最終話 パズルのピース
「それでな、しんいち……」
幽子は紅茶のカップを一度置き、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「全てのピースが出揃った今、私はそれを順に並べて……ひとつずつ、はめてみたんだ。
もちろん、これが真実かどうかは分からない。けれど、私が導き出した『答え』はこうだよ。」
彼女は一瞬、言葉を切った。そして静かに語り出す。
「まず思い出して欲しい。あの写真の女……顔が、判別できなかったろ?
私はな、あれを『葛藤』の象徴だと思っている。」
「葛藤? ……葛藤って、どういうことだ?」
思わず問い返すと、幽子は頷きながら続けた。
「世に出してはいけない思い……秘めた愛情、後ろめたさ、嫉妬……。でもな、しんいち。同時に彼女の中には、どうしても抑えきれない声があったはずなんだ。」
幽子は静かに、しかし確信をもってそう語った。
「『私こそが、あの人の妻だ』って。」
淡々とした声の奥に、あの女の情念が滲んでくるようだ。
そして幽子は続けた。
「だからこそ、顔を隠してでも白無垢の姿で現れたんだよ。あの姿こそが、彼女のすべてだった。愛も、執着も、誇りも、痛みも、全部……。」
その言葉を聞いた瞬間、自分の胸の奥がじわりと締めつけられるのを感じた。
……あのおばあさんがこの話を聞いたら、きっと、こう言うだろう。「私こそが正妻だ!」と。
けれど、もしも……あの写真の女性の立場に立ってみれば、その言葉はあまりにも残酷で、哀しい。
「そして、あの人形……」
幽子の目が鋭くなった。
「白無垢の衣装を着た、あの人形は、まるであの写真の女の生き写しだった。分かるか? しんいち……あの女は、自分の想いをあの人形に託して送ったんだ。愛する人への……『誓い』として。一生、あなたを想っています、と。」
言葉の一つ一つが胸に刺さる。
「その人形を、あの男性は大切に持っていた……ずっと、ずっと大事にしていた。……その意味が、わかるか?」
幽子はそう問いかけながら、語尾を強くした。
その瞬間、沈黙の中にあの女性の叫びが聞こえた気がした。報われない恋、それでもなお、消えることのなかった想い。その白無垢の姿は、哀しみと誇りをまとった、彼女だけの『結婚式』だったのだ。
これは、とても彼女たち二人には聞かせられない話だ。
自分は言葉を失い、思わず手を組み、うつむいていた。
そんな様子を見て、幽子はさらに言葉を続けた。
「なぁ、しんいち……分かったろ?
『真実』ってのは、必ずしも人を幸せにするわけじゃない。
今さらあの男性の、こんな秘密を知ったところで……残された二人はただ複雑な感情を抱えながら生きていくだけさ。
だったらいっそ……全部燃やして、墓場まで持っていってもらった方がいい『事実』もあるんだよ。」
言い終えると、幽子はふっと小さく息をついた。
「それに、これはあくまで私の推測に過ぎない。
下手なことは言えないしな?
