五件目 嘘の霊視
「さて……私の本気を見せてやろうじゃないか!」
そう言い放つと同時に、幽子は再び人形に視線を向けた。
先ほどまでの観察というよりも、まるで『対話』でも始めたかのように、幽子は黙ったまま、じっと人形を見つめ続けた。
何が見えているのか、傍目には分からない。
だが、その空気の重たさは確かに伝わってくる。
彼女の目は物の奥底、いや、それよりもっと深い『何か』を覗き込んでいた。
「すまない。写真の方も、もう一度見たい。袋から出しておいてくれ。」
視線を逸らすことなく、幽子が静かに言った。
不意を突かれたように、若い女性と年配の女性は顔を見合わせた。
初めて目にする『幽子の霊視』に、明らかな戸惑いが浮かんでいる。
けれどその言葉に逆らうような空気はなかった。
彼女たちは慌てて額縁を取り出し、若い女性がおずおずと幽子に差し出す。
「あ、あの……これ……」
幽子はようやく人形から視線を外し、額縁を手に取った。
「すまない。ありがとう。」
淡々と、だが礼を忘れず、幽子はそれだけを言うと今度は写真を凝視しはじめる。
手にした額縁を傾けながら、彼女は顎に指を当てて沈思する。
その顔には、張りつめた緊張が浮かんでいた。
部屋の空気が、肌を刺すようにぴんと張り詰める。
幽子が何かを見つめるたびに、二人の女性は息を殺してその様子を見守っていた。
写真……人形……また写真。
幽子の瞳はそのふたつを、何かを照合するかのように行き来する。
やがて、ふいに写真から視線を外し、彼女はポツリと告げた。
「これはもう、いい……」
幽子はそう言って額縁をそっと返してきた。
そして再び人形に手を伸ばす。
その小さな手を両手で包むように取りながら、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「……じゃあ、この人形の中を、視てみるよ。」
幽子の一言に、その場の空気がピンと張りつめた。まるで室内の冷気が一気に忍び込んできたかのように、肌寒さが背筋を走る。
誰ひとり声を出すことができず、ただただその手元に視線を集めるだけだった。
幽子は目を閉じ、ゆっくりと両手を人形の前にかざす。霊視の時に見せる、あの静かな儀式の始まりのようだった。
けれど……自分はすぐに違和感に気づいた。
彼女は『物を見る』とき、決して目を閉じたりはしない。
むしろ、鋭く目を見開き、その奥にある『何か』を見逃すまいとする。目をそらすことなく、対象の奥底にある霊的な欠片を掘り起こすように。
何度も彼女が人形を視る姿を見てきた。だが、今回の彼女は……明らかに違った。
その違和感は、すぐに確信へと変わった。
目を閉じた幽子からは、いつものような緊張感がまるで伝わってこない。
あの、空気をも飲み込むような重圧。呼吸すら憚られる、凍りついた静寂。
どれも、今の彼女からは感じられなかった。
……これは、『演技』だ。
幽子は、霊視をしているふりをしている。
なぜそんなことを?
自分は心の中に疑念を抱えたまま、それでも口には出さず、静かに成り行きを見守ることにした。
店内には、柔らかなジャズのBGMが流れていた。
その音にまぎれて、幽子の『芝居』は続く。
一分、二分……時間だけがゆっくりと過ぎていった。
そして……彼女はそっと目を開けると、まるで語りかけるように人形に向かって呟いた。
「……視えたよ。君の中の真実が。」
その言葉の真意を測りかねながらも、自分はただ、彼女の表情を見つめていた。
目を開けた幽子は、静かに二人の女性の方へ向き直った。
その顔には、いつもの柔らかな表情が戻っていた。
「……あなた達の言う通りです。この人形に憑いていた霊が、あの写真に写り込んだのでしょう。」
淡々とそう告げた瞬間、若い女性とその祖母と思しき年配の女性の顔が一気に強張った。空気がぴんと張り詰め、店内のBGMが遠く感じられる。
「……あ、あの、それで……お祓いは……?」
若い女性が震える声で尋ねると、幽子はほんのわずかに首を横に振った。
「お二人は、『付喪神』という言葉をご存知ですか?」
その問いかけに、若い女性が「ああ、はい。名前くらいは……」と頷き、すぐ隣の年配の女性に視線を向けた。
「おばあちゃんは?」
年配の女性もゆっくりと頷き、「詳しくはないけれど、古い物に憑く妖怪のようなもの……でしょうか?」と口にする。
幽子はその答えに満足したように、ゆっくりと続きを話し始めた。
「はい。この人形に宿っているのは、それに近い存在だと思われます。人形というのは、そもそも人の霊が入り込みやすい器なんです。
