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二十五軒目 安堵

この場から逃亡を図った自分と幽子だったが、自分の受難はまだしばらく続く。


最寄りのバス停に着くと、互いの悲惨な姿を見て思わず苦笑いが漏れた。自分の腕は傷だらけで、顔も火事の(スス)で黒く汚れている。幽子の方も、腕の怪我は大したことないが、彼女の顔も煤だらけで、まるで戦場から帰ってきたかのようだった。


「流石にこれは不味いな」と思い、幽子はバッグの中から使い捨てのフェイスタオルを取り出した。「これ、使って」と言いながら、自分にも一枚渡してくれた。タオルの感触は冷たく、少し安心感を与えてくれる。


顔を拭くと、フェイスタオルのアルコールが傷に染みて、思わず顔をしかめた。痛みが走るたびに、心の中で「良く生きていたなぁ」と改めて思った。煤だらけの自分を鏡で見るように、タオルに着いた黒い煤を見つめながら、命の重みを感じていた。


バスが到着し、二人は席に着いた。そこで初めて気づいたのだが、二人の身体からスモークされたような焦げ臭い匂いが漂っていた。幸い、他の乗客はおらず、静かな車内に二人だけの世界が広がっていた。「まぁ良いか」と、自分は疲れと痛みでどうでも良く感じていた。


自分の前の席に座った幽子に向かって、「怪我痛いんだけど、ヒーリングは?」と一途の願いを告げる。しかし、幽子は「そんな力あるわけないだろ」と、あっさりと嘘を認め、面倒臭そうに答えてきた。その言葉に、心の中で「やっぱり……」と失望が広がる。


痛みに耐えながら、家に帰ることになった。バスの揺れが、傷口に響くたびに、思わず息を呑む。

前に座った幽子は疲れ果てたかのように脱力して一言も話してこなかった。


「早く家に着いて、ゆっくり休みたいな」と心の中で呟きながら、自分は窓の外を流れる景色を眺めた。どこか遠くに感じる日常が、今はとても恋しかった。


何とか家に着いたとき、幽子が心配してくれたのか、彼女は自分の家まで送ってくれた。その優しさが心に染み渡り、思わず感謝の気持ちが溢れた。「ただいま!」と小さな声で帰りを告げると、リビングから母さんが顔を出し、自分たちの姿を見て顔色を変えて、「2人共どうしたの?」と、心配そうに声をかけてきた。


玄関で、先ほど陽介の家で起きた出来事を話すと、母さんの顔は見る見る青ざめていった。「お父さん大変!」と叫び、慌ててリビングに走り去った。その姿を見て、自分は「やっと病院に連れて行ってもらえる」と安堵の思いが胸をよぎった。


送ってくれた幽子に向かって、「送ってありがとう、幽子もゆっくり休んでよ」と感謝の言葉を告げると、彼女は疲れた目を見せながら「しんいちも早く休めよ」と優しく返してくれた。「またな!」と手を上げる彼女の姿が、少しだけ心を軽くしてくれた。


その時、母さんが慌ただしくリビングから出てきた。自分は思わず「母さん、俺怪我してるから病院連れてって」と懇願したが、母さんは驚いたように振り返り、「何言ってるの!美奈子さん達大変なんだから、それどころじゃないでしょ。しんいち、生きてるんだから大丈夫でしょ!」と信じられない言葉が飛び出した。

母さんは幽子に向かって「幽子ちゃん、しんいちヨロシクね」と言い残し、慌ただしくどこかへ消えていった。


自分にとって母さんの発言が一番恐ろしく感じた。


唖然として立ち尽くす自分の背後から、幽子が自分の肩を掴んで「君……、可哀想だな。今日は……、家に来るか?」と声をかけてきた。

彼女の声には、驚きと自分に対しての同情が混ざっていた。幽子もまた、母の言動には引いていた。


自分は「着替えを取ってくるから、ちょっと待ってて…」と、寂しげな声で幽子に告げて、着替えとお泊まり道具を揃え、再び幽子の元に戻ると、彼女の表情は少し明るくなっていた。


彼女の家までの道のりをトボトボと歩く自分に、幽子が「き、気にするな。今日は私の家でゆっくり休め」と、まるで自分を励ますかのように言ってくれた。

その言葉には、彼女のなりの優しさが滲んでいて、心が少し温かくなる。今日は、いつもとは違う幽子の優しさが、どこか特別なものに感じられた。


幽子の家に着くと、彼女の祖母である月静さんが、自分たちの姿を見て驚いた表情を浮かべた。「あんた達、どうしたの?」と、先ほど見た母と同じ反応を示す。

事情を説明すると、月静さんは「あの不動産屋、だから言わんこっちゃない。」と怒りを露わにした。


そして月静さんは「いま、お風呂を沸かしてあげるから、取りあえず庭の方か、玄関を開けてそこにいな!あんた達、もの凄い焦げた臭いしてるの分かっているのかい?」と、月静さんは忙しそうに準備を始めた。彼女の声には、どこか母のような温かさがあった。


幽子は「じゃあ、庭に行くか」と力なく答え、裏口に回って庭へ向かうことになった。

自分たちは庭とリビングの境にある土間に腰掛け、思わず「はぁ」とため息をついた。

疲労感が全身を包み込み、二人の間には沈黙が流れた。日陰にいると、秋の心地良い風が吹き抜け、傷や疲れを癒してくれるようだった。


その沈黙のなか、平穏を噛みしめながら、心の奥底で感じる平和の味が、こんなにも美味しいものだと気づかされた。周囲の静けさが、まるで私たちを包み込むように優しく、心の中の不安が少しずつ和らいでいくのを感じた。


