最終話 平穏
その後の話になる。
陽介との再会は、思いがけない形で訪れた。月曜日の学校から帰ると、家の中は賑やかな声で満ちていた。ドアを開けると、陽介がそこにいた。
腕には包帯が巻かれていたが、彼の元気そうな姿を見た瞬間、心の中に温かいものが広がった。再会の喜びが、胸の奥からじわじわと湧き上がってくる。
美奈子さんと日向ちゃんも一緒にいて、無事な姿を見てほっと胸を撫で下ろした。
美奈子さんは陽介から話を聞いていたのか、「しんいち君、助けてくれて本当にありがとう。こんな怪我させちゃってごめんね」と言った。その言葉に、心が温かくなるのを感じていた。
日向ちゃんは、相変わらずの無愛想な表情で「ありがとうございます」と言ったが、その声には少しだけ感謝の気持ちが込められているように思えた。思わず笑みが浮かんでしまう。
その時、母さんが部屋の入り口から顔を出し、「美奈子さん達、しばらく家で住むことになるからヨロシクね」と告げてきた。驚きのあまり、思わず「えっ!」と声を上げてしまった。母さんは続けて、「家、部屋余ってるでしょ。火事の後のいろいろな手続きも手伝ったりしなきゃいけないから、家にいてもらった方が楽なのよ」と説明してきた。
この家の決定権は母が握っていたのだ。そんな母に何も言えない自分達がいた。
取りあえずの部屋割りが決まり、陽介は自分の部屋に来ることになり、美奈子さんと日向ちゃんは心配だからという理由で、母さんと一緒の部屋で過ごすことになった。
追い出された父さんは、客間に追いやられてしまったが、彼は「自分部屋が出来てゆっくり出来る」と言っていたものの、どこか寂しそうな表情を浮かべていた。
母さんは、日向ちゃんをまるで自分の娘のように可愛がり、「娘が出来た」と嬉しそうに笑っていた。
陽介達が自分の家に来てから2日後、陽介の父、和夫さんが赴任先の海外から帰ってきたのだ。彼の帰国を待ちわびていたが、話を聞くと、飛行機のチケットや会社とのやり取りで遅くなってしまったとのことだった。彼の苦労を思うと胸が痛む。
家族と再会した和夫さんは、無事でいたことを本当に喜んでいた。特に、傷だらけの陽介を見た瞬間、彼の表情は一変した。
「ごめん、すまなかった」と何度も謝り続ける和夫さんの声には、深い後悔と愛情が込められていた。陽介はその言葉を受け止め、父の胸に飛び込むように抱きついた。二人の間に流れる感情は、言葉以上のものだったと思う。
和夫さんは、会社の方は辞めてきたと言っていた。一年だけの約束を守られず、家族がこんな大変な目に遭ってしまったことに、彼は怒りを抑えきれなかったらしい。
上司に怒鳴り散らして帰ってきたという話を聞くと、彼の心の中に渦巻く感情が伝わってくるようだった。
「次の仕事の宛もあるし、清々したよ」と言う和夫さんの表情には、少しの解放感が見えたが、その裏には多くの苦悩が隠されているのだろう。
結局のところ、後日会社の上の人たちが謝りに来たそうで、和夫さんに今仕事を抜けられるのはまずいということで、話し合いの末、年度内で海外赴任を終わらせることが決まり、仕事も続ける事が決まったそうだ。
取りあえずは2、3週間ほど自分の家に泊まることが、母さんの一存で決まった。
一方、陽介の家の方は、幽子の祖母、月静さんの口添えがあったらしく、すぐに不動産屋が陽介達の元に謝りに来ていた。解体費用は不動産屋が持ってくれるとのことで、結局土地の方も売却することになった。陽介達は、ようやくあの土地から解放されたのだと、心の底から安堵した。
しかし、謝りに来た不動産屋の様子はあまりにも変で、相当に焦っている様子が見て取れた。「月静おばちゃんって一体何者なんだ?」と、自分の中で少し謎が残った。
そして謎と言えば、火事の原因だった……。
原因は放火だった。
警察の話では外に置いてあった灯油を誰かがまき
、火をつけたのではないかとの事だ。
最初は家にいた美奈子さんや日向ちゃんが疑われたが、当時の美奈子さんは足が悪くとてもそんな事が出来る状態ではなく、日向ちゃんも助けに入った状況や証言から不審な点が見つからなく、直ぐに容疑者から外れた。
子供のイタズラではないかと憶測が流れもしたが現在も犯人は分かっていない。
そして最後に、幽子と陽介の再会は、思いがけず早く訪れる事になった。
陽介たちが自分の家に来た翌日の夕方、学校から帰ると、陽介が少し緊張した面持ちで言った。「今から幽子さんのところに、この前のお礼をしたいんだけど、彼女は帰っているかなぁ?」
その問いに、自分は少し考えた後、「多分帰ってると思うよ。幽子は部活をやってないし、学校が終わるとすぐに帰るみたいだから」と答えた。
