二十軒目 業火
陽介の家が燃えている。
炎が空に向かって舌を伸ばし、黒い煙が立ち上る様子は、まるで悪夢の中にいるかのようだった。自分はその場に立ち尽くし、ただ呆然と見つめるしかなかった。周囲では、住民たちの叫び声が響き渡っているが、その音はまるで遠くから聞こえる幻のようで、耳には全く入ってこなかった。
背後から陽介と幽子が追い付いて来ていたが、彼らの存在すら感じることができなかった。
幽子は目を大きく見開き、「何で……」と呟き、まるで魂が抜けたかのようにその場に立ち尽くしていた。彼女の表情には、恐怖と混乱が交錯している。自分も同じように、心の中に荒れ狂う絶望に押しつぶされそうだった。
その中で、陽介だけは冷静さを保っていたのだろう。彼は周囲を見回し、焦りの色を隠しながら「母さんと日向は?」と問いかけた。彼の声には、必死さが滲んでいた。周囲の広がる異常な焦げ臭さと混乱の中で、彼は必死に家族を探そうとしていた。自分はその姿を見て心が動いた。陽介の強さが、今の状況を打破する希望の光に思えた。
自分と陽介は周囲を見渡したが、焦燥感が募るばかりで、それらしい人影は見当たらなかった。「母さん! 日向ぁ!」と陽介は何度も大きな声で叫んだが、返事は返ってこない。彼の声は炎の音にかき消され、虚しく響くばかりだった。
冷静さを取り戻した幽子も必死に探していたが、「こっちにはいないぞ」と悲痛な彼女の声だけが返ってくる。彼女の表情には、不安と焦りが交錯している。自分もその気持ちを痛いほど理解していた。
陽介は近くを慌てて通りかかったおばさんを捕まえ、「母さんと日向見ませんでしたか?」と尋ねた。彼女は顔見知りのようで、驚いた表情を浮かべながら、「陽介くん!えっ、 美奈子さん?、いや見なかったわよ」と慌てた様子で答えた。その声には、無力感が滲んでいた。
自分はそのやり取りを見つめながら、陽介の家を見上げた。炎はリビング、裏庭の辺りからは激しく燃えており、黒い煙が空に向かって立ち上る様子は、まるで悪夢の中にいるかのようだった。嫌な予感が自分……、いや!自分たちの脳裏に過った。
「まだ2人は中にいるのでは……?」という思いが、心の奥でざわめいていた。
自分は一瞬、躊躇いが生まれた。「2人はもう逃げたのではないのか?」という疑念が頭をよぎる。だが、もしまだ中にいるのなら、火はそれほど広がっていない今がチャンスかもしれない。心の中で様々な考えが巡り、葛藤が生まれる。自分の中で、希望と恐怖がせめぎ合っていた。
そんな自分の横を、陽介は家へと向かって全力で走り出した。彼の背中を追いかけるように、自分は「陽介ぇ!」と叫んだ。声が風に乗って、彼の耳に届くことを願いながら。
その後ろから、幽子の声が響く。「お前たち、待て!」と、彼女は制止の声を上げた。しかし、彼女もまた、手にしたばかりのケーキを道端に置き去りにし、自分たちの後を追ってきた。
陽介の背中を追いながら、自分は玄関にたどり着いた。陽介は靴を脱ぐこともなく、土足のまま家の中に踏み込んでいく。「母さん!日向!」と彼は叫んだが、返事はなかった。静寂が不気味に響く。
自分と幽子は、すでに陽介に追いついていた。しかし、焦りが心を締め付け、ゆっくり考える余裕などなかった。「時間がない」。自分の心臓は早鐘のように打ち、冷たい汗が背中を流れる。
「美奈子さん、いつもどこにいるの?」と、陽介に尋ねる。彼は一瞬、言葉を詰まらせた。「恐らくリビングだと思うけど……」その声には、疑念と躊躇が混じっていた。彼の目には不安が宿り、何かを恐れているようだった。
その気持ちは痛いほど分かる。火元はおそらくリビング、そしてその隣接する庭の近くにあるのだろう。だが、果たして彼女はそこにいるのだろうか?不安が胸を締め付けるが、今は考えている余裕はない。「取りあえずリビングに行こう」と、思考を切り替え、リビングへ向かうことに決めた。
リビングは、台所付近から立ち上る炎の勢いが最も強く、まるで地獄の業火が迫ってくるかのようだった。庭へと続くガラス窓は、熱に耐えきれずに溶け、割れた破片が床に散らばっている。リビングから見える庭は、燃え盛る炎に包まれ、まるで悪夢の中にいるかのような光景だった。
