三件目 遺影
「あのぅ、すみません……少しだけ、お話を伺ってもよろしいでしょうか?もしかしたら、お力になれるかもしれません。」
意を決して声をかけると、喫茶店の静かな空気を切るように、その言葉が二人の女性の耳に届いた
年配の女性と、若い女性は突然の自分の呼びかけに、二人は驚いたようにこちらを振り向いた。
「あ、いえ……。決して盗み聞きしていたわけではないんです。ただ、少し声が聞こえてしまって……。『お祓い』できる方を探していると、そう聞こえたものですから……」
自分は慌てて言葉を重ね、できる限り柔らかな表情をつくって、真意を伝えた。
「知り合いに、そういうことができる人がいるんです。もし、よければその方を紹介できるかと……」
その言葉に、女性たちは戸惑いの色を浮かべながら顔を見合わせた。まだ疑いの目は拭えないようだったが、やがて若い女性が小さく頷きながら言った。
「……はい。あの……少しだけなら。」
その返答に自分は安堵し、差し出された椅子に腰を下ろす。
「ありがとうございます。」
すると若い女性が、膝元に置いていた大きな紙袋を取り出し、慎重にそれをこちらへ差し出してきた。
「まずは、これを……」
袋の中には、黒ぶちの古そうな額縁が入っていた。触れた瞬間、微かにだが、肌に冷たい空気がまとわりつくような感覚が走る。
「これは……?」
自分がそう尋ねると、若い女性は少しだけ困ったように笑い、言葉を濁した。
「まあ……うーん、見ればすぐに分かると思いますよ。」
彼女に促され、自分は黒い額縁に目をやった。どこか重苦しい雰囲気を感じながらも、そっと両手でそれを持ち上げる。慎重に、まるで壊れ物を扱うように。
その瞬間……背筋に冷たいものが走った。
(……遺影?)
黒い縁取り。落ち着いた色合いの台紙。そして写真の構図……それはすぐに『そう』とわかるものだった。
写真に写るのは、中年の男性。五十代ほどだろうか。旅先で撮影されたものらしく、背景には青く澄んだ海が広がり、男性は満面の笑みを浮かべている。
だが。
すぐに、異様な『気配』に目が釘付けになった。
男性のすぐ隣に、一人の女性が写っていた。肩を寄せ合うように、親しげな距離感で。
……だが、明らかにおかしい。
その女性の顔だけが、まるで水でにじませたかのようにぼやけていた。どこか青白く、表情すら読み取れない。そして着ているものもまた、現実感を欠いていた。純白の着物……喪服にも見えるが、いや、それ以上に異質だった。
隣の男性が普段着を着ている分、その白さは一層際立って見えた。
……ただ、それだけではない。
女性の身体が、透けている。
まるで合成写真のように、彼女の体を通して背後の海と空が透けて見えていたのだ。
「……っ!」
心の中で何かがはじけた。
『心霊写真』
その言葉が脳裏をよぎった瞬間、自分は思わず声を上げてしまった。
「わっ!」
額縁を取り落としそうになりながら、慌ててそれを支え直す。
「あぁ、ご、ごめんなさい……!ち、ちょっとビックリしちゃって、こ、これ……!」
自分が慌てて謝罪すると、若い女性はやんわりと首を振り、優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。……普通は、びっくりしますよね。」
隣にいた年配の女性も、どこか悲しげに目を伏せながら、静かに頷いていた。
そしてこの写真が、何を意味するのか。その答えが、ここから始まるのだった。
「こ、これは……?」
声が震えるのを自覚しながら、自分は思わず問いかけていた。
自分の問いに、若い女性が声を潜め不安そうに答えた。
「それ、七年前に亡くなった祖父の遺影なんです。」
確かに、見れば『遺影』であることはすぐにわかる。だが……問題はそこではなかった。
なぜ心霊写真を遺影に使う?
