十軒目 疑惑
日向ちゃんの姿を目にした瞬間、自分は言葉を失ってしまった。
心臓の鼓動が、まるで耳元で響くようにハッキリと聞こえ、恐怖がじわじわと高まっていくのを感じた。
両親や陽介から、日向ちゃんが引きこもっていると聞いてはいた。
彼女と最後に会ったのは、今年のお正月の事だった。確かにあの時も、彼女はどこか変わってはいた。
大人しく陽介の後ろに隠れるようにしていた日向ちゃん。
だが今年、自分の目の前にいた彼女は、茶髪に染められた髪が風に揺れ、少し派手な化粧が施されている。目付きはどことなく鋭く、以前の彼女の面影は全くなかった。
それでも彼女とは、学校のこと、ファッションのこと、恋愛話なんかもしたと思う、まだ普通に会話が出来ていたのだ。
そんな彼女が。たった数ヶ月で廃人のような姿になってしまったのだ。
心臓の鼓動が早まる中、自分は部屋の状況を探った。ゴミ屋敷とは言えないが、部屋の中はかなり荒れていた。
暴れた跡なのか、様々な物が床に散乱し、壁には所々に大きな傷が刻まれている。
落ちている物の中には、食べ物の残骸も混じっていた。この部屋に充満する嫌な臭いの原因は、恐らくこれだろう。
冷静さを必死に保ちながら状況を把握しようとする自分の視界に、陽介が飛び込んできた。
彼は日向ちゃんに近づき、「ほら!しんいちが来てくれたよ、挨拶しないと!」と、明るい声で日向ちゃんを立たせようと腕を引っ張っていた。
「陽介……」と自分は呟くが、その声は彼の耳に届く前に消えてしまっていた。
それと同時に、全身を駆け巡る悪寒が自分を襲っていたのだ。
「陽介、何やってるの?」、「日向ちゃん、立てないよ」、「それよりも病院に連れていかないと」
先ほどから感じていた陽介の違和感が疑惑へと変わり、頭の中は混乱していた。
様々な考えが渦を巻いているなか、一つの答えが自分に浮かんできた。
「あぁ!陽介も蝕まれていたのか…」
喪失感が胸を締め付け、自分は肩を落とした。幽子が言っていた言葉が頭の中で反響していた。「蝕まれている」、「異変が起きている」と。
今、目の前に広がる悲惨な光景と、部屋に漂う嫌な臭いが相まって、自分は吐き気に襲われ、必死にそれを堪えていた。
この状況から目を背けたいのに、どこに視線を向ければ良いのか分からなかった。
そんな時、後ろから自分の袖を引っ張る感覚があった。振り返ると、そこには幽子がいた。
彼女は鼻を手で押さえながら、冷静な表情を浮かべていた。
「少しかがめ」と、彼女は合図を送る。
「え!なに?」と戸惑いながらも、自分は彼女の指示に従い、少し身をかがめてみた。
幽子は近づいてきて、耳打ちする。
「言った通りだろう」
彼女の表情は、まるで全てを見透かしている探偵のように不敵だった。
そして幽子はゆっくりと陽介の元へと歩いていった。
幽子は静かに陽介の肩に手を置いた。その瞬間、彼女の声が低く響いた。「おい!君、もう彼女の手を放してやれ。あとは私が何とかする、大丈夫だから。」
その言葉は優しさを含んでいたが、同時に彼女の周囲には不思議な威圧感が漂っている。
まるで、彼女の存在そのものが周囲の空気を変えてしまうかのようだった。
陽介はその雰囲気に圧倒されたのか、驚いたように「はい……」と呟き、日向ちゃんの手を解放した。
幽子はそのまま、彼に向かって微笑みを浮かべていたが、彼女の瞳は陽介の背後にいる何かを睨みつけているような鋭い眼差しをしていた。
続けて、彼女は自分に向かって「しんいち、済まないが少し彼の側にいてやってくれ。」と頼んできた。
自分は頷き、陽介の側に歩み寄った。彼の不安そうな表情を見て、心の中で先ほどの弱い気持ちが払拭していた。
「幽子に任せよう」と、そっと呟く。彼女の力強さを信じて、静かに彼の隣に寄り添った。
