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異界渡り監察課CORGI

来たくて来たわけじゃなかった。

ただ自宅のドアを開けただけで、明らかにヤバい獣から逃げる羽目になるなど思ってもいなかった。

――ここが異世界で、元の世界への「帰り道」があるだなんて、もっと思ってもみなかった。



 彼は必死に足を動かし続けていた。

 自分でも五月蠅いと感じるくらいに、口からは喘鳴かと思えるほどの切迫した呼吸音が発せられ、言葉なんて紡ぐような余裕はこれっぽっちもない。

 とにかくここから逃げるしかない。

 脳裏を占めるのはそれだけだったが、それでも、この状況が「ただの死」では終わらない可能性を、彼はなぜか捨てきれずにいた。

 深い深い森の中。

これまで一度たりとも経験したことがない長い時間を全力で走り続けている。


“どうして。

 どうして!

 どうして!!“


 筋肉に限界が訪れる。

 思う様に足が上がらなくなり、大きく張り出していた木の根につま先を引っかけられてバランスを崩した。

 どうっと前のめりに転倒し、それでも逃げなければという気持ちと、今の自分のおかれた状況に対する……葛藤ともいう心情とで体がうまく動かない。

 体を反転させて上体を起こし、ソレに対して腕を顔の前で交差させた本能的な防御態勢を取ることが精一杯だった。

 大きな牙を持つ二つ頭の四足の獣が、飢えた目で獲物に留めをさすべく大口をあけて自分の方へと跳びかかってくるのが、他人事のように、それこそ映画やアニメのワンシーンの様にまるでスローモーションのように映る。

 これが小説なら、助けがあらわれるフラグであることを祈るような場面だったかもしれない。


 ──現実でなければ。


 脳裏によぎったのは、時間的にはここ1時間ほどのこと。


“走馬灯って……やつかよ”


◇◇ ◇


 大学からの帰路の途中だった。

 5時限が休講になったため、うきうきと家路へとついた。電車を使えば10分、歩けば30分の道のりを少しでも節約するためにと徒歩で通い、途中に寄ったスーパーでチラシの特売の卵をゲットしてかなりご機嫌だった。

 スーパーのビニール袋をかさかさ鳴らしながら、狭いながらも風呂トイレ別のワンルームのアパートにたどり着き、ジーンズのポケットに突っ込んでいる鍵を取り出し鍵穴に差し込む。

 いつものようにカチリと小さな音を立てて鍵が開き、ドアを引いて開けて……。

 そう。

 そこまでは間違いなくいつも通りだった。

 いつも通りじゃなかったのはここからだ。

 開けたドアの向こうには、いつもの見慣れた部屋はなく、四角く切り取った星空のようなものがあった。


「はぁ!?」


 視界に飛び込んできたものの意味など理解できようはずもなく、とりあえずいったんドアを閉じた。


“ここのところバイトを詰め込み過ぎていたから、自分では気付けなかったけれども実は疲れていたのかもしれない”


