十五箱目 憎悪
恐ろしい光景が目の前に広がっていた。白いドレスを纏った女性の表情は、先ほどの虚ろで美しい顔立ちから一変し、憎悪に満ちた凄まじいものへと変わっていた。顔は歪み、瞳には怒りの炎が宿っているようだった。
自分たちは凍りついたかのように動けず、ただ女の様子を伺うしかなかった。周囲は静寂に包まれ、その一瞬が何分にも感じられるほどの緊張感が漂っていた。心臓の鼓動が耳に響き、息を呑む音さえも聞こえない。
突然、女は白銀の髪をかきむしり、絶叫を上げた。「Je les déteste, je les déteste, je les déteste, ces Français. Je ne pardonnerai pas, je ne pardonnerai pas, je ne pardonnerai pas, je ne pardonnerai pas.≪憎い、憎い、憎い、あのフランス人どもめ。許さんぞ、許さん、許さん、許さん、許さん≫」
女の声は、狂気と憎しみが渦巻く嵐のようだった。イントネーションから恐らくフランス語であろう、女の言葉の意味は分からなかったが、その異様さと憎しみがこもった声は、自分たちの肌にも振動として伝わってきた。
再び女は自分たちの方を向き、何かを叫び散らした。「Qui êtes-vous ? Je suis la reine de France. Pliez le genou rapidement, ou êtes-vous aussi avec ces maudits Français ? Pliez le genou tout de suite !≪貴様らは何者じゃ、わらわはフランス国の女王であるぞ、早くひざま付かぬか、それとも貴様らもあの忌々しいフランス人どもと一緒なのかぁ、早くひざまづけ。≫」
女の威圧する咆哮が、自分の心の中に響き渡り、まるでサイレンのように、「逃げろ!逃げろ!」と警告音を鳴らしていた。しかし、逃げる場所などどこにもない。この場から逃げ出すことはできないのだ。
焦りと混乱の中、関口さんに向かって思わず口を開いた。「言ってる意味が分からないけど、絶対にヤバいです。関口さん、フランス語分からないんですか?意外と出来るなんて落ちはないんですか?」と無茶を言ってしまった。
関口さんは驚いた表情を浮かべ、「しんいち、そんな訳ないだろう。英語だってやっとのくらいだ。意外と魔術とか詳しい椿くんとかは分かるんじゃないのか?」と、バトンを渡してきた。
椿ちゃんは慌てて叫んだ。「やめて下さい、こんな時に冗談なんて!フランス語なんて分かる訳ないじゃないですかぁ!」
そして、アンカーの幽子にバトンが渡された。「幽子、得意の霊感で彼女の言ってる意味とか分からないの?幽霊の言ってる事なら何か感じるとかで分かるとか出来ないの?」と問いかける。
幽子はため息をつき、「はぁ!そんな訳ないだろ。いつも君に言ってるじゃないかぁ、霊感なんてそんなに都合が良いもんじゃないんだ。そんな事が出来たら英語のテストなんていつも満点だ。」と、焦りと呆れが混じった返事を返した。
椿ちゃんが真剣な表情で言った。「ゆ、幽子さんお祓いは出来ないんですか?学園祭の時みたいに御札とか使って。」
幽子は素っ気なく答えた。「持ってきてない。」
呆れた表情をする自分たちに、幽子は続けた。「当たり前じゃないかぁ、お宝探し……いや、掃除に来ているのに御札の巾着袋なんて持って来るわけないだろ。」
「もう、じゃあどうやって茶々と祓うなんて言ったんだよぉ」と自分が言うと、幽子の声が高まった。「ヤバい!ヤバい!ヤバい!」
関口さんと椿ちゃんも前を見て警戒を強める。自分も急いで前を向くと、十字架の前に置かれていた二脚の椅子が宙に浮いているのを目にした。信じられない光景に恐怖が一瞬にして全身を駆け巡り、警鐘の鼓動が鳴り響く。混乱した思考と共に自分は身構えていた。
十字架を背にした白いドレスの女は、冷酷な眼差しでこちらを見下ろしていた。その姿はまるで神の使いのようでありながら、どこか不気味さを漂わせていた。女の左右には、まるで眷属のように浮かぶ椅子があり、その存在が場の緊張感を一層高めていた。
女は冷淡な口調で言葉を発した。
「Vous, les bruyants ignorants. La consultation est-elle terminée ? Si vous ne vous mettez pas à genoux, vous pouvez mourir.≪騒がしい愚民どもめ。相談は終わったのか?ひざま付かぬなら、死ぬがよい≫」
