二件目 紙袋を持った二人組
扉を開けた瞬間、「カラン」と乾いたベルの音が店内に響いた。
中に一歩足を踏み入れると、外の明るさとは打って変わって、落ち着いた大人の空間が広がっていた。控えめに落とされた照明、深いブラウンの木製テーブルと椅子……、仄かに流れるジャズのBGMが上品さを演出している。
「いらっしゃいませ!」
柔らかな声が耳に届き、視線を向けると、四十代ほどの細身の女性が笑みを浮かべて立っていた。
「何名様ですか?」
「二人です?」
そう答えると、女性はにこやかに「こちらへどうぞ」と手を差し出し、店内の奥へと案内してくれた。
店内には、自分たちのほかに二組の客がいた。
一組は、窓際の席で静かに向かい合う中年の男女。言葉数は少ないが、その佇まいからは長年連れ添った夫婦のような落ち着いた雰囲気を醸し出している。
そしてもう一組は、店の奥まった席に腰を下ろす、親子らしき二人組。年配の女性と、二十代ほどに見える若い女性だった。その親子が持ち込んだ荷物は、喫茶店の落ち着いた雰囲気にはいささか不釣り合いな大きな紙袋が目を引いた。
ひとつは、人形が頭が覗くほどの大きな紙袋。もうひとつは、まるで絵画か何かが入っているような、平たい額縁が入った袋。どちらも席の隣にそっと置かれ、そこだけ少しだけ空気が異質に感じられた。
そして自分たちはその親子のすぐ近くのテーブルに通された。
初めて訪れるこの喫茶店……その大人びた空気に自分が思わず感嘆の息を漏らしていると、前の席に座る幽子が突如はしゃぎだした。
「私はもちろん限定ケーキだ!ずっと楽しみにしてたんだ!」
嬉しそうに目を輝かせながら、彼女はメニューを指差し声を弾ませている。子どものようなその様子に、近くの席の女性たちが思わず笑みをこぼしていた。
……恥ずかしい。
「落ち着けって……」
自分は幽子に小声で囁いた。
すると、彼女は一瞬きょとんとした顔を浮かべ、それから照れ隠しのようにふっと笑う。
彼女の後ろでこちらを気にしている女性客たちに、自分は軽く頭を下げながら「すみません」と心の中で詫びる。そして、小さく息を吐いた。
(まったく……。なんで幽子は、こうも『食べ物』に対してだけ貪欲なんだか……)
隣の彼女を横目に呆れ顔を浮かべつつ、自分は店員を呼び、注文を済ませた。
ところが……注文を終えたというのに、幽子はまだ手元のメニューを見つめていた。ページをめくりながら、「次はこれかな……」などと不穏な独り言をつぶやいている。
「おい! 次は絶対奢らねぇからな!」
そう言って自分がむくれると、ほどなくして、待ちわびた限定ケーキがやってきた。
「お待たせいたしました。初夏限定のマンゴーケーキです。」
目の前に置かれたそれは、まさに『食べる芸術』だった。
太陽の光を閉じ込めたようなマンゴーが、まるで宝石のように艶めき、純白のクリームとふわりとしたスポンジが幾重にも重なっている。添えられたミントの葉が、見た目にも涼を添え、その完璧な構成は、見ただけで幸福感を呼び起こす。
幽子の元には、セットのドリンクも運ばれてきた。
彼女が選んだのは、ホットレモンティー。
上品な磁器のカップに注がれた琥珀色の紅茶に、輪切りのレモンが一枚。ふわりと立ち昇る香りは、ケーキの甘さを引き立てる爽やかさを持っていた。
そして、自分の前に置かれたのは……。
「こちら、アイスコーヒーになります。」
それだけだった。
喫茶店で何も注文しないという選択肢はない。
けれど、欲しい物がある今の自分にとって、バイト代を無駄に使う余裕はなかった。
だからこそ、自分は一番無難な……いちばん『節約的』な一品を選ばざるを得なかったのだ。
「お前も、もっといろいろ頼めばよかったのに〜」
能天気に言う幽子を睨みつけながら、自分は黙ってストローを咥える。
アイスコーヒーの冷たさが、なんだかやけに身に染みた。
幽子はさっそくフォークを手に取り、目を輝かせながらケーキをじっと見つめていた。
どこから食べようか、本気で悩んでいるらしい。
そして、ついに決心がついたようで、フォークの先でそっとスポンジを切り取り、口元へと運ぶ。
「……うまい」
ぽつりと呟いたその一言は、静かながらも心の底からの実感がこもっていた。
頬に手を添えた彼女の顔には、至福の色が滲んでいる。まるで世界中の幸せがその一口に凝縮されているかのような表情だった。
さらにもう一口。今度は満足げに目を細めながら……
「あ〜ぁ、幸せだ……」
とろけるような声で呟き、ケーキの味に全身で酔いしれていた。
ここまで喜んでもらえたなら、奢った甲斐もある……そう思うのが普通だろう。
だが、残念ながら自分は違った。
正直、こんな光景はもう何度も見てきた。見飽きるほどに……
幽子がスイーツを前に幸せそうな顔を浮かべるのは、今日が初めてじゃない。
むしろ、毎回の恒例行事と化している。
(早く食べてくれよ……)
心の中でそう呟きながら、自分はアイスコーヒーを一口すすり、スマートフォンに視線を落とす。
だがそのとき、ふと……
自分の『オカルトアンテナ』が、かすかな異変を察知した。
それは、すぐ近くの席に座っていた女性二人の会話だった。
どうやら年配の女性と、二十代前半ほどの若い女性は、親子ではなく、祖母と孫の関係のようだった。
「ねぇ、おばあちゃんどうするの? あの神社、もうお祓いできないって言ってたけど…… 他に宛てあるの?」
「そうだねぇ…… やっぱり檀家さんで見てもらえないのかねぇ?」
「この前聞いたけど、あのお寺はお祓い無理って言ってたじゃん。他を探さなきゃ……」
その会話の内容が、耳にしっかりと届いた瞬間、自分の内側で何かが引っかかった。
どうやら彼女たちは、『お祓い』をしてくれる場所を探しているらしい。
気になった自分は、なおもケーキと格闘している幽子をちらりと横目に見やってから、静かに立ち上がり、そっと彼女たちの席に近づいた。
「あのぅ、すみません……。ちょっとだけ、お話を伺ってもいいですか?もしかしたらお力になれるかもしれません。」
何かに導かれるように、声をかけていた。