 そう思いながら、ドアを開け直す。

 視界に映るのは、さっきとおなじでドアの形に切り取った星空の様なもの。

 もう一度ドアを閉め……、開け直すがやはり同じものが見えた。

 三度目も同じものが見え、どうしたものかと進むこともできず、さりとてもう一度ドアを閉めることもためらわれて、そうフリーズした。

 その時だった。

 ぶわりと背を押される様な強風にあおられ、体が前のめりに倒れた。

 ドアの向こうに見える星空の様なものの中に押し込まれるというか、吸い込まれるというか……。


 気がつけば、アニメの映画で見る様な深い深い森。

 なぜここに居るのかすら理解できない。

 肩から掛けていたメッセンジャーバックと手提げのビニール袋が側に落ちていて、手元に引き寄せると、バッグを改めて肩にかけ直した。

 ぎゅっと肩から掛けたベルトを握りしめ、きょろきょろと見回してみるけれども、木々の葉の緑と幹と土の茶色しか視界には無い。

 しばらく呆然と立ち尽くし、とにかくここから出て、人のいるところに行くべきだと思い至り、訳も分からないままに歩きだした。

 どれだけ進んでも変わらない景色。

 体力よりも先に気持ちが音をあげた。

 気持ちが音をあげたことで足が止まる。その時だった。ふと、誰もいないはずなのに、確かに背中の奥に視線が触れた気がした。

 そこに意識を向けようとした矢先、ぐうううと腹が鳴った。

 こんなときでも腹は減るらしい。

 それをきっかけに他にも身体からの訴えに気づく。

 それなりに歩き慣れているはずなのに足がパンパンになっているし、喉の渇きも相当だ。

 手にしているビニール袋の存在を思い出し、すぐに溜息をつく。

 中にあるのは大学からアパートまでの途中にあるスーパーで買った特売の卵が1パックだけ。喉の渇きが生卵丸飲みでどうにかなるとは到底思えない。

 肩から斜めがけにしているバッグの中も、こんな時に限ってペットボトルの一本も入っていない。


「スマホ!」


 バッグのことを思い出したからだろう。中に放り込んでいるもののことにようやく思い至り、彼はあわててバッグの中を探って目当てのものを取り出す。

 移動する前に気付けばよかったのに、自分のうかつさに腹を立てながらもスリープ状態を解除し……。

 示されている文字に肩をおとす。


『圏外』


 こうなってしまうとどうしようもない。

 誰かに連絡することもできないし、GPS機能を使って自分が今居る場所を特定することもできない。

 とりあえず少し休もう。

 携帯をバッグの中に戻し、目についた木の方へと歩み寄り幹に背を預けて座りこもうと、膝の力を緩めたその時。


 パキ。


 枝を踏みおるような音だった。


「すみません! 助けて下さい! ここどこ……」


 他にも人がいるのかと気持ちが沸き立ち、音源の方へと体を向けながら発した言葉は全てを紡ぎきることは出来なかった。

 少し離れた茂みの奥からソレが現れた。

 どう見ても友好的とは思えない。

 どう見ても……。

 彼は身をひるがえし脱兎のごとく走りだした。

 空腹も喉の渇きも、疲れてぱんぱんになってる足も関係ない。

 ソレが追いかけてくるのが気配だけで分かる。

 見たこともない動物。

 形だけなら狼だとか大型犬だとか称することができるだろうけれど、頭が二つついていた。その雰囲気からも目の色からもとても友好的とは思えない。むしろ、狩られると、エサと認識されているのだろうと、分かりたくもないのに感じられてしまう。

 それが感じられたからこそ、脱兎のごとく走りだしたのだ。

 逃げ切れる可能性が低いことが自分でもわかる。

 どう考えたって、四足の獣に足で勝てるとは思えない。

 友人宅で飼われている小型犬でさえ、本気で走らせたら人の足を追いこすくらいなのだ。大型犬よりもまだ大きい獣にどう頑張ったって敵わない。

 そんなことは分かっている。

 分かっていても、足を止めたらすぐにあの二つの頭で、大きな牙の餌食にされるだろうことが容易に想像できるため、足を止めることは出来ない。

 ソレも“この獲物”が捕えるのにたいして難しいものではないと分かっているのだろう。じわりじわりと距離を詰めてくるが、一気に跳びかかってくる様子は今の頃は無い。もっとも、獲物が疲れてもっと動きが鈍るのを待っているだけかもしれないが。

 手にしたままのビニール袋を勘で後ろに投げつけるが、その程度でソレがひるむ様なことなどなく、ゆっくりと距離を詰められる。

 それでも必死になって走り……。

 張り出した木の根につま先を引っかけられ、転倒した。

 充分に追い詰めたと判断したのだろう。一気に詰められ、ソレが二つの頭のそれぞれの大口を開けて飛びかかってきた。


「ギャオゥッ」


 脳内を走った走馬灯から、現実に引き戻されたのは、襲い来ると予測した痛みではなくくぐもった感じの獣の悲鳴らしき音。

 助かった、と思うより先に、状況が理解できなかった。


「大丈夫!?」


 顔をかばう位置であげて交差させていた腕を僅かに降ろすと、ソレが地面に転がり、自分との間に別のモノがいるのが見えた。


「そのまま、動かないで」


 ソレは自分を跳ね飛ばしたモノを“獲物を横取りする敵”とみなし、先に排除すべくターゲットを絞り直した。

 新たに現れたモノはソレに向き合うと、半身を引いて初撃を交わし、いつ手にしていたのかすれ違いざまにざくりとソレの片方の頭の口の中に大きなナイフの様なものを突き立てる。


「ギャッ」


 ナイフを突き立てられた方の頭が力を失い、だらりと頭を垂れた。

 片方の頭を再起不能にされ、ソレは低く唸りをあげながらじっと睨みつける。追い込まれた時の獣の本能で“逃走”か“闘争”のどちらが有利なのかを読み取ろうしているのだろう。

