を削られている。その証拠に、小休止を取るまでの時間がどんどん短くなってきていて、今では1時間ごとに10分程度、3時間で長めの休息を取るようになっていた。

 彼らよりも随分とましではあるが、シャールもかなり体の重さを感じていて、ぴんぴんしているのはグレイだけだった。

漂う瘴気が濃くなるのを、隊員たちはロールベアの縄張りの中心部に近づいているからだと解釈しているが、シャールだけは歪みの発生地点に近づいているだけだと知っていた。

 歪みに近づけば近づくほどに瘴気は濃くなっていく。ロールベアが瘴気を糧にしているようなことがあれば、歪みの中心部に近い場所を塒にしている可能性も高いだろうが……。

“そろそろ潮時か……”

 彼らと別行動をして、ロールベアを探し出して倒し、首でも持ち帰ってやった方がよいのかもしれないと、シャールがそんな事を考え始めるのも無理からぬことだった。



◇ ◇ ◇



『あんた達の言うロールベアとやらを倒しても、根本は解決しない』


 狐族の神官長、カイナを前にしてシャールはそう告げていた。


「本来は界の住人に漏らしてもよい情報じゃない。けれど、その後の対処を考えなければいけないあんたは、知っておいた方が良い」


 出撃までの準備の間に交わした密談の幾度目かに、シャールはその話を彼に切り出していた。


「ロールベアが瘴気を呼んでいるんじゃない。この界自体が限界を迎えている。寿命というやつだ。寿命を迎えたこの界の綻びが瘴気を生み、中てられた獣が変異している。界の管理者も出来る限り住人達への危害を軽減しようと、綻びを繕い何とか対処してはいるが、元の状態に回復することはない。ロールベアを倒しても次の上位種が森に君臨する。これは繰り返されることになる」


 カイナは苦り切った表情を浮かべていた。


「信じる信じないはあんたが決めればいい。ただ、その結論に達するまでに、兵を投入するならそれだけの損失を覚悟した方が良い。瘴気が広がれば、森に近い場所にある村や町への被害も頻発してくる筈だ。今回のロールベアについては討伐は可能だろう。けれど、次にもまた起こるのだと、その対策が必要なのだと知っておいてくれ」

「…………」

「グレイの“召喚”を命じたのが王であるなら、再召喚を命じられるかもしれないが、少なくともグレイは再召喚出来ない。グレイを帰したあと、きちんと彼の界へと統合し直す。他からの“召喚”もおそらく無理だろう。界の管理者が界の綻びを繕う以上に、界の住人が他の界の住人を違法に異界渡りさせることに目を光らせるだろうからな。だから、あんたたちは瘴気の森とどう付き合っていくのか、考えなければならない」

「何故……私にその話を」

「さっきも言った筈だが? ロールベアを倒して帰還したら、俺はグレイを元の界に帰す。そうしたら、その後に必要になるだろう?」

「……」

「あともう一つ」

「……なんですか」

「グレイがいかに浄化の力を強く持っていても、歪みを閉じることは出来ない。ロールベアを倒して付近の浄化をしたとして、しばらくは保つだろうが、歪みから生じる瘴気がまた辺りを満たす。あの瘴気を根本から断つには、界の歪みを繕うことでしか解決しない」


 感情を乗せない様に、シャールは淡々と語った。


「それはどうすれば……」


 本当はその言葉を口にしたくなかったのだろう、カイナが苦り切った表情でシャールにそう尋ねた。

 シャールの方でもカイナのそんな心情は見越しているのだろう、変わることなく淡々とした態度を貫き、右手を肩の高さまで上げて指で上を差す。


「それができるのは“界の管理者”だけだ。それでも一時しのぎにしかならないがな」

「管理者?」

「あんたたちが“神”と呼ぶもの。どんな宗教でも必ず出てくるだろうところで言えば、世界を創造した最高神とでもなるかな」

「神……」


 上を指さしていた手を下げ、シャールはそこに感情を乗せない様に続ける。


「神官てのは、どの程度アクセスできるんだ? うまくアクセスできて交渉することができれば、優先的に歪みに対処してもらえる可能性くらいはあるかもな。だが、出来たとしても、あくまでも応急処置の一時しのぎだ。もつのが1日なのか10年なのかは分からない」


“言わなくてもいいのに、わざわざ教えちゃうんだから。ホント、シャールは甘いよね。憎まれ役なんて、なってやる必要無いんだヨ?”

