二十箱目 待合室
「……くん!しんいちくん!着いたよ」と、夢の世界から呼び戻す声が耳に届く。まるで、遠くから優しく手を差し伸べられているような感覚だった。
「あーーァ」と、思わず大きなあくびをしながら伸びをした。目をこすり、ぼんやりとした視界が徐々にクリアになっていく。時間にして、ほんの10分か15分の短い眠りだったが、少しだけ体力が回復したような気がした。
その声の主は、横にいた椿ちゃんだった。彼女の存在に気づくと、心の中に温かい感情が広がった。目をこすりながら「椿ちゃん!おはよう」と、間の抜けた返事を返すと、椿ちゃんは顔を赤らめ、うつむきながら「う、うん」と小さく頷いた。
その瞬間、彼女の反応に疑問符が頭の上に浮かぶ。「んっ?」と心の中で呟くが、椿ちゃんは恥ずかしそうにそそくさと車から降りてしまった。
自分もその後に続いて車から降りる。梅雨の湿った空気が頬を撫で、日の光が自分の眠気をはらっていった。
すでに幽子は車から降りていて、自分が降りるのを待っていた。回りを見ると静馬さんの姿は見当たらない。幽子に「静馬さんは?」と尋ねてみる。
「今、病院の方に入って行って、少し待っててくれと言われたな。」と、幽子は淡々と答えた。
その言葉を聞きながら、眠りにつく直前のことを思い出し、自分は幽子に向かって問い詰めてみた。「そういえば幽子、自分が寝てる時に何か悪口言ってただろ!」
幽子は驚いた様子も見せず、「何だ!起きてたのか?」と、さらりと返した。その横で、椿ちゃんが驚いた顔をして不安そうに自分の顔を見つめていた。
「んっ?」と、椿ちゃんが驚いている理由が分からず、一瞬戸惑った。だが、すぐに幽子に向かって「半分寝てたから何言ってるか分からなかったけど、二人で自分の話をして盛り上がってたでしょ?」とさらに問い詰めてみた。
椿ちゃんは何故かホッとした表情を浮かべていたが、幽子は残念そうな顔を浮かべ、「何だ!聞いてなかったのかぁ。実はな、椿ちゃん……」と、不適な笑みを浮かべながら言いかけた瞬間、椿ちゃんが「わっ!ダメーーェ、ゆ、幽子さん、ちょ、 ちょっとこっちに来てください。」と、普段の彼女らしくない大声を上げて幽子を引きずって行った。
自分は「んっ?」と、頭の上に無数の疑問符が浮かび上がったが、結局その疑問は解決せず、診察を受けることとなった。幽子と椿ちゃんの間に何があったのか、その真相が気になって仕方がなかった。
「骨には異常ないと思うけど、月曜日まで痛むようなら、レントゲン撮ってちゃんと見てもらった方が良いよ。」診察室に入った自分はそう診断され少しホッとしていた。医師は続けて、「さっきの女の子もそうだけど、君たちなんで怪我をしたんだね?」その視線には、どこか不信の色が見え隠れしている。
まさか、幽霊に椅子をぶつけられたなんて信じてもらえるわけがない。自分は思わす、「ち、ちょっと‥…、ハハハハ」と、軽い笑い声を上げることで、場の空気を和らげようとした。
診察を終え、待合室に足を運ぶと、椿ちゃんが幽子に向かって怒っている様子が目に入った。「本当にぜっっったい内緒ですからね。」その言葉が耳に残り、何か大事な話をしているのだろうと気になった。思わず声をかけてみる。「なに、なに、何の話ししてたの?」
椿ちゃんは驚いたような顔をして、両手を振りながら「な、なんでもないです。」と、必死に隠そうとする仕草を見せた。その様子に、ますます興味が湧てくる。
幽子の方を振り向くと、彼女はニヤニヤと笑いながら言った。「何でもない、ちょっとした恋愛トークで盛り上がっていただけだよ。」その言葉には、まるで何かを隠しているかのような微妙なニュアンスが漂っていた。
心の中で何かが引っかかり、「幽子が恋愛トーク?」と疑念が湧く。彼女の表情には、普段の明るさとは違う影が見え隠れしていた。そんな幽子を見つめながら、さっきの椿ちゃんの慌てた様子が頭をよぎった。
「あぁ!椿ちゃんの話かぁ。へぇ~誰か好きな人でもいるのかなぁ?」その瞬間、顔も知らない椿ちゃんの想い人に対して、なぜか心がざわつき、少し嫉妬の感情が胸を締め付けた。
そんな時、幽子が「しんいちの怪我はどうだったんだ?」と、話題を変えてきた。自分は診断内容を二人に話すと「それは良かった。流石、丈夫だけが取り柄だからなぁ。なぁ藤原さん」と、椿ちゃんに話を振った。彼女は照れ臭そうに「う。うん」と頷いていた。
その後、自分達は車で話していた屋根裏部屋での出来事について話が盛り上がっていた。
話が進むなか、椿ちゃんが気になる話をしてきた。
「わ、私、あの女性の幽霊を見たとき、確かに怖かったんですが、十字架を見つめてるあの人こと綺麗と思っちゃったんです。」
彼女の視線は遠くを見つめあのときの光景を思い浮かべるように澄んだ瞳をしていた。