 次の瞬間には、ソレはひときわ大きな唸りをあげて地を蹴り、新たなモノへと跳びかかった。闘争を選んだ結果だ。

 が、その判断はソレにとっては正しい行動とはならなかった。

 残った頭での初撃を躱され、踏み込みながら牙を振るうがかすりもしない。するりするりと躱され続けるうちに、攻撃が当たらないいら立ちから動きが荒くなりはじめる。

 それを待っていたかのようだった。新たなモノの手には、いつ取り出したのか先ほどのものとは別の大型ナイフの様な刃物が握られ、横に一閃したかと思えば、ソレの目を潰しあっさりと視界を奪っていた。続いてダンスのステップを踏む様な動きでソレの左に抜けざまに、左肘の付け根の奥へとナイフを突き立てていた。

 断末魔をあげることも無く絶命したソレがどさりと、重量にみあった音を立てて地に倒れる。

 新たなモノは小さく安堵の息をつき、ソレの頭と胴に突き立てられている二振りを回収し刃についている体液をソレの被毛にこすりつけてキレイにしてから、腰の後ろにまわした。


「怪我してない? 大丈夫?」


 どう見たって攻撃力の高そうな危険でしかなさそうなソレを相手に立ちまわりをしたとも思えない様子で、ほてほてと彼の方へと近づいて小首を傾げてたずねた。


「え……。なに? どういうこと……」

「怪我、してない?」


 彼が目の前の出来事を処理しきれずにいると、もう一度同じことを尋ねられた。


「けが……?」

「うん。大丈夫?」


 促され、彼は改めて自分の体へと目を向けた。逃げている最中に枝に引っかけたのかシャツに小さな裂け目があったが、皮膚には傷がついていない。掌や腕に少し擦り傷があるのは、派手に転んだ際のものだろう。


「……大丈夫」


 短く答えると、


「そう、良かったね!」


 と、嬉しそうに返されて、彼は改めて自分を助けてくれたモノへと視線を向ける。


 犬を飼っている友人は数人いるが、そのうちの一人の家で見た……。

 いや、あれはちゃんと四足で歩いていた。けれども、今目の前に居るのは後足で立ち上がり、腰にはベルトの様なものを付けていて、ベストっぽいものを身につけている。

 なに、これ、どういうこと?


「……コーギー?」


 情報過多でぐちゃぐちゃになった脳みそが、口から出させたのはその一言だけだった。

 それは友人宅に居た犬の種類の名、だった。


「CORGI知ってるの?」


 大きな三角耳をぴくぴくしながら返された言葉に、彼はちょっとした違和感を感じつつもこくこくと頷いた。そうしてふと、目の前のイキモノに助けられたこと改め実感して慌てて立ち上がった。


「あの! えーっと、助けてもらってありがとうございます! アパートのドアを開けた筈なのに、なんかこんなことになっていてホントわけわからなくて!」

「そうだよね。びっくりするよね」

「え?」


 自分でも自分の身に起こっていることが充分に理解できていないのに、それを普通に“今日の天気は晴れですね”くらいのテイストで返され、その反応におどろきを見せればまた小首を傾げられる。


「あ、そっか。地球界の人?」


 そんなふうに問いかけられ、国ではなく地球と言われたことに“スケール大きすぎ”と心の中で突っ込みながらも彼は首を縦に動かして肯定する。


「地球界の人なら納得。コーギーって言ったんでしょ?」

「え? だって、コーギーだし……」

「コーギーじゃなくてCORGI。地球界の人はみんなおれたちのことコーギーって言うよね。地球界の犬族のコーギー種に似ているんでしょ」

「似てるっていうか……。コーギーだし」


 言いながら二本足で立つコーギーを改めて観察する。

 背の高さは、彼の腰よりも頭一個分高いくらい。友人宅のコーギーが後足で立ちあがっても頭の位置が腰よりも随分と低かったことを思えば、結構大きいのかもしれない。

 毛の長さは中くらいというのだろうか、白と黒と茶色の三毛犬だ。友人曰くトライカラーだとか言っていた様な気がする。上半身はベストに隠れていて見えないけれど、背の大部分は黒で腹は白で、境目のなっている辺りに茶色が入っている。顔も三毛になっていて、口元は白いが全体的に茶色で、頭が黒の毛が混ざっていて幅の広いカチューシャを付けている様に見える。首元はくるりと一周マフラーを巻いている様に白。