 デスクに両肘をつけて頬杖をつき苦笑する課長の姿が脳裏をよぎったが、シャールは耳を小さくぴるぴると動かして振り払う。

 こんな情報を誰も彼もに話す訳ではない。けれど、今回の様に界が限界を迎えている場所では、課長に“甘い”と言われても、必要なことなのだとシャールは思っている。

 できれば権力に近く、良識を忘れていない人物。

 今後の見通しを、短期から長期にかけて考えることができそうな人物。

 シャールなりにきちんと人選はしているつもりだ。

 そのために、自分なりの基準を作っている。

 自分の話しを理解しようとする人物で、最終的に裏切られる様なことがあったとしても“信じてもいい”と思った人物。

 今回は狐族の神官長がそうだったというだけのこと。



◇ ◇ ◇



 瘴気の発生源にかなり近づいている。


 随分と深くロールベアの縄張りに入りこんだと、討伐隊の面々が感じている中、シャールが感じているのはそんなことだった。

 それとともに、遠征直前どころか当日になってねじ込まれた神官兵の数名の動きがいよいよ怪しい。名目上はグレイの浄化の助けになるようにとのことだったので、グレイに比べればわずかなものだが、多少は浄化の力を行使することができた。

 その程度なら、ない方がいいレベルだ。

 シャールが心の中で毒づく程度だが。

 さすがの精鋭部隊でも顔色の悪いものが多くなり、出現する魔物にもやや遅れを取り始めていた。グレイ以外は守護対象ではないが、今ここで倒れられるもの後味が悪いからと、彼らが取りこぼしている魔物をひっそりとシャールが刈り取るようになったため、今のところは大きな被害は出ていないが、それも時間の問題だろう。


「ちょっといいか」


 明日にはもう発生源の間近まで接近してしまうだろう夜に、シャールはグレイに声をかけた。

 野営の旅に浄化の陣を張ってきたグレイも、ここへきて随分と疲労がたまってきているのが見て取れる。


「ほかの連中には内緒だぞ」


 言いながら、革袋を取り出し一口煽ってからグレイへと差し出す。

 素直に受け取りつつも、鼻を寄せてくんくんとにおいを嗅ぎ、ぱぁぁぁっと表情を輝かせる。


「いいの!?」


 こくりと頷いてやれば、グレイは中身を大きく一口分をゆっくりと煽った。

 はふぅ、と。

 吐き出された呼気からはわずかに酒精が漂う。


「はぁ~~~、沁みるぅ」

「だろうな。リッケルがくすねてきてた中でもかなりの上物だからな」


 苦笑しながら言い、それから間をおいて口を開きなおす。


「……。グレイ」

「なに?」

「今でも帰りたいと、そう思っているか?」


 直球で投げかけられ、グレイはシャールへと視線を向けなおした。


「帰りたい」


 即答だった。


「もうすぐ、終わるはずだよな。なんか、イヤな感じがものすごい強いし。たぶん、全部は浄化しきれないと思う」

「狐族とした約束は忘れていないな?」

「うん」

「なら、いい」


 シャールはぽんとグレイの肩を叩く。


「残り、呑んでもいいぞ」


 そう言い残し、踵を返した。



 翌日。

 一行は途中出くわす魔物に手こずりながらも、最奥部ともいえる瘴気の発生源まで到達した。

 不自然にえぐり取られるように裂けた地面。

 向こう側までの幅は、班一つ分の人数が手をつないで並んでも若干足りないほどありそうだ。

 のぞきこめば深さのしれない奥底から、黒い靄が立ち込め、作り出された表層はまるでマグマのようにぼこり、ぼこりと沸き立ち、それが弾ける度に地上に向かって瘴気が放出される。