そして彼女は「十字架を見つめていたあの綺麗な女性の幽霊と、その後私たちを襲ってきた彼女の豹変振りに凄く違和感を感じるんです。まるで別人のようで……、」と、椿ちゃんは思い悩むように静かに語り終えた。
椿ちゃんの話は自分も共感出来る。白いドレスの女の幽霊を始めて見たとき、彼女は十字架をボーと見つめていた。どこか救いを求めるような眼差しと、彼女の美貌はまるで絵画の中から飛び出たかのような神々しさを感じさせるほど美しかった。
しかし、僅かに目を離して見た次の彼女の姿は、まるで悪魔のような表情に変わり、瞳には憎悪の炎が燃えたぎってているようだった。
自分達がそんな事を思い描いている時、幽子がボソッと呟いた。「あれはちょっと幽霊とは違うんだよなぁ。」その言葉に自分達は幽子の顔を見つめた。
彼女は「君たちにはどのように見えていたかは分からないが、私には幽霊と言うか『負の念』の塊のように見えていたんだ。」自分が、「負の念?」と呟くと、幽子はコクりと頷いて話を続けた。
「怒りの感情の塊と言うか、憎しみの感情の塊みたいに感じてな、人間らしさがない『悪魔』と言う言葉がしっくりくる存在にみえたんだ。
車の中でも話したが私は『ベルばら』が好きだからマリーアントワネットには、思い入れがあるんだ。彼女は確かに我が儘で世間知らずなところはあったが、フランス王妃として気高く、優しい人物だったそうだ。亡くなる寸前のエピソードもなかなかグッとくるしなぁ。
だから、あの白いドレスの女の行動が、アントワネットの全てだとは思わない方が良いと思う。あれは人間誰もが持つ負の感情の化身だと思うよ。」
幽子の言葉は、自分たちの心に深く刻まれた。あの幽霊の姿が、ただの恐怖ではなく、自分たちの内面に潜む感情の象徴であるかのように感じられてくる。自分たちは、彼女の言葉を胸に秘めながら、再び静寂に包まれた待合室で、思索にふけった。
そして幽子の話は薄暗い待合室で、静かに締め括られていく。「ただ、藤原さんが言っていた『箱に願望をかける』という呪いは、確かに効いたと思うよ。」そう言うと、肩をすくめ、顔をしかめた。彼女はその瞬間、全ての視線を引き寄せるように話を続けた。「君たちはフランス革命後のフランスの事を聞いたことがあるか?」と。その言葉に、自分と椿ちゃんは首を横に振った。
幽子は少し考え込み、そして深く息を吸った。「悲惨なものだったらしいぞ。恐怖政治の時代、暗黒の時代とも言われていたそうだよ。革命の主要人物たちのほとんどは、信頼していた者たちによって裏切られ、密告の嵐の中でギロチンで命を散らしていったんだ。」彼女の声は次第に低くなり、重苦しい空気が漂ってくる。
続けて、幽子は目を細めながら語っていく。「まるであの箱に込められたマリー・アントワネットの呪詛のように、彼らの運命もまた、運命の悪戯によって決して逃れることはできなかったんだ。」その言葉は、まるで過去の闇が今の自分たちに問いかけているかのように響いていた。
部屋の静寂が一層深まり、自分たちはその重い言葉の余韻に浸っていた。幽子の語る歴史の悲劇は、ただの過去の出来事ではなく、今を生きる自分たちに何かを伝えようとしているようだった。彼女の視線は、まるでその時代の苦悩を背負った者たちの声を聞いているかのように、真剣そのものだった。
そんな時、静馬さんが診察室から出てきた。彼は明るい笑顔を浮かべ、「ゴメン!ゴメン!遅くなっちゃったね。ちょっと先生と話し込んじゃって!」と元気よく言った。その声は、まるで重苦しい雰囲気を吹き飛ばすかのように響いた。
自分たちは顔を見合わせ、何故かホッとした。幽子が「じゃあ帰るか!」と明るく声を上げると、自分たちは病院を後にすることになった。
自分は心の中で、あの箱が二度と開かないようにと強く願いながら、自分は病院の外へと足を運んだ。外から流れる風が頬を撫で、心の奥に潜む不安が少しずつ和らいでいくのを感じていく。
白いドレスの女が抱える想いは、果たしていつか消えるのだろうか?彼女の存在は、まるでこの場所に根付いているかのように、自分の心に影を落としていた。
彼女が抱えた悲しみや憎しみが、どこか自分自身のもののように思えてならない。
歩きながら、自分はその想いを振り払おうとした。しかし、心の奥底であの時に聞いた彼女の憎しみに満ちた声が響く。彼女の願いや憎しみが、まだこの世界に残っているのだと。
いつか、彼女が解放される日が来るのだろうか。それとも、自分たちが彼女の想いを受け止めることで、彼女は少しずつ楽になっていくのだろうか。
病院の外に出ると、空は薄曇りで、どこか寂しげな色合いをしていた。自分はその景色を見つめながら、静かに心の中で彼女に語りかけた。「大丈夫、いつかあなたの想いが晴れる日が来るから。」そう信じて、自分は一歩ずつ前へ進んでいった。