陽介の目が輝き、何か大事そうに抱えた箱をしっかりと持ち直す。美奈子さんと日向ちゃんも一緒に、陽介の後をついていくことになった。
幽子の家に着くと、陽介はその大きさに驚いたように目をパチクリしていた。「大きいね」と呟く。幽子の家は、この界隈ではひときわ目を引く存在だった。お屋敷とまではいかないが、二人で住むには十分すぎるほどの広さがあった。
自分が呼び鈴を鳴らし、玄関のドアを開けると、「幽子いるーーぅ!」と大きな声で彼女を呼んだ。すると、リビングの方から幽子が顔を出し、警戒するような鋭い視線を自分に向けてきた。「なんだね?」と、明らかに不機嫌そうな声が響く。思わず苦笑いを浮かべる自分。
そんな彼女に向かって、「陽介たちがこの前のお礼を言いたいんだって!」と、後ろにいる陽介たちを前に押し出した。幽子の表情が一瞬で変わり、警戒心が消え去った。「おう!陽介。怪我はもう良いのか?」と、彼女の顔に笑顔が広がる。
陽介は少し照れくさそうに、「えぇ!簡単な手術をしたんですが、今はもう大丈夫です」と言いながら、負傷した肩を触っていた。続けて陽介が、「母さんがこの前のお礼を言いたいと言って、日向も連れてお邪魔させてもらいました。忙しくなかったですか?」と尋ねた。
その時、奥から月静おばちゃんが現れ、「お客さんかい?」と、優しい声で顔を出してきた。自分が事情を説明すると、月静さんは微笑みながら、「玄関先ではなんだから、奥の和室に上がってもらいな」と言って、自分たちを奥へと招き入れてくれた。
和室に通されると、静かな空間が広がり、心がほっと落ち着く。月静さんも同席し、全員が座敷の座布団に腰を下ろすと、美奈子さんが幽子に向かって「ありがとう」と、感謝の言葉を口にした。幽子は少し驚いたように「あっ!どうも」と言いながら、居心地が悪そうに視線をそらしていた。
その様子を見て、陽介に促されるように日向ちゃんも小さな声で「ありがとう……ございます」と言った。彼女の声はかすかで、まるで幽子の反応を気にしているかのようだった。
日向ちゃんの様子が少し怯えているように見え、自分は疑問に思ったが、後に火事の際の幽子と日向ちゃんのやり取りを陽介から聞いて、思わず納得してしまった。
そんな微妙な空気が流れる中、月静さんが口を開いた。「あんた達、大変だったねぇ。でも、あの土地に住み続けていたら、もっと大変な目にあってたかもしれないから。命があっただけ良かったと思いな。」その言葉には、陽介の家族に対して深い思いやりが込められていた。
そして、自分たちは改めて、あの家の恐ろしさを実感し、鳥肌が立つ思いだった。
続けて月静さんは、「本当にあの不動産屋は頭にくるね。私の方から強く言っておくから、安心しな。」と、怒りをあらわにした。その表情は、まるで自分のことのように真剣で、のちに月静さんの言葉の意味を知ることになった。
さらに月静さんは日向ちゃんを見つめ、「あんたいつまで学校休みなんだい?」と尋ねた。
全員が突然の質問に驚き、静まり返る。
すると、月静さんは続けて、「あんた、霊感あるね!しばらく家に通いな。スイッチの切り方教えてあげるから」と、ズバリと言い当ててきた。その言葉に、思わず息を呑む。
流石は幽子の祖母だ。彼女の直感は鋭く、日向ちゃんの能力を見抜いていた。日向ちゃんは驚きと戸惑いの表情を浮かべながらも、月静さんの押しの強さに不安がっていた。
そんなやり取りが続く中、陽介は静かに幽子の方に向き直り、手に持っていた箱を差し出した。箱はシンプルなデザインで、どこか温かみを感じさせる。陽介の表情には、少し緊張した様子が見て取れた。「これ、どうぞ」と言いながら、彼はその箱を幽子に手渡した。
幽子は驚いたように目を丸くし、箱を受け取ると、そっと蓋を開けた。中には、キャラメルの香ばしい匂いが立ち込める、バナナとチョコレートが飾られたタルトが姿を現した。
陽介は続けて、「しんいちから『SAKURAI』のあのタルト、食べ損ねたって話を聞いて、今こんな身体じゃ買いに行けないから、しんいちのお母さんに事情を話したら、材料を買ってきてくれて、自分なりに再現してみました。お口に合うか分からないけど、食べてみてください。」
幽子はタルトを見つめ、その出来栄えに少し感心した様子だったが、どこか疑いの目を向けていた。「うん!後で食べてみる」と言いながらも、その声には少しのためらいが混じっていた。
陽介の手作りということに、彼女は心のどこかで不安を抱えていたのかもしれない。
しかし、次の日から幽子は毎日のように自分の家にやって来ては、「今度はこれを作ってくれ」とせがむようになった。彼女の目はキラキラと輝き、まるで子供のように無邪気だった。どうやら、あのタルトは彼女の心を掴んだらしい。陽介の手作りの味が、彼女の心に温かい記憶を刻み込んだのだろう。