特に名前をつけられたり、長い年月を通して人のように扱われてきた物には、いつしか自我が芽生えることがあります。……まるで人間のように魂を持つ、そんな存在になるのです。」
二人の女性は、その言葉に耳を傾けながら、どこか呑み込めずにいるような複雑な表情を浮かべていた。
「この人形も、きっとそうやって魂を宿したのでしょう。おじいさまが長く大切にし、話しかけておられたと伺いました。きっとその想いが、この人形に残ったのです。そして、おじいさまにまた会いたくて、写真の中に姿を現したのでしょう。
……けれど、これは決して『悪い霊』ではありません。祓うべき存在ではないのです。だから、私はお祓いはしませんでした。この人形には『供養』がふさわしいと考えました。」
「供養……ですか?」
若い女性が戸惑いながら尋ねた。
幽子は、はっきりと頷いた。
「はい。なんでもかんでも『怖いから』と力ずくで祓えばいいというものではありません。
こういう場合は、きちんと心を込めて供養してあげることが大切です。そうすれば、この人形の魂も穏やかに休まり、きっと何事もなく済むはずです。」
幽子の語り口には説得力があり、年配の女性は何度も頷きながら、「はい……分かりました」と静かに答えた。
その姿を見て、若い女性もようやく表情を和らげた。
「おばあちゃんがそう言うなら……。それで、供養って……どうすれば良いんでしょう?」
幽子は、ふっと笑みを浮かべると、ふいにこちらを振り向いた。
「しんいち。紙とペン、貸してもらえるか?」
「ああ、わ、分かった。」
自分は頷いて席へと戻り、バッグの中からメモ帳とペンを取り出して彼女に手渡した。
幽子はそれを受け取りながら、優しい眼差しで再び二人の女性を見つめた。
幽子は静かにポケットに手を入れ、そこから携帯電話を取り出した。
画面をスワイプしながら、何かを探しているようだ。
「……これこれ」
ぽつりと呟いたかと思うと、今度は紙とペンを手に取り、さらさらと文字を走らせる。数秒後、彼女はそのメモを二人の女性に差し出した。
「この住所は、私の祖母の知り合いが住職を務めているお寺です。ここからなら車で二、三十分といったところですね。
このお寺は、こういった『モノ』の供養やお祓いを専門にしている場所です。費用は二万円ほどですが、祖母の名前『月静』を出せば、丁寧に対応してくれるはずです。」
幽子は言葉を一拍置き、視線を若い女性と年配の女性に移した。
「……もし自分たちで行う場合は、人形と写真にお線香を焚いて、火で燃やしてください。
その際はしっかりと手を合わせ、供養の気持ちを込めて願って上げてください。
灰になったら、それを集め川か海に還してあげると良いと思います。
ですが……やはり、私としては、きちんとしたお寺での供養をおすすめします。」
幽子が丁寧に説明を終えると、年配の女性は深く頷き、晴れやかな目で幽子を見つめながら言った。
「はい……費用のことは心配いりません。すぐにというわけにはいきませんが、孫と予定を合わせて、改めて伺いたいとます。本日は、お休みのところ……こんな厄介な話を聞いていただいて、本当にありがとうございました。」
年配の女性は微笑み、軽く頭を下げる。
その隣で、若い女性もほっとしたように笑顔を見せた。
「私からも、心から感謝します……ありがとうございました。」
一件落着……そんな雰囲気が一瞬、場に流れる。
幽子が立ち上がり、「では、私たちはこれで……」と席を離れようとしたその時だった。
「……あ、あの、もしご迷惑でなければ……お礼をさせていただけないでしょうか?」
背後からかけられた年配の女性の声に、自分は慌てて断ろうと口を開きかけた。だが、先に声を上げたのは幽子だった。
「それじゃあ……お言葉に甘えて、ケーキ、もう一つだけ頼んでもいいですか?」
にんまりとした笑顔とともに、彼女はそう言った。
そのあまりに遠慮のない振る舞いに、自分は思わず頭を抱えたくなった。
(……まだ食うのかよ)
席に戻った幽子は、どこか上機嫌に鼻歌を歌っていた。
自分は苦笑いを浮かべたまま、目の前で幸せそうに次のケーキを待つ彼女を眺めていた。
しばらくして、先ほどの二人がこちらに向かって軽く頭を下げる。
「それでは、ゆっくりしていってくださいね。」
柔らかく言葉を残し、彼女たちは店を後にした。
幽子と自分も立ち上がり、同じように頭を下げた。
「こちらこそ……ごちそうさまでした。」
扉のチャイムが「カラン」と鳴り、彼女たちの背中が通りの陽射しに溶けていったのを見届けてから、ようやく自分は口を開いた。
「なあ、幽子。ところで、あの心霊写真の正体……結局、何だったんだ?」
彼女は、ふと表情を引き締めた。
そう事件は……まだ終わっていなかった。