二十三軒目 炎
「まだ一人助けなきゃ…」その言葉に、自分は疑問を覚えた。「美奈子さんも助けたし、日向ちゃんも無事にここにいる。家には誰もいないよ……」その思考が頭を占める中、陽介の表情が何か決心している様子に気づいた。
「何言ってるんだよ、もう誰もいないじゃん!」思わず声をかけたが、陽介はまるで自分の声が届いていないかのように、燃え盛る家を見つめ続けていた。彼の目には、何か別のものが映っているようだった。
自分は胸騒ぎを覚え、立ち上がろうとした瞬間、幽子が起き上がり、心配そうにこちらを見つめてきた。「どうした?何かあったのか?」その問いかけに、自分は幽子に異変を知らせた。
「陽介の様子が変だ!」その言葉が口をついて出た瞬間、隣にいたはずの陽介の姿が消えた。驚愕と恐怖が同時に襲いかかる。彼は、燃え上がる家に向かって走り出していた。
「陽介!」と叫んだ声が、空気を切り裂くように響いた。幽子も驚き、混乱した表情で「どうしたんだ彼は?」と問いかけてくる。自分は慌てて立ち上がり、彼の後を追った。
頭の中で考える余裕はなかった。身体が勝手に動いているような感覚だった。「待て!しんいち」と幽子の声が背中で聞こえたが、その声は遠くに感じられた。陽介を連れ戻すことだけが、今の自分の全てだった。心臓が高鳴り、足が速く動く。燃え上がる炎の中、大切な友人を失いたくない気持ちで恐怖は自然と感じていなかった。
家の中に足を踏み入れた瞬間、陽介の姿はまるで消え去ったかのように見当たらなかった。心臓が一瞬、凍りつく。周囲を見渡すと、リビングはすでに火の海と化していた。炎が踊り、黒煙が天井を覆い尽くし、まるで生き物のようにうねっている。玄関付近にいても、その熱波が肌を焼くように感じられた。
死の業火が、まるで自分たちを飲み込もうとしているかのように、じわじわと近づいてくる。恐怖が心を支配しようと押し寄せてくる、冷静さを保つのが難しい。人はこんな時こそ、頭が冴えるものだと聞いたことがあるが、自分はただ必死に陽介の名を呼ぶことしかできなかった。一階にはいないと直感した自分は、二階に向かう階段を見つめ、心の底から「陽介!」と声を張り上げた。
その瞬間、二階から返事が返ってきた。「しんいち!こっち!」その声は、まるで希望の光のように響いた。陽介の声だ。自分の心に再び力が湧き上がる。急いで二階に駆け上がると、階段の一段一段がまるで重く感じられた。焦りと恐怖が交錯し、足がもつれそうになるが、陽介の声が自分を導いてくれる。
「早く、こっちだ!」その声が、炎の音をかき消すように響く。自分はその声に導かれ、必死に駆け上がった。心臓が高鳴り、息が荒くなる。陽介が無事でいてくれることを信じて、ただ前へと進むしかなかった。炎の熱が背中を押し、恐怖が自分を急かしていた。
陽介は部屋の前でドアを開けようと、ドアノブを握りしめ、力を込めてガチャガチャと回していた。その姿を見つめながら、自分は心の奥に疑念にも似た不思議な気持ちが湧き上がるのを感じていた。「あれ?この部屋って…」何かが自分の中で引っかかっている。
「開かないんだ!」陽介は焦りを隠せず、ドアノブを回しながらドアを押すが、びくともしない。自分は思わず「貸して!」と叫び、陽介の代わりに力任せにドアを押してみる。しかし、まるで見えない力で押さえつけられているように、ドアは固く閉ざされていた。何かおかしいと言う予感が恐怖と一緒に襲ってくる。
「えっ!何で?鍵かかってるの?」自分は陽介に尋ねるが、彼は慌てた様子で「そんなわけないよ。鍵なんてついてないし」と答えた。その声には焦りが滲んでいた。
その時、火の手が迫っていることを知らせる様に、一階付近から「ドン」と小さな破裂音が響き渡る。更なる焦りが自分を襲い、咄嗟にドアを蹴り破ろうとした。「ドン!ドン!ドン!ドン!」何度も蹴りを入れる。陽介も自分の真似をするように、必死にドアに蹴りを入れている。「バキッ」と音が響き、ドアが変形していく。しかし、その瞬間、陽介の怪我をした肩から血が舞っていた。彼の痛みが、自分の心に重くのしかかる。
「早く!早く!開け!」と願いながら、自分は今度はドアに体当たりをしていた。渾身の力でドアにぶつかるたびに、身体中が痛みを訴える。「開けよ!」という気持ちが沸き上がったその時だった、「カチャ、ギィー」とドアがゆっくりと開いた。
「えっ!何で?」一瞬、驚きが自分を襲ったが、もう自分たちには余裕がなかった。「陽介、開いた!早く!」と叫ぶ。陽介もドアが突然開いたことに驚いていたが、自分の言葉に応じて「待ってて、すぐに取ってくる」と言い残し、部屋の中へと飛び込んでいった。
陽介はすぐに戻ってきた。彼は大事な物を守るようにその何かを胸に抱きかかえていた。その姿を見た瞬間、安堵の気持ちが自分の心を満たす。「ありがとう、しんいち!もう大丈夫だ。早く戻ろう」と陽介は息を切らしながら言った。その言葉に、自分は力強く「おう!」と返事をし、二人で一階へと急いだ。