 縄張りに踏み込んで以来、接敵することがなかったけれど。

 この瘴気を呼び込んでいるロールベアは、きっと近くにいる。そう思わせるには十分な光景だった。

 ざわ、と。

 木が揺れる音がした。


 「2班、3班、左からまわりこめ! 4班は遠距離から打ち込みながら、ほかの魔獣に接近に気をつけろ。5班は遊撃!」


 リッケルが、即座に指示を出した。あまりにも濃い瘴気に、ロールベアの気配を掴むことができなかった己への叱責がわりに舌打ちをしつつ、長大な剣を抜き対峙する。

 複数回の討伐失敗。

 その対象を前に、瘴気で動きが鈍っているにもかかわらず精鋭たちは善戦していた。グレイも一緒になって飛び込んでいったものだから、シャールもグレイを守るために戦闘に参加する。

 それが不意に。

 シャールの視界の端をかすめた。


「グレイ! 伏せろ!」


 声に出せば、グレイが地面に転がり、ほぼ同時にシャールの銃が火を噴いく。

 大きな銃声。

 かぶって獣の悲鳴が上がった。


「一頭じゃなかったのか!?」


 ボスとして君臨しているロールベアは一頭と、思い込んでいた。本来の生態が、単独行動の獣だからなおのこと。

 たんっ。

 シャールの足が地面を蹴りつけ、一気に距離を詰める。

 その動きが見えていたのだろう、グレイはそのままごろごろと体を転がしてシャールへ道をあける。

 接近したシャールに大きな爪を振り下ろしてくるが、それよりも早く踏み込み薙ぎ払った刀がざくりと深く胸元を抉る。致命傷に至らなかったことに舌打ちをもらし、とととっと、素早く下がって体制を整える。


「動けるな」


 視界の端で、同じように体制を整えなおしたグレイにたずねる。


「もちろん」

「こっちは任せろ。あっちに戻れ」

「けど」

「行け」


 強く促され、グレイは踵を返す。

 いましがたの一撃で、シャールに援護の必要はないと、否が応でも思い出した。彼の実力は、兵団の中でも兵たちに稽古をつけるどころか、各兵団の団長を凌ぐほどだったということを。

 グレイの背後で、ザっと、シャールが地を蹴る音がした。


「ガ、ガ、ガ……」


 壊れた蓄音機のように、しゃがれた単音の断末魔とともに重いものが倒れる独特の音が耳に届いたのは、そのすぐ後のことだった。

 グレイが走り去る気配を背後に感じながら、シャールは倒れたロールベアを一瞥し、周囲に視線を走らせる。

 視界の範囲内には、ほかの魔物の姿はない。

 先に接敵したロールベアも、もう間もなく刈り取れるだろう。

 そう思った矢先に、断末魔とともに重量にみあった音を立ててロールベアが倒れた。

 瘴気で随分と動きが鈍ってはいたが、精鋭部隊だけあって、負傷したものはあっても命を落とした者はいないことが伺える。6班の班長をはじめとする数名の神官兵が、負傷者らの傷の浄化のための術式を展開している。

 ロールベアの絶命とともにその状況を確認し、討伐隊を率いるリッケルが改めて大地に裂け目へと顔を向けた。

 君臨しているボスが呼んだ瘴気。ボスであるロールベアを討伐した今なら……。

 グレイへと向きなおす。


「グレイ、頼む」


 地面に片膝をつき、深く、深く首を垂れる。

 ほかの兵たちも同じように。


「準備をする」


 短く言ったのは、やや離れた場所で様子を伺うように立っていた神官兵の一人だった。

 その声色は、どこか支配的でひどく冷たい。

 同じ様に側にいたほかの神官兵に目配せをし、先頭に立って大地の裂け目へと近づいていく。


「待て。準備とはどういうことだ。我々の術式程度では、これほどの瘴気を浄化することはできない」


 一歩近づくごとにどんどん顔色が悪くなっていく神官兵たちに、そう投げかけたのは負傷者の浄化術式を展開中の神官兵班長だ。


「あぁ。そういえば、アナタ、聞かされていないんでしたっけ? グレイ様の浄化の力を増幅させるための、術式について」


 先ほどの神官兵が応じたが、言葉に含みがありすぎて、班長の眉間に深いしわが寄る。

 急に討伐班に選出されて、6班として時には戦闘に加わりつつ、グレイに比べれば微々たる力とはいえ、受けた傷の浄化程度なら施せる。主力の精鋭部隊の陰に隠れる形になっていたが、ここまで同行できる程度には鍛錬もしてきたし、それ以上に魔術の深く学んできた自負がある。