だったら芝居をうって、『この人形には霊が憑いてる』とでも見せかけて、信じさせてやるほうが、あの二人にとってはよっぽど救いになるんじゃないか?」
その言葉に、思わず自分の口からため息が漏れた。
全てが腑に落ちる。だからこそ、苦い。
確かに。幽子の言うとおりだ。
真実というのは、時にあまりにも残酷すぎる。
「それじゃ……あの男性が亡くなって、もう七年くらい経つって話だったけど……。今になって、あの写真に写り込んだのって……やっぱり……?」
胸の奥に浮かんだ疑問を、自分は確かめるように幽子へと問いかけた。
幽子は静かに頷いた。
「うん……あの女の霊は、ここ一年以内に亡くなったものだと思う。古い幽霊って感じじゃなかったからな。未練の温度がまだ、生々しかった。」
彼女はそう言うと、ふっと窓の外に視線を投げた。
「……ようやく、自由になれたんだろう。生きている間には叶わなかった想いを、死んでからなら届くかもしれないって……そう信じてさ。」
その声には、少しだけ哀しさが混じっていた。
事件は、これで解決したのだろうか? ふとそんな思いが胸をよぎり、自分は汗のついたグラスをくるりと回してから、残っていた水を喉に流し込んだ。
それでも心の奥に、まだ引っかかっているものがあった。
「ねぇ、幽子……あのおばあさんって、本当にこのこと……知らなかったのかな?」
思い返すのは、不安そうに自分と幽子に相談しているあの年配の女性の姿だった。
「だってさ……『女の感』って、よく言うだろ? 旦那さんがあの人形に話しかけてるのを見て、何か変だって感じなかったのかなって……」
最後に残った小さな疑念。それを幽子にぶつけてみる。
幽子は肩をすくめて、やれやれというように首をひねった。
「女の勘なんて言っても、万能じゃないさ。分からないことのほうが多いって。あのおばあさん、わりと人が良さそうな顔をしてたしな。もしかしたら、ほんのりと疑問くらいは持っていたかもしれないけど……そこまで深く追及はしなかったんじゃないか?」
そう言いながら、幽子はふっと鼻で笑った。
「まぁ、私だったらすぐ見抜くけどな。」
そう言って、彼女はフォークを手に取り、ケーキをひと口、静かに口に運んだ。
その仕草を横目で見ながら、自分は改めて、今回の出来事の裏に潜む『女の情念』というものの恐ろしさを感じていた。
死んでもなお、遺影に姿を残して『私こそが……』と主張する、深く、激しい愛情と執念。
高校生になったばかりの自分には、まだその感情の本質を理解するには遠い。だけど確かにそこには、生きているだけでは語り尽くせない、複雑で哀しい物語があった。
この女性と、遺影の中の男性との間に、どんな日々があったのだろうか……。
もう、それを語れる者は、この世には残っていないのかもしれない。
だがきっと彼女は、それでも伝えたかったのだ。
白無垢の姿で、写真の奥から、永遠に語りかけるように。
『私こそが、あの人の妻だった』と……。
静かな余韻が胸に残る中、自分はふと、もう一つの疑問に気づいた。
……そういえば、だ。
なぜ目の前のこの女は、当然のようにケーキを頬張っているのだろうか?
思い返してみれば、最初は渋る幽子を、「これは自分からの依頼だ」と説き伏せて、あの二人の元へ連れて行ったはずだった。つまり、すでに報酬は前払いで、自分が支払った形になっているはずだ。
にもかかわらず、この女はちゃっかりと二人からの「お礼に」という申し出に乗っかって、新たにケーキを注文し、それを今まさに味わっている。フォークを動かす手には一切の遠慮もない。
これは……二重に報酬を受け取っているのではないか?
自分はじっと、疑念のまなざしで幽子を見つめた。
すると幽子は、その視線に気づいたのか、ムッとした顔でこちらをにらみ返してくる。
「な、なんだよ、その目は……」
まるで自分が理不尽な疑いをかけているかのような態度だ。まったく、思い当たる節がないという顔をしているのが、逆に腹立たしい。
(……ま、まぁいいか)
内心、ため息をひとつついて、自分はそっけなく言い放った。
「早く食えよ。いつまでここにいる気だよ。」
すると幽子はフォークを口元に運びながら、夢見心地の表情で答えた。
「急かすなよ。私は今、本当に幸せなんだから……」
その顔があまりにも幸せそうだったので、何も言い返せなかった。
ただこのとき、自分はひとつだけ、心に刻むことにした。
……絶対に次は奢らないぞ!
そんな教訓めいた思いを抱きながら、窓の外に目をやると、どこか涼しい風が木の葉を揺らしていた。
事件は終わった。けれど、人の心の奥にある感情というものは、何よりも不可解で、そして……何よりも恐ろしいのかもしれない。