自分たちは、そんな恐ろしい状況の中で美奈子さんの姿を必死に探していた。「何処にもいないぞ!」と、幽子の声が悲鳴のように響き渡る。彼女の声には、焦りと恐怖が混ざり合っていた。自分も心臓が高鳴り、隈無く視線を巡らせたが、どこにも彼女の姿は見当たらない。
その時、リビングの中にある障子戸の前に立つ陽介の姿が目に入った。彼は何かに気づいたようで、「あれ!」と声を上げた。彼の目は疑念と不審感で大きく見開かれていた。「いつも開けっぱなしになっているのに」と、陽介は呟く。その言葉が、自分の第六感を刺激した。
「確か和室だよね」と、以前陽介の家に来た時の間取りを思い出し、自分は思わずドアを勢いよく開けた。
障子が音を立てて開くと、そこには美奈子さんがうつ伏せで倒れていた。彼女の姿は、まるで時間が止まったかのように静かで、周囲の混乱とは対照的だった。
陽介は「母さん!」と悲鳴に似た声を上げ、彼女に近づいていった。自分と幽子も、彼の後を追うように美奈子さんの元へと急いだ。陽介の声に反応しない美奈子さんの姿を見て、自分は心の中に最悪の状況が浮かび上がる。幽子は焦りを隠せず、「生きてるのか?」と声を震わせた。
陽介は美奈子さんを抱きしめ、「母さん!母さん!」と叫びながら、彼女の肩を揺らした。その瞬間、微かに「うーん……」という声が漏れた。自分たちはその声を聞いて、思わず「はぁ~!」と安堵のため息を漏らした。
美奈子さんは意識が朦朧としているものの、確かに生きていた。自分は「良かったーぁ」と、心の底からの安堵が声になってしまった。陽介は一気に力が抜けたのか、美奈子さんを抱きしめ、涙を浮かべていた。
しかし、その静かな瞬間も長くは続かなかった。幽子が冷静に「早く運ぶぞ、ここもボチボチ、ヤバい」と声をかけてきた。その言葉に、自分たちは我に返った。「そうだ!急ごう!」と、急いでこの場から脱出を図る。
自分と陽介は、美奈子さんの両脇を抱え、立ち上がろうとしたが、思うようにいかない。女性で軽いはずなのに、完全に力が抜けてしまった人間がこんなにも重いとは、初めて知った。陽介と息を合わせて、何とか持ち上げることができた。
幽子は前に立ち、リビングの様子を確認しながら誘導した。「大丈夫か?さっきよりも火の勢いが増してる。早く逃げるぞ。」その声は、緊迫した空気の中で響き渡った。
自分と陽介は、美奈子さんを引きずるように和室を抜け、リビングに入った。幽子の言う通り、先ほどよりも火の勢いが増しており、煙が立ち込めて視界も悪くなっていた。焦りと恐怖が心を締め付ける。
「急ごう!」と陽介に声をかけ、前に進む。リビングの中頃に達したとき、幽子が自分たちを手伝おうと近づいた瞬間、台所の付近から
「ドーーーーン」
と轟音が響き渡った。その音は、まるで大地が揺れるかのように、周囲の空気を震わせた。
その瞬間、時間がゆっくりと動いていることに、自分は気づいていた。まるで世界がスローモーションに変わったかのように、周囲の音が遠くなり、視界がぼやけていく。
自分は走馬灯を見ていた。
爆発の衝撃と共に、黒い炎が周囲の物を巻き込みながら自分たちに向かって飛んでくるのが見えた。その光景は、まるで黒いローブをまとった死神が近づいているようだった。
「俺、死ぬのか?」という考えが、ゆっくりとした時間の中で脳裏を掠めていく。心の底から沸き上がる恐怖。死の冷たさがすぐ近くに感じられ、全身に鳥肌が立つのが分かった。
「幽子、逃げて!」、「陽介、逃げて!」と叫びたいのに、声は出なかった。まるで喉が締め付けられたように、言葉が喉の奥に引っかかり、空気すらも飲み込めない。焦りと絶望が心を覆い尽くす中、ただ無力感だけが募っていく。
横にいた美奈子さんの顔を見た瞬間、助けなければならないという思いが湧き上がった。しかし、その一瞬の決意も、次の瞬間には意識が途切れてしまった。周囲の音が消え、視界が暗転する。心の中で叫び続ける自分がいるのに、身体は動かない。まるで、運命に抗うことすら許されないかのように。
その時、全てが静止した。自分の心臓の鼓動だけが、耳の奥で響いている。恐怖と無力感が交錯する中、ただ一つの思いが心の奥底で燃え続けていた。それは、彼らを守りたいという強い願いだった。だが、その願いが届く前に、意識は闇に飲み込まれていった。