“どこから見ても犬だし、コーギーだし”


 ちょっと違うのは2本足で立ちあがって普通に歩いてるのと、普通に話しが出来てることくらいだ。


“あー……。ひょっとしたらさ、アレじゃないか? 夢オチ的な”


 テンプレだけど、自分の頬とつねってみようかと彼が手を持ち上げかけた時、ちょいちょいとシャツの裾が引っ張られた。


「あのね。ちょっと話し、きいてくれる?」

「え? あ、うん」


 曖昧な返事をすると、自称:コーギーならぬCORGIはじっと彼を見上げてきた。


「あのね、ここ、地球じゃない界なの。で、えーっとなんだっけ、いい言葉教えてもらったんだけど……。あ、そうそう! いせかいとりっぷって分かる? そんな感じで、ここに来ちゃったの」


 コーギーの口から異世界トリップなんて言葉が出るとは思わなかったなぁ。誰かに教わったらしいけど、確かに分かりやすいけど……。

 そっと心の中だけで突っ込み、話を続けるCORGIの言葉に耳を傾ける。


「で、ここに来るにあたって、誰かと契約したとか、そんなっぽい夢を見たとかある?」

「は? いや、ないけど……」

「地球界に戻りたい? ここで暮らしたい?」

「ここで暮らす!? いやいやいや、どう頑張っても無理だろ。こんな森の中に放り出されても、さっきにみたいな獣に襲われたら、死ぬし!」

「ん~。じゃあ……帰る?」

「帰れるのか!?」

「うん。できるよ。だってCORGIだから」


 えっへんと胸を張るコーギー。


「ここの界の管理者、こういうことする常習犯なんだ。ごめんね」


 そう付け足すとコーギーはベストのポケットに手を突っ込み携帯っぽいものを取り出すと器用に操作し始める。

 操作自体は難しいものではないのか、すぐに終えてしまったようで、胸ポケットへとしまい込んだ。


「違法渡りの確認も取れたし、帰る?」

「え? そんな簡単に戻れんの?」

「だってCORGIだから」


 ハマりにはまってる友人に押し付けられてるようにライトノベルを読んだが、どれもこれも召喚されたはいいけれど帰る方法はありませんとか、帰るためにはものすごいイベントをこなしまくらないといけないとか、異世界トリップものはそういう系ばかりだった。

 目の前のコーギーが“地球に戻りたい?”だとか“帰る!?”と言うのも、てっきり何かいろんな条件的なものをこなさないといけないと思っていたのだ。


「あのさ、戻るためにこんなことしなきゃいけないとか、なんか面倒くさいことあったりとかしないのか?」


 だから、つい聞いてしまった。


「特にないよ。たまにそういうのに当たっちゃうこともあるけど」

「……。今帰りたいって言ったら、今帰れたりとか?」

「するよ。帰る?」

「そんな簡単に帰れるのか!?」

「だから、CORGIだからって言ってるでしょ」


 コーギーとCORGI。

 微妙な違和感の正体はもうそこしかないなと、流石に察して彼はこれについてたずねようとして……ためた。

 好奇心は猫をも殺すのだ。

 友人に押し付けられた異世界トリップ系の小説の中の主人公がやっちゃって、のっぴきならないことになっちゃう。妙なことをしてしまったり知ってしまう前に、帰れる時に帰るのが無難なのだ。

 そう自分に言い聞かせた。


「いろいろ気になることもあるけど、なんかいいわ。帰れるなら帰りたい。帰してくれるか?」


 自分内結論を口にすれば、CORGIは分かりやすくにぱっと笑みを浮かべる。


“あいつのところのコーギーもよくこんな顔するよな。あれ、笑ってたんだな”


 そんなことを思いながら見ていると、CORGIが短い前足を彼の方へと差し出した。


「手、繋いで」


 言われるままにCORGIの前足をそっと握る。


“うん、肉球だ”


 掌にあたる感触に、ついふにふにしたくなるがぐっとこらえた。なにせ妙なことはしないと、さっき自分で決めたところなのだ。


「ちゃんとぎゅってしててね。あと、目、つぶってる方がいいよ。ちょっとまぶしいあとに、ぐわーってなって、そのあとまたまぶしくなるから。2回目のまぶしいの後に、おれの手の感触がなくなったら目、開けて。元の場所に戻ってるから」