「疲れたね」と、自分は幽子に話しかけた。しかし、彼女から返ってきたのは「疲れたな」という、まるでこだまのような短い返事だけだった。彼女の声には、まだ疲れが滲んでいる。さらに声をかけてみる。「陽介、大丈夫かなぁ?」


幽子は一瞬、自分の方をチラッと見た後、少し考えるようにしてから「大丈夫じゃないかぁ?私たちが心配しても、あとはなるようになるだけだし」と、さらっとした口調で答えた。


そして、幽子は少し間を置いてから「こんな結果になってしまったけど、私は少し良かったと思っているんだ」と、自分の思いを語り始めた。

自分は一瞬驚き、「何で?」と声が出てしまったが、すぐに彼女の言いたいことに気づいた。


幽子は冷静に続けた。「だってそうだろう?でも、あのままあの家に棲み続けたら、もっと大変なことになってしまったかもしれない。流石にあの場所に新しい家を立ててまで、また住もうとは思わないだろ。陽介たちはあの家と土地から縁が切れるんだ。良かったじゃないか」と、彼女は良く晴れた初秋の空を見上げながらそう答えた。

その表情には、少しの安堵と未来への希望が見えた。


自分も幽子の真似をして空を見上げ、「そうだね」と一言返した。青空が広がり、心の中のもやもやが少しずつ晴れていくような気がした。


そんな時、幽子が「あっ!」と何かを思い出したような声を上げた。「どうしたの?」と尋ねると、彼女は「ケーキ忘れてきた」と、気が抜けたような発言をした。

自分は思わず笑ってしまう。「それは残念だったね」と答えると、幽子は「まぁ良いか、取りあえずお風呂に入りたい」と、甘いもの好きの彼女らしからぬ発言が返ってきた。流石の幽子も、疲れがピークに達しているのだと知った。


そんな会話をしていると、月静さんが「お風呂沸いたよ、早く入ってきな」と告げてくれた。その声には、優しさと温かさが溢れていて、自分たちの心をほっとさせてくれる。幽子と顔を見合わせ、少しだけ笑い合った。これからの時間が、少しでも心の疲れを癒してくれることを願いながら。


自分は幽子の後にお風呂を使うことになった。湯船に浸かると、熱いお湯が傷口にしみわたり、心の奥まで温かさが広がっていく。まるで、疲れたた心を溶かしてくれるようだった。お湯の中で、自分は今日起きた出来事を思い返していた。


その中で、ふと気になる二つのことが浮かんできた。一つ目は、昇太君の部屋のことだった。あの部屋は、なぜ最初あんなにも開かなかったのだろう。火事の影響で家が歪み始めていた可能性もあるが、二人がかりで押してもびくともしなかったことが、今でも信じられない。

何か恐ろしいものが、自分たちをも焼き尽くそうとしていたのではないかという思いが、心の中で渦巻いて、熱いお風呂に浸かっているというのに、身震いが止まらなかった。


そして、あのドアがなぜ急に開いたのか。もしかしたら、昇太君が助けてくれたのではないかという考えが浮かんだ。「今度、幽子に聞いてみるか?」と思ったが、すぐに彼女の答えが頭に浮かんできた。「たまたまだ。感傷的になっているだけだよ」と、彼女が微笑みながら言う姿が目に浮かぶ。幽子はいつも冷静で、現実的な視点を持っているから、自分の思いを軽く流してしまうだろう。


お湯の中で、自分はその想像に少しだけ笑ってしまった。だが、心の奥には、昇太君の存在がどこかで私たちを見守っているのではないかという、微かな希望が残っていた。お風呂の熱さが、自分の心の中の不安を少しずつ溶かしていく。


そして、自分はもう一つの疑問に思いを巡らせていた。それは、火事の原因についてだった。台所付近が強く燃えている様子は目に焼き付いているが、燃える物がなさそうな庭も激しく燃えていた光景が、頭の中でぐるぐると回っていた。

そもそも、火事の事は良く分からないが、どうしてあんなに早く燃え広がったのか?、自分の思考はまとまらず、混乱していた。


お湯の中で考えを巡らせているうちに、頭がぼんやりとしてきた。もしかしたら、浸かりすぎたのかもしれない。「あとで考えよう」と自分に言い聞かせ、お風呂から上がることにした。


湯気の中から出ると、月静さんが優しく自分を客間に案内してくれた。そこにはふかふかの布団が引かれていて、彼女の温かい声が響いた。「大変だったね。取りあえず休みな。」その言葉は、心の奥にじんわりと染み込んできた。疲れた心に、彼女の優しさがしみわたるようだった。


月静さんは「寝る前に」と言いながら、火傷の薬と絆創膏、そして一枚の御札を手渡してくれた。「この御札は何ですか?」と私は尋ねると、彼女は穏やかな笑みを浮かべて答えた。「怪我に効く御札だよ。持っておきな。」


その言葉を聞いた瞬間、先ほどの幽子の姿が思い出され、自分は思わず疑いの声を上げてしまった。「この御札、効くんですか?」月静さんはその問いに、優しく微笑みながら「病は気からだよ」と答えた。その言葉に、自分は全てを察した。


薬を塗った後、自分は布団に横になった。布団の温もりが、まるで母の腕に抱かれているかのように、自分を包み込んでくれる。

安心感が心を満たし、気がつけば、自分はすぐに眠りに落ちていた。夢の中で、火事の恐怖や疑問は薄れていき、静かな部屋の中で意識が遠くなっていった。

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