家の中は、まるで生き物のようにきしむ音を立てていた。木材が悲鳴を上げ、崩れ落ちるのではないかという恐怖が自分の心を支配していく。あと少しで玄関だというのに、進むたびにその距離がまるで無限に感じられた。1メートル、2メートルがこんなにも遠いとは思いもよらなかった。焦りからか心臓が異常な鼓動を打っていた。
何とか玄関まで辿り着いたが、陽介はもう限界のようだった。「はぁ、はぁ、はぁ」と息が上がり、顔は青白くなっている。「陽介、もう少しだ!」と彼を励ますが、その声は自分自身を奮い立たせるための呪文のように響いた。陽介も必死に足を動かし、ついに玄関に辿り着いた。
ドアを開けた瞬間、外の空気が彼の顔を撫でる。陽介は一瞬、立ち尽くした後、外に飛び出した。まるで地獄から解放されたかのような表情を浮かべていた。自分もその後に続き、外の世界に足を踏み入れる。冷たい風が頬を叩き、心の中の重苦しさが少しずつ和らいでいくのを感じた。
「やった、出られた!」と自分は叫んだ。その声には、安堵と解放感が溢れていた。自分たちは互いに顔を見合わせ、笑顔を交わす。生き延びたことの喜びが、心の奥深くから湧き上がってきていた。
そんな時だった。
幽子が顔を伏せて、ゆっくりと自分たちのところに近づいてくる。その足取りは重く、何かを抱え込んでいるようだった。陽介の元に近づく彼女の姿に、何か様子がおかしいと感じた自分は、思わず声をかけようとした瞬間だった。
「パーーーン」
幽子は陽介の頬を力強く叩いた。その音は周囲の喧騒の中でもハッキリと聞こえた。自分はその突然の出来事に、状況を飲み込めずに呆然としていた。幽子が再び自分に近づいてくる。彼女の表情は険しく、まるで何かを決意したかのようだった。
彼女は顔を上げ、自分をじっと見つめる。その瞳には怒りが宿っていた。彼女の怒りに満ちた眼光を見た自分は金縛りにあったように動けなくなってしまった。そして、彼女は……
「パーーーン」
今度は自分の頬を、渾身の力で叩いた。痛みが走り、思わず「痛ッ!何するんだよ!」と文句を言おうとした瞬間、彼女は自分の胸ぐらを掴んだ。
「お前何やってるんだ!死ぬところだったんだぞ。私と約束しただろ!私にした約束を破るつもりなのか!」
彼女の怒声は、周囲の喧騒の中で響き渡り、自分の心に深く突き刺さった。混乱が心を支配する。彼女の怒りの意味、殴られた理由、そして彼女が言う約束……。自分は彼女の怒りの瞳を見つめ、思考を巡らせた。
その時、記憶の片隅にあった小さな出来事がふと蘇った。まだ幽子と出会ったばかりの頃、自分は彼女に「俺たちもう友達じゃん、ずっとそばにいるよ」と言ったのだ。子供の頃の何気ない言葉。誰もが一度は口にしたことがあるかもしれない、そんな軽い約束。
しかし、自分はその約束を忘れていた。だが、彼女はその言葉をしっかりと覚えていたのだ。彼女の怒りの意味が少しずつ理解できてくると、自分は震え始めた。彼女の怒りの瞳に、心の底から恐怖を感じていた。
先生にも怒られたことがある。母さんにも、父さんにも。だが、彼女の怒りはそれとは全く違っていた。心の奥深くに響くような、真剣な怒り。自分は彼女に対して、心から怖いと思った。怒られることがこんなにも恐ろしいとは思わなかった。
そんな彼女に僕は……、
「ごめんなさい……」
と、子供のように小さく謝っていた。
自分の声は震え、彼女の怒りを前にして、ただその一言が精一杯だった。
そして、幽子の怒りの瞳は陽介に向けられた。彼の前に立った彼女は、まるで燃え盛る炎のように感情をぶつけた。「お前も何しているんだ!せっかくお母さんも、妹さんも助かったのに、お前が死んだら元も子もないじゃないかぁ!」その声は、心配と怒りが交錯し、周囲の喧騒を切り裂くように響いた。
陽介は、彼女の言葉に押しつぶされるように、うつむいていた。「ごめんなさい……、しんいちもゴメン」と、彼は震える声で謝罪を口にした。彼の心の中には、重い罪悪感が渦巻いていた。少しの沈黙が、周囲の音を飲み込み、まるで時間が止まったかのように感じられた。
やがて、陽介は「でも……」と言いながら、胸に大事に抱えていたものを幽子に見せた。それは……
小さな写真立てだった。
中には、陽介の家族五人が笑顔で写っている写真が収められていた。「家に飛び込んだら、もうリビングに入れなくて……、昇太の部屋に写真があるのを思い出して、二階まで取りに上がったんです。昇太の遺影も位牌もリビングの仏間にあったから、もうどうしようもなくて。せめて一枚でも昇太の生きていた証が欲しくて……。ごめんなさい」と、彼は再び幽子に謝った。
その言葉を聞いた幽子は、言葉を失った。彼女の瞳から怒りが消え、怒りの矛先を見失った彼女の視線は、どこか遠くを彷徨っていた。心の中で戸惑いを感じながら、彼女はただ黙っていた。
自分は二人のやり取りを静かに見守っていた。周囲では人々の騒ぐ声が混ざり合い、あまりにも遅すぎる消防車のサイレンが近づいてきていた。その音は、まるで現実の厳しさを思い出させるかのように響いていた。そして、自分の背後で陽介の家が崩れ落ちる音が、重く響いてきた。まるで、この家に起こった出来事を押し潰すように……。