「分かった」


 本当は“ぐわーってなる”っていうあたりについて、もう少し詳しく聞いておきたい気持ちがあるのだが、彼はこれもあえて聞かないことにして言われたとおりに目を閉じた。

 直後、目を閉じてなお瞼を焼き切る様なまぶしさに包まれ、ぎゅうぎゅうと四方八方から体を押さえ込まれる様な感覚に襲われる。その感覚ときたら、けっして気持ちの良いものではなく、CORGIが“ぐわーってなる”といったのは結構正しい表現だったと心の片隅で呟いた。

 それが長く続いた様にも思うし、ほんの数秒だった様にも思う。

 再び、瞼閉じてなおまぶしい光の波にのまれ……。


◇ ◇ ◇


 自分が目を閉じて立っていることに気付いた。

 手の中にあった肉球の感触はもうない。

 だからそっと目を開けた

 見慣れた景色が視界に入ってきた。

 大学に入ってから一人暮らしをしている、ワンルームのアパートのドアをまさに開けたところだった。

 狭い玄関にはサンダルと一張羅の皮靴。

 一歩踏み入れると、そこにあるのは日常だった。

 いつものようにスニーカーを脱いで部屋に入り、肩にかけているバッグを布団の上げ下げが面倒という理由で買った安物のパイプベッドの上に投げ出す。

 チッチッチッと枕元で時を刻んでいるアナログな目覚まし時計の秒針の音に、耳と視線を引き寄せられ長針と短針が示す時間を見てどうしてだか苦笑が浮かんだ。

 5時限が休講で途中でスーパーに寄って帰ったら確かにこの時間だろう。

 ふと思い出し、ベッドに放り出したバッグから携帯を取り出して確認すれば、アンテナ表示がきちんと電波受信状態にあることを知らせてくれる。


「白昼夢……」


 思わず呟き、ぶるぶると左右に頭を振る。

 あれは夢じゃない。

 現実だった。

 その証拠に、あの時確認したシャツの裂け目は今もあるし、掌や腕の擦り傷は消えていない。

 なにより……。


「あー……。どうするよ、晩飯」


 大学からの帰りに寄ったスーパーで買った特売品の卵がない。それが「偶然」ではないと、どこかで理解している自分がいた。

 バイトの給料日前でちょっと厳しいから、米だけ焚いて鶏肉なしの親子丼、つまりは卵丼にしようと思っていたのに、メインを飾る筈の卵がない。

 二つ頭の獣に追われている時に投げつけた覚えがある。

 どうせならあれも回収して一緒に帰らせてくれたらよかったのに。あ、でも全部割れてるか……。

 ぐうぅうぅきゅるるるぅぅぅ。

 体がエネルギーを寄越せと訴える。

 バッグの中から財布を取り出し、小さな玄関へと戻ると脱いだばかりのスニーカーに足を突っ込む。


「売り切れてなきゃいいけど」


 そう呟きながらドアを開ける。

 向かう先は大学からの帰りに寄ったスーパーだ。


「これ、あいつに言ったらすげー絡まれるんだろうな」


 呟きながら階段を下りる。脳裏に浮かんでいるのはライトノベルをごりごりと押しつけてきた友人の顔だ。

 おまえ頭大丈夫かと言われる前に、そこんとこKWSKとか言われてこっちがどん引くどころじゃすまないくらいに絡んでくることしか想像できなくて、彼は小さくため息をつくとともにこのことは自分だけの秘密にしようと記憶にそっと蓋をする。


「明日、あいつン家によるか」


 次に浮かんだのは犬飼いの友人の顔。胴が長く足が短い、茶色と白の被毛に覆われた大きな三角耳の犬を彼は飼っている。

 あの2本足で立ってヤツもあれはあれでやっぱ“コーギー”だったよな。

 コーギーとCORGIの違いについてはいつまでたっても分からないだろう。

 分かるのは友人宅の犬がコーギーだということ。

 そして、日常という名の平穏がとても素晴らしいと感じる自分がいること。

 危険な二つ頭の獣を颯爽と倒したあのコが、ちょっと天然ぽくてかわいかったなと、思い出しちゃうだろうなと思うこと。


「のんびりしてたら、本当に売り切れるな」


 言い聞かせる用意呟くと、彼は走り始めた。

 非日常の中で必要に駆られてではなく、日常生活に戻るために。

 心のどこかで、二度と会うことはないであろうCORGIが、ほかの誰かにとっても「帰り道」を示してくれればいいなと、思いながら。


 ――それが、すでにどこかで“仕事”として続いていることを、彼は知らない。


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