ヒーローの喪失
〔死や喪失を示唆する描写・心理的な不安描写あり〕
教室の隅に座る少年がいた。
名を颯馬という。
彼の手首には小さな傷。制服の袖口はほつれ、机の角には古い血の跡が残っている。
けれど彼はいつも「大丈夫」と言った。
まるでその言葉だけが、日常を保つための呪文のように。
放課後の教室に、隣のクラスの陽翔が入ってきたのは、そんな日のことだった。
颯馬の幼馴染で、数少ない“友達”と呼べる存在だった。
「颯馬、また怪我してるじゃん。……どうしたんだよ」
陽翔の声は優しかった。けれど、その優しさは時に、痛みを鋭くする。
颯馬は顔を上げずに、かすかに笑った。
「……別に。転んだだけだよ」
沈黙。
陽翔は何かを言いかけたが、やがて小さくため息をついて隣に腰を下ろした。
窓の外には夕焼け。橙色の光が、二人の影を長く引き延ばしていた。
その翌週、事件は起きた。
放課後の昇降口で、颯馬は数人の生徒に囲まれていた。
蹴られ、突き飛ばされ、それでも彼は声を出さなかった。
笑い声と靴音が交錯する中、陽翔が飛び込んできた。
「やめろよ!!」
怒鳴り声が響いた。
誰も動かない。陽翔だけが、彼の前に立ちはだかる。
殴られても、押し倒されても、彼は怯まなかった。
その姿を見て、颯馬は何も言えなかった。
助けてもらうことが、怖かった。
◆◇◆◇◆
その日から、いじめの標的は陽翔になった。
陽翔の机には落書きが増え、靴箱には泥が詰められた。
廊下ではすれ違いざまに押され、背中に笑い声が突き刺さった。放課後に呼び出されて、傷だらけで戻って来ることも増えていった。
それでも、彼はいつも笑った。
「俺は大丈夫だから」
その言葉を、颯馬は何度も聞いた。
陽翔は笑うたびに少しずつ痩せていった。
声がかすれ、目の下には隈ができていた。
それでも彼は、「俺は大丈夫」と繰り返した。
颯馬は思った。
“あの時、止めておけばよかった”
“自分のせいだ”
そんな考えが、眠るたびに頭を締め付けた。
やがて、陽翔は学校に来なくなった。
連絡もなく、消息も不明。
そして数日後、噂が広がった。
――川沿いで、陽翔が見つかった。
その報せを聞いた瞬間、颯馬は膝から崩れ落ちた。
喉の奥が焼けるように痛かった。
泣き声が出なかった。息だけが途切れた。
夜、彼は布団の中で嗚咽を殺した。
何度も陽翔の笑顔が脳裏に浮かび、そのたびに胸が裂ける。
“僕のせいだ”
その呪文のような言葉が、今度は彼自身を蝕んでいった。
その翌日から、奇妙なことが起き始めた。
陽翔をいじめていた生徒たちが、次々に学校に来なくなったのだ。
転倒事故。高熱。原因不明の不眠。
誰もそれを陽翔の死と結びつけようとはしなかった。
だが颯馬は、わかっていた。
“罰だ”――心のどこかでそう思った。
そして同時に、恐ろしくもあった。
深夜、耳の奥で声がした。
――“颯馬”
振り返っても誰もいない。
目を閉じても、声は消えない。
眠ろうとすれば、夢の中で陽翔が立っていた。
川辺に、冷たい風が吹き抜ける。
彼は、笑っていた。
優しく、穏やかに。
けれどその笑顔には、何かが欠けていた。
「……陽翔?」
呼びかけると、陽翔はゆっくりと頷いた。
唇がわずかに動く。
その声は聞こえないのに、意味だけが伝わってくる。
――もう、大丈夫だから。
目が覚めると、息が荒くなっていた。
部屋の空気は重く、手のひらは冷たかった。
誰もいないはずの部屋で、彼は確かに“誰か”と話していた。
それでも翌朝、彼は登校した。
教室に座るたび、視界の隅に陽翔の背中が見えた。
声がした気がした。
笑っているように見えた。
それが彼にしか見えない存在だと、わかっていても。
いや、わかりたくなかったのだろう。
現実と記憶の境界が、音もなく崩れていく。
机に置いた手が、微かに震えていた。
その指先に、冷たい感触が触れた。
陽翔の声がした気がした。
――“一緒にいような、颯馬”
その瞬間、彼は微笑んだ。
全てが赦されたような、穏やかな顔で。
翌日から、颯馬も学校に来なくなった。
誰も理由を知らない。
教師は「家庭の事情だ」とだけ説明したが、気に留める者は誰もいなかった。
◆◇◆◇◆
朝。
颯馬はゆっくりと目を開けた。
光の差す部屋。
聞き慣れた声が響く。
「さっさと準備して来い! 学校行くぞ!」
ベッドの脇に、陽翔が立っていた。
笑っている。
颯馬は嬉しそうに顔を上げた。
「……なんだぁ、夢オチかよー!」
その声に、誰も返さない。
部屋の中には、颯馬の独り言だけが響いていた。
けれど彼は気付かない。
そして疑うこともないだろう。
……自分が見ている場所には、
話し掛けているところには、
誰もいないのに。
――「……颯馬、ごめん。これで解放されるなら、俺はやろうと思う。こんな俺が言えたことじゃないけど…、お前が理想の通りに生きていけるよう、願ってるからな」