幽子は日向ちゃんの前にしゃがみ込み、彼女をじっと観察していた。視線は上下左右に動き、何かを確認するかのように、彼女の表情や体の状態を確認しているようだ。
その目は、まるで深い闇の中で光る星のように、静かに、しかし確実に何かを捉えようとしていた。
「けっこう酷いなぁ…」と、幽子は小さく呟く。その声は、周囲の静寂に吸い込まれるように消えていった。
そして彼女はダラリと垂れ下がった日向ちゃんの手をしっかりと握りしめた。まるでその温もりを失わないように、強く、優しく…。
幽子はゆっくりと目を閉じた。恐らく、お祓いが始まったのだろう。
二人の間には、水面のような静けさが漂い、周囲の音が遠のいていく。
まるで時間が止まったかのような、神聖な空気が二人を包み込む。
この瞬間、お祓い独特の緊張感が漂っていた。
幽子が目を閉じてから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
自分は緊張からか、時間の感覚が麻痺しているように思われた。心臓の鼓動が耳に響き、静寂の中でその音だけが際立っていた。
周囲の空気が重く、まるで何かが起こるのを待っているかのようだった。幽子の手の中で、日向ちゃんの手は微かに震えていた。
そんな二人の様子を陽介は隣で緊張した面持ちで見守っていた。その表情は不安というよりも、まるで神聖な儀式を目の当たりにしているかのように畏敬の念を感じさせた。
そして、静寂を破るように幽子がゆっくりと目を開く。
自分はその瞬間、緊張感から解放され、思わず「ふーぅ」と大きく息を吐いた。
陽介はまだその光景に圧倒されているのか、呆然としたまま動けずにいる。
幽子は日向ちゃんの方へ視線を移し、再度確認するかのように目を動かしていた。
そして、ゆっくりと立ち上がり、自分たちの元へと歩み寄ってきた。
「これで取りあえずは大丈夫かな。悪いモノは出て行ってもらったから、早ければ今日くらいには正気に戻るんじゃないかな」と、彼女は穏やかな声で告げたのだった。
その言葉に安堵の息を漏らしながら、自分は思わず「日向ちゃんにはやっぱり何か憑いていたの?」と尋ねてみる。
その問いに幽子は、少し難しい顔をしながら「そうだなぁ!確かにかなり悪いモノに憑かれてはいたけど、それよりもこの家の影響をかなり受けてる感じだな。」と告げた。
そして幽子は、まるで何事もなかったかのような明るい声で「じゃあ次の場所に行くかぁ!次はトイレだったか?少し一階部分は気になるところがあるんだ。」
その言葉に、自分は少し戸惑いながら「日向ちゃんはこのままでも良いの?」と尋ねてみる。
幽子は軽やかに頷き、「まぁ!大丈夫だろう。すぐに何かあるって事はもうないし、他にも調べなければならない場所もあるからな。先に調べてからみんなで手分けして作業した方が効率良いだろ。」と、あっけらかんと答えてきたのだった。
その言葉に安心感を覚えつつも、心のどこかで不安が残っていた。
幽子は続けて、「ただ、流石にこの部屋の空気の悪さと臭いは酷いから、取りあえずはカーテンと窓を開けて空気の入れ替えと、日差しを入れておいてくれ」と指示を出してきた。
自分と陽介は顔を見合わせ、幽子の言う通りにしようと決め、日向ちゃんをベッドに寝かせ、カーテンと窓を開けることにした。
窓からは温かな日差しが注ぎ込み、心地よい風が部屋に流れ込んできた。
その瞬間、まるで部屋に潜んでいた悪いものが外へと出て行くかのような感覚が広がっていく。空気が少しずつ浄化されていくのを感じながら、自分たちは次の行動に思いを馳せた。
「さあ行くかぁ!」幽子の言葉が響く中、自分達は次の場所へと向かう準備を整えていた。
先ほどとは違う、日向ちゃんの安らかな表情を見つめながら、自分は心の中で彼女の無事を祈っていた。




