十九軒目 デート
陽介は、幽子の焦りの色に少しビックリしていた。彼女の目はいつもよりも輝き、心の中で決意の炎が燃え上がるのが見て取れたのだ。
ただ、自分はその理由を知っていた。幽子の心を掻き乱しているのは、老舗洋菓子店「SAKURAI」のことだ。
先週のこと、彼女はこの店を訪れた際、このお店の奇妙な名前の限定ケーキを手に入れられず、失望の表情を浮かべていた。今日はそのリベンジの日だ。幽子は朝からそのケーキを手に入れるために気合いを入れていたのだ。
彼女の計画は、まるで緊急ミッションのようだった。陽介の家に10時前に到着し、わずか30分で家の様子を確認した後、15分で「SAKURAI」に向かい、11時のオープンと同時にそのケーキを手に入れるという、彼女にしては珍しく穴だらけの計画だった。バスの中で彼女が語るその計画は、まるで子供のような無邪気さと、真剣な決意が入り混じっていた。
バスの中、幽子の熱い語りを聞きながら、自分は心の中で思わず突っ込みを入れていた。「絶対に無理だろ?30分で片付けるなんて……」と。
彼女の目はキラキラと輝き、まるでその情熱が周囲の空気をも熱くしているかのようだった。人は盲目である。こんな状態の彼女に意見を言ったところで耳には届かないと思った自分は、軽く「ふーん」と返すしかなかった。
案の定、彼女の計画は破綻した。今の時間を聞いた瞬間、幽子の顔は青ざめ、焦りの色が浮かんでいた。彼女の心の中では、先週の悲劇の様がフラッシュバックしているのが見て取れた。
自分はその姿を見て、思わず笑いが込み上げてきていた。彼女の計画がどれほど無謀だったのか、心の中で笑いを堪えていた。
その時、陽介がふと口を開いた。「もしかして『SAKURAI』のことですか?」と、彼は自分たちの会話にスッと入り込んできた。彼の言葉は、まるで幽子の熱意の理由に気が付いたようで、幽子の反応は一瞬の静寂をもたらした。
「何だ!君知ってるのか?」と、幽子は驚きの色を隠せずに声を上げた。その瞬間、彼女の目は驚きと期待でキラキラと輝き、まるで新たな発見をした子供のようだった。
陽介はそんな彼女の反応が面白かったのか、柔らかな笑みを浮かべながら、「えぇ!しんいちからその話を聞いていて、もしかして幽子さんが欲しがってるケーキって『極上キャラメルバナナクリームチーズタルト、トリプルチョコレートソース添え』のことじゃないですか?」と、思わず質問を投げかけてきた。
幽子は一瞬、言葉を失ったように口を開け、次の瞬間には頬を赤らめて小さく笑った。「そう、それそれ!何で君知っているんだ?」彼女の声には、まるで子供がクリスマスプレゼントを見つけたときのような驚きが溢れ出ていた。
陽介はその反応に心を和ませながら、彼女の興奮を楽しむように続けた。「俺も『SAKURAI』良く行くんですよ。あのケーキは本当に特別で、見た目も綺麗で、味も絶品なんです。」彼の言葉に、幽子の目はさらに輝きを増し、まるでそのケーキが目の前に現れたかのように、彼女の心は高鳴っていた。
「でも、その名前、長すぎない?」と、まるで最近流行りの異世界アニメのような、無駄に長い名前について自分は思わず突っ込みを入れてしまった。
幽子はその言葉に少しムッとした顔をしつつも、すぐに笑顔に戻り、「名前なんてどうでもいいんだよ!全く、しんいちは細かい事気にしすぎだ。」と元気よく返した。その瞬間、彼女の無邪気な笑顔が周囲の空気をも明るく照らし出すように感じられた。
陽介は、幽子の目がキラキラと輝くのを見て、心が温かくなるのを感じていたに違いない、「じゃあ、さっそく『SAKURAI』に買いに行きましょう。幽子さんに是非お礼をしたいと思っていたので、自分がおごりますよ。」彼の声は優しく、まるで彼女の期待に応えようとするかのようだ。
その言葉が幽子の耳に届くと、彼女は驚きの表情を浮かべた。「え!本当に。君いい奴だな!」その瞬間、彼女の顔は嬉しさで満ち溢れ、頬がほんのりと赤く染まった。陽介の手をしっかりと掴むと、まるで子供のようにはしゃぎながら「早く行くぞ!」と叫んだ。
自分たちは、騒がしい足音を響かせながら二階から降りて行った。階段を下りるたびに、幽子の無邪気な声が響いていく。そんな声に引き寄せられるように、リビングのドアが少し開き、美奈子さんの顔が覗いた。彼女の柔らかな笑顔が、その場の雰囲気をさらに明るく照らす。
「陽介、出掛けるの?」と、美奈子さんの声が優しく響く。陽介はその声に振り向き、思わず苦笑いを浮かべた。彼の手には幽子がしっかりと掴んでいて、グイグイと彼を引き寄せていた。
「みんなと『SAKURAI』に行ってくるよ。」陽介は少し照れくさそうに答えた。彼の言葉に、美奈子さんの口がニコリと緩む。まるで彼女の心の中に、陽介の楽しみが共鳴したかのようだった。