 浄化を増幅させる術式。

 そんなものは、聞いたことも無いし、文献でも見たことがない。


「そんな術式など――」

「グレイ様、どうぞこちらへ」


 神官兵班長が言い切るよりも早く、その声をかき消すように声を大きくして神官兵がグレイを促す。

 さすがに彼らの様子がおかしいことくらい、察することができるようで、グレイが戸惑いの色を見せ、視線がシャールへと向けられる。


 これは――。


 シャールの経験と勘が警鐘を鳴らしまくっている。

 ベストのポケットを探り手探りで端末を起動し、今回使うことはないだろうと踏んでいた装備を取り出す。


「グレイ様。どうぞ、こちらへ」


 神官兵が再度促す。

 シャールから神官兵班長、リッケルやほかの兵たちに視線を向け、もう一度シャールへと。

 グレイはしばらく何かを考えるようにうつむき、顔をあげる。

 ゆっくりと、神官兵の方へと歩み寄る。


「こちらへ」


 神官兵はグレイを大地の裂け目に近い場所へ立たせ、己は真後ろに、残る者たちを左右に立たせた。

 手を祈りの形に組み、何か唱え始める。

 聞くとはなしに聞きながら、グレイは大地に裂け目に向き合った。


“さすがにこの規模の瘴気を、一人で浄化しきることなんてできない。ならば、せめてできる限りのことをしよう”


 そう思いながら、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。

 数度繰り返し、浄化の力を発動させた。

 その時だった。


 ドンッ。


 グレイが前のめりにたたらを踏む。

 浄化の力を散らすことなく、首だけで振り返れば、神官兵が体当たりしてきたのだとわかった。

 え? なんで?

 たたらを踏んで崩れた姿勢のグレイに、さらにつづけて別の神官兵が体当たりしてくる。

 大地の裂け目に向き合っていたグレイの足場がなくなる。

 体が傾き、飲み込まれる瞬間に見えたのは、顔色を変えて走りこんできたリッケルが必死の形相で手を伸ばしてくる姿に、神官兵班長が神官兵たちにとびかかっている姿。


「浄化の核として贄にすれば、国は――!!」


 そんな言葉が聞こえた。

 落ちゆくグレイが伸ばした手は、どこにも届かなかった。

 そのわずか一瞬だけ、時間が遅くなる。


『贄にするなら、最初から召喚するな』


 シャールの足が地を蹴り、大地に裂け目に身を投じた。


 がしっと。


 シャールの腕がグレイの腰をとらえる。

 驚きに見開かれたグレイの目に、シャールの鼻に深い皺が刻み込まれているのが映った。シャールのそんな表情など初めてだった。


「帰るって言っただろ」


 ばしゅ、と。


 シャールが手首に装備した射出ワイヤーを打ち出す。

 ガッと、壁をとらえるとともに落下が止まり、巻き戻しをかければ、一気に上昇しはじめる。


「あんたは、俺が帰す」


 グレイが応えるより早く。

 彼の身はぶわりとあふれる光に包まれる。とっさに目を閉じ、それでもなお眩しい光を顔の前に腕をあげて遮れば、続けてぐわりと脳を揺さぶられるような感覚に、めまいを感じ――。


 勢いのまま大地の裂け目からの飛びだし、出してきたのは、シャール一人だった。


「贄が成った! これで国は――」


 グレイに最初に体当たりをした神官兵は、神官兵班長にうつぶせになって取り押さえられたまま、シャールの姿に愉悦に満ちた、どこか狂気じみた声で喚いた。

 みなまで言い切るよりも先に、シャールが一瞥をくれる。


「帰した」

「どういうことだ! 貴様、国を滅ぼす気か!」

「滅ぶ国は、誰かを贄にしても滅ぶ。

奪う国など壊れればいい」


 静かに淡々と。

 けれども、冷めきったその気配に。

 喚く神官兵たち以外は、背筋を凍らせる。

 今、目の前の、この場における最大戦力。

 その彼の静かな怒気。


「狐族に……」


 視線が討伐隊隊長であるリッケルに向けられる。


「伝えろ。コチラの任務は果たした。あとはあんたの仕事だと」


 応えなど聞くつもりもない。

 シャールの姿がそこからかき消えた。


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