そんな事って……、それとも何か事情でもあるのか?いや……流石にそれはない。
あんなあからさまな心霊写真を飾る理由など思い付かない。
自分は恐る恐る、核心に触れる質問を彼女に投げかけた。
「あ、あの……これ、心霊写真ですよね? 失礼ですが……こんな、気味の悪い写真を、なぜ……」
言ってしまってから、自分の無神経さに少し後悔した。だがそれでも、確かめずにはいられなかった。
若い女性は返答せず、隣に座る年配の女性と一瞬、視線を交わす。
すると今度は、その年配の女性が口を開いた。
「……今年に入ってから、ですかねぇ」
掠れた声は、静かに過去を辿り始めた。
「最初はほんの小さな、靄のようなものだったんですよ。主人の横のあたりに、ぼんやりと浮かんでて。最初は、ほら、額のガラスが曇ったのかと思ったんです。でもね……」
彼女は額縁の袋を見つめながら、続けた。
「だんだん形がはっきりしてきましてね。まるでそこに誰かが立っているかのように……。そのうち、白い着物を着た女の人の姿に見えるようになって。今では、もう……こうして、はっきりと写ってしまったんです。」
自分は思わず顎に手を当てた。過去に聞いた心霊写真にまつわる逸話を思い返していた。
『写ったその瞬間から霊がいる』というのが一般的ではあるが、確かにこうしてあとから浮かび上がるパターンも存在する。最近では動画でその手の現象が報告されたケースもあった。
考え込む自分の様子をよそに、年配の女性はさらに言葉を続けた。
「それで、ね……私、怖くなっちゃって……。娘に相談したんですけど、あの子、こういうのが苦手で……。代わりにこの子……孫が、見に来てくれてたんですよ。」
彼女は、隣に座る若い女性の手をそっと握る。
「すぐに『お祓いに行こう』って言ってくれて。最初はうちの檀家のお寺に相談したんです。主人のお墓があるところだから、そこで何とか……って思ったんですが、住職さんに『そういうのはやってません』って言われちゃって……。
それで今日、近くの神社にも写真を持って行ったんですが……そこでも同じように断られてしまって。もう、どうしたらいいかわからなくて……」
年配の女性は、懇願するような目で自分を見つめてきた。
確かに……それは、誰が聞いても大変な状況だと思った。
頼みの綱だった寺と神社に断られ、行き場を失った様子。
見れば分かる、彼女たちの顔には不安と困惑の色が色濃く浮かんでいた。
まあ……無理もない。
「お祓いしてくれる場所」なんて、ネットで調べたところで簡単には出てこないし、
下手に怪しげな霊能者に相談でもしようものなら、高額な請求をされるのがオチだ。
……ならば、ここは彼女の出番だろう。
そう思い、そっと横目で視線を送る。
幽子はすでにケーキを食べ終え、満足げに、レモンティーを優雅に啜っていた。
まるで何もかもから距離を置いた、どこか浮世離れした雰囲気。
自分は二人に向き直り、「ちょっと待っててください。」と声をかけると、すぐに幽子の席へと戻った。
「幽子……」
そう呼びかけようとしたその瞬間、彼女は顔を上げることもなく呟いた。
「……また変なことに首を突っ込んでるだろう? 私は今、幸せなひとときを楽しんでるんだ。絶対にやらないからな。」
完全に出足を挫かれた……。
だが、自分も負けてはいない。
彼女の横顔を覗き込むように、わざとらしく、そして挑発的に囁いた。
「幽子……今、俺が奢ったケーキ、ちゃんと食べたよね? 紅茶も美味しかったかなぁ~?」
その一言に、幽子の紅茶を持つ手がぴたりと止まる。そして自分はだめ押しとばかりに彼女に呟いた。
「じゃあ報酬も払った事だし仕事をして貰おうかなぁ。これは俺からの『依頼』だ・か・ら!」
自分はニコニコと笑い幽子を見つめる。
わずかな沈黙……その後、彼女は肩を落とし、観念したようにため息をついた。
「……チッ、わかったよ。話ぐらいは聞こうじゃないか。」
そう言って、未練がましくカップを口に運び、レモンティーを飲み干す。
立ち上がる彼女の背中はどこかしょんぼりしていて、
その姿を見た自分は、なぜだか妙に満足してしまった。
奢らされた仕返し……と言うほどでもないけど、少しだけスッとした気分だった。