「ゆっくり楽しんできてね。行ってらっしゃい。」美奈子さんは、優しい声で自分たちを送り出してくれた。
甘いスイーツとは、時に恐ろしい魔力を持つものだ。
陽介と幽子が『SAKURAI』へ向かう道すがら、彼らの甘い物トークは止まることを知らなかった。幽子が甘い物好きなのは知っていたが、陽介もここまで甘い物に情熱を注いでいるとは、自分は初めて知った。
二人は初めて会ってからしばらく経つが、どこかよそよそしい距離感が漂っていた。しかし今、彼らの会話はまるで久しぶりに再会した友人同士のように、その時間を埋め自然と会話が弾んでいるようだった。陽介の笑顔が幽子の心を温かく包み込み、彼女の目は輝きを増していく。
2人の会話が盛り上がりをみせると幽子は、「聞いてくれ!しんいちのヤツ、私が見つけた美味しいスイーツを馬鹿にするんだぞ。信じられないだろ?」彼女の声には、少しの怒りと大きな楽しさが混ざっていた。幽子の言葉に陽介は頷き、共感の笑みを浮かべる。
「それはおかしいですよ。あれ、美味しいですよね。」陽介の言葉は、幽子の心にさらなる火を灯した。彼女は嬉しそうに笑い、自分を魚に二人の会話はますます盛り上がっていく。彼らの間には、甘いスイーツの話題を通じて築かれた新たな絆が生まれていた。
一方で、内心自分は複雑な感情に苛まれていた。「君たちの方がおかしいから……、世論調査すれば自分の方が多数派だから!」と、心の中で反論しながらも、現在圧倒的に少数派の自分は疎外感を抱いていた。彼らのおかしな会話の壁に阻まれ、まるで外から眺めているような気分だった。
「SAKURAI」までの道すがら、陽介と幽子の笑い声が響く中、自分だけがその場に取り残されているような感覚が、胸の奥に重くのしかかっていた。甘いスイーツの魔力が、彼らの心を繋げる一方で、自分は会話に入れず完全に取り残されていた。
「SAKURAI」に着いてからも、二人の甘いトークは止まることを知らなかった。むしろ、色とりどりのケーキが並ぶショーケースを前にして、彼らの会話はますます盛り上がっているように感じられた。
「幽子さん、これも美味しいんですよ!」陽介が指差したのは、鮮やかなフルーツが飾られたケーキだった。幽子の目がキラリと輝き、「えっ!どれどれ。」と興味津々で近づく様子は、まるで付き合いたての若い恋人同士のようだった。彼らの笑顔は、周囲の空気を明るく照らし出し、まるで甘いスイーツの魔法にかかっているかのように思えた。
店員さんも、そんな美男美女のやり取りを微笑ましく見守り、どこか朗らかな表情を浮かべていた。店員さんの目には、二人の楽しげな姿が映り込み、まるで彼らの幸せを分かち合うかのように、心温まる雰囲気が店内に広がっていた。
甘い香りが漂う店内で、自分だけがその輪から外れて完全に空気と化していた。陽介と幽子の会話は、まるで自分を意識していないかのように続いていく。彼らの楽しさが、まるで自分を包み込む甘いスイーツのように感じられたが、その実、自分はその甘さから取り残されているのだった。
陽介と幽子は、あの異様に長い名前のケーキ、「極上キャラメルバナナクリームタルト、トリプルチョコレートソース添え」と、さらに陽介オススメのケーキを手に入れ満面の笑みを浮かべながら帰路についていた。
幽子は、夢にまで見たそのケーキを手にした喜びで、まるで空を飛んでしまいそうな軽やかな足取りで歩いていた。彼女の笑顔は、まるで太陽の光を浴びた花のように輝いていた。
陽介もまた、そんな幽子の姿に心を和ませ、彼女に向けて爽やかな笑顔を返していた。二人の間には、何気ない日常の幸せが流れていた。
そんな2人に、いい加減自分は「勝手にやってて」と呆れた表情を浮かべてそっぽを向いていた。そしてあと少しで陽介の家に辿りつこうというとき、自分は周囲に漂う異変に気づいた
「あれ!何の臭い?」自分はふと立ち止まり、鼻をひくひくさせた。風に乗って漂ってくる焦げ臭い匂いが、自分の第六感を刺激した。自分は自然とその臭いの方向を追い始め、その臭いがある場所から漂ってきている事に気が付いた。心の奥底で嫌な予感が膨らむのを感じながら、自分は無意識に二人を置いて走り出していた。
自分には少し変わった能力がある。それは、脆弱で不確かな力だ。しかし、今回はその力が外れてほしいと、心から願っていた。陽介の家が近づくにつれ、耳に入ってくるのは「早く……」、「消防車」、「誰かぁ」といった悲鳴のような声だった。恐怖が自分の心を締め付け、予感は確信へと変わっていく。
あの角を曲がれば、陽介の家が見える。自分は、切れてしまった糸を確認するような不安に襲われていた。曲がり角には、慌てた人々が行き交い、自分はその人々の横をすり抜けて、ついに陽介の家を視界に捉えた。
その瞬間、自分の心臓は大きく跳ね上がった。陽介の家からは、紅い炎が燃え上がり、黒い煙が空へと立ち上っていた。