女の言葉が終わるや否や、浮遊していた椅子が猛然とこちらに向かって飛んできた。あの椅子が当たったら、ただでは済まない。そんな恐怖が胸を締め付けた途端、自分は人生二度目の走馬灯が目の前に浮かんだ。
目の前にいた幽子は、関口さんに向かって蹴りを入れていた。関口さんはその衝撃で飛ばされ、椅子の軌道から外れていく。幽子もまた、驚異的な反射神経で身体を倒し、危機を回避していた。
自分も急いで身を低くしようとしたその瞬間、椿ちゃんの姿が目に入った。彼女は恐怖に怯え、頭を抱えて立ち尽くしていた。「危ない!」と叫ぶよりも早く、自分は椿ちゃんの前に飛び出し、彼女をかばうように押し倒した。
その瞬間、耳をつんざくような「バキッ!バキッ!バキッ!」という音が響き渡り、全身に激痛が走った。あまりにも強烈な痛みに、一瞬意識が「フゥッ」と飛んだ。目の前が暗くなり自分はその場に倒れ込んだ。
「しんいちくん、しんいちくん」と呼ばれる声が、自分の意識を引き戻した。全身の痛みに苛まれ、呼吸を続けることさえもままならなかった。「うん、うーん」とうめき声しか出せず、身を丸くして縮こまる。再び聞こえた声。「大丈夫?しっかりして…」その声が椿ちゃんのものであることに、ようやく気づいた。目を開けると、涙を浮かべながら自分を揺すっている彼女の姿が目に入る。無事を確認した瞬間、安堵とともに「良かったぁ」と口から漏れた。
しかし、その安堵も長くは続かなかった。「しんいち、逃げろ!」という幽子の声が耳に飛び込んできた。恐怖が走る。声のした方向に振り向くと、そこには白いドレスの女が立っていた。
全く気づかなかった。白いドレスの女は、足音一つ立てず、まるで瞬間移動したかのように、自分と椿ちゃんの前に立っていた。薄暗い中、白銀の髪の隙間から覗く女の瞳は、憎しみを宿した冷たい目で、自分たちを見下ろして睨みつけていた。
「Enfin, tu es à genoux, petit garçon. Mais pourquoi n'es-tu pas mort ? Je t'ai ordonné de mourir, n'est-ce pas!≪やっとひざま付きおったか小僧。でも何故死んでおらぬ。私は死ねと命令しただろうが!≫」女はヒステリックに叫び、周囲の空気を凍らせるような緊迫感をもたらした。
そして女は自分たちに向けて足を振り上げてきた。「マズイ!」と心の中で叫びながら、痛みを我慢し、身体を起こした。椿ちゃんをかばうように、女の蹴りを正面から受け止める覚悟を決めた。
「ドンッ」と鈍い音が響き、身体が宙に浮いた。腕で防御したものの、全身に激しい衝撃と痛みが走り抜けた。「キャー」という叫び声が耳に飛び込む。振り返ると、椿ちゃんも自分と一緒に吹き飛ばされていた。
その力は、女性とは思えないほどのものだった。だが、横で「うーん」と痛がる椿ちゃんの姿を見て、自分の中に湧き上がるのは恐怖ではなく、怒りだった。「このヤロー」と心の中で呟くが、身体は思うように動かない。そんな無力感に苛まれていると、白いドレスの女がスーッと近づいてきて、さらに追い討ちをかけようとしていた。
その時、突然「カタンッ」という音が響き渡り、「やめろーーぉ!」という幽子の咆哮が空気を震わせた。彼女の瞳は怒りに満ち、鋭い視線を白いドレスの女に向けながら、力強く走り寄ってくる。そして、彼女の手には刀がしっかりと握られていた。
幽子の姿は、まるで怒りの化身のようだった。彼女の登場に、白いドレスの女は一瞬驚いたように立ち止まり、その表情には戸惑いが浮かんでいた。幽子は刀の柄に手をかけ、白いドレスの女に斬りかかる態勢に入った。
しかし、小太刀ほどの短い刀では、まだ間合いが浅い。白いドレスの女もそれを理解したのか、侮蔑の表情を浮かべて一歩後ろに下がった。
幽子はその動きに動じることなく、刀を鞘から抜き放った。その瞬間、刀身から水しぶきが舞い上がった。あまりにも幻想的な光景に、自分は思わず目を奪われてしまった。刀身から放たれた水しぶきは、光に照らされて夜空に輝く星々のように美しく煌めいていた。
「水?」と自分が思ったその瞬間、同時に「ヴァーギャーー!」という叫び声が耳に飛び込んできた。刀から放たれた水を浴びた白いドレスの女は、苦しみもがきながらその場でよろめいていた。女の表情は驚愕と痛みに満ち、まるで自分の身に降りかかった運命を呪うかのようだった。