陽介はその様子を見て、少し照れくさそうに笑った。彼女の笑顔が、彼にとって何よりの励みになっているのが分かった。幽子の心が少しずつ開いていくのを感じながら、陽介はこれからも彼女のために、もっと美味しいものを作ってあげたいと思ったに違いない。二人の間に流れる温かな空気が、少しずつ友情を育んでいくのを感じた。
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自分は星野さんに幽子と陽介の出会いの話を聞かせて上げた。
星野さんは「へぇー、そんな事があったんだね」と興味深そうに自分の話を聞いてくれていた。
そんな彼女が「でも、それって幽子ちゃん、その陽介くんの事が好きなのかなぁ?なんか陽介くんの料理が好きって感じなんだけど」と聞いてきた。
自分はすかさず首を横に降った「星野さんもあの二人の会話を見れば分かるよ。ずっと甘い物の話や、どこのお店のあれが美味しかったとか恋人みたいに話しているんだから。あの後もさぁ……」と星野さんとの楽しい会話は続いた。
ただ、自分の心の奥底には、誰にも言えない一つの疑念が潜んでいた。それは、幽子にも、陽介にも、星野さんにも語っていない、密やかな疑心。
それは……、美奈子さんのことだった。
彼女の言動は、どこか不自然だった。御札を剥がした時も、「もう良いわ。必要ないし」と彼女は言ったが、その言葉の裏には何が隠されているのだろう?
「必要ない」とは、一体何を指しているのか。彼女の心の中に、何か別の思惑があるのではないかと、疑念が膨らんでいく。
火事の当日、三人で「SAKURAI」に行った時のことも気にかかっていた。美奈子さんは「ゆっくり楽しんで来てね」と言った。その言葉は、一見すると普通の挨拶のように思える。
しかし、近所のケーキ屋にケーキを買いに行くだけなのに、なぜ「ゆっくり」と付け加える必要があったのだろう? 普通なら「楽しんで来てね」と言うのが自然ではないか?それともただ、疑念の心がそういう風に聞こえてしまうだけなのか今でも心に靄が残っている。
そして、美奈子さんの足のことも気になっていた。彼女は軽い捻挫だと聞いていたが、陽介が医者に再度連れて行った際には、すでに治っていると診断されたと聞いた。
果たして、彼女は本当に歩けなかったのだろうか? その疑問が、頭の中でぐるぐると回り続けていた。
そもそも、仮に彼女が火をつけたとして、彼女の意志で行ったのか?、何かに操られていたのか?何故あのタイミングだったのか?分からないことはまだまだ多い。
自分は名探偵ではない。極々平凡な学生であり、特別な能力など持ち合わせていない。名探偵なら、これらの疑念を突破口に真実を暴いていくのだろうが、自分にはその力も、必要性も感じられなかった。
今の陽介の家は平和だ。新しい家に引っ越し、和夫さんも海外から帰ってきた。日向ちゃんも元気に学校に通っていると聞くし、美奈子さんもみるみる体調が良くなっているという。そんな彼らに真実を暴いて何になるのだろう?
自分のこの疑念は、心の金庫の奥底にしまい込むべき秘密のように感じられた。
誰にも得をしない、無意味な考えを口にすることは、まるで自らの心に重い鎖をかけるようなものだ。だからこそ、強く思った。誰にも話さない、誰にも知られないようにしようと……。
そんな時だった。「ごめん!」と幽子の声が響き渡る。遅刻した割には、彼女はしっかりと身支度を整え、お洒落な服装で現れた。その姿は、まるで周囲の空気を一変させるかのように華やかだった。
星野さんが彼女に近づき、「ねぇ!ねぇ!今しんいち君から聞いたんだけど」と、早速幽子に陽介のことを尋ていた。彼女の目は好奇心に輝き、まるで小悪魔のように無邪気だ。
分かってはいた。女子の「絶対言わない」は「絶対に言う」ということを。それでも、心の中で「早くねぇ」とこの小悪魔に突っ込みを入れずにはいられなかった。
幽子の表情がみるみる怒りに変わり、彼女の視線が鋭く自分を刺す。「おい!しんいち。陽介のことを話したのか?彼とはそんな関係じゃないって言ってるじゃないか!」と、彼女の声は感情の高まりを伴っていた。怒りの色が彼女の頬を赤く染め、まるで火が燃え上がるようだった。
その様子に、自分は少し戸惑いながらも、思わず口を開いた。「そういえば、来週、陽介が家に来るって。幽子に何が食べたいか聞いといてと頼まれたんだけど」と言うと、彼女の顔が一瞬驚きに満ち、次の瞬間には少し赤らんでいた。まるで、心の中に秘めた思いが顔に出てしまったかのように。
自分は彼女の反応を見つめながら、心の中で静かに願った。どうか、彼女が笑顔を取り戻してくれますようにと。