三体目 金縛り
放課後の教室には、夕暮れの静けさが漂っていた。窓の外からは運動部の掛け声が微かに響いていたが、教室の中はまるで音を吸い込むように静まり返っている。
自分と幽子は、黙って星野さんの到着を待っていた。
やがて、教室のドアが音もなく開いた。入ってきたのは、明るい笑顔を浮かべた星野さんだった。 「彼もすぐに来るから、先に行きましょう」 そう言って、私たちを促す。
三人で向かったのは、駅前にあるマクドナルドだった。
明るい店内。注文カウンターの向こうから漂うポテトの香り。幽子は迷わず期間限定のセットを手に取り、そのパッケージを誇らしげに見せつける。彼女の笑顔は、まるでそのセットが宝石のように特別なものであるかのように輝いていた。
「ふふっ、美味しそうですね」星野さんが柔らかく笑い、自分もつられて微笑む。
席について少し経った時……。
「こんにちはー!」
元気な声が店内に響き、振り返ると、一人の男性が近づいてきた。小林さんだった。
自分は、噂に聞いていた“頼れるスポーツマン”の印象から、がっしりした体格の青年を想像していた。しかし、実際に現れた彼は、柔らかな笑顔が似合う、今風の爽やかな青年だった。まるで太陽の光を身にまとっているかのように、彼が入ってきた瞬間、店の空気が一変した。
「待たせてごめんね!」と小林さんは軽やかな足取りでテーブルに近づき、柔らかな声で言った。
自分は「こんにちは、初めまして」と挨拶する。すると、幽子は一言も発さず、まっすぐに小林さんを見つめていた。その瞳には、どこか観察するような、研ぎ澄まされた意志があった。
「小林さんです」星野さんが紹介する。その口調は丁寧で、年下の私たちに対してもどこか敬意が込められていた。
「今日はお時間いただき、ありがとうございます」小林さんが頭を下げた瞬間、私は不思議と胸の内に温かいものを感じた。——この人、すごくいい人だな。
すると、沈黙を破るように幽子が口を開いた。
「星野さんから話は聞いている。まずは座って、話を聞かせてほしい。」
彼女の声は落ち着いていたが、その裏にある真剣さが空気を変える。小林さんは少し驚いたように目を見開き、そして静かに頷いて席に着いた。
店内の喧騒が不思議と遠ざかる。
小林さんが語り始めたのは、ある夜に起きた“ただの金縛り”では済まされない異様な体験だった。
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話によれば、小林さんは中学生の頃から金縛りに悩まされていたという。最初の頃こそ怯えていたものの、「運動している人はなりやすいらしい」という噂もあって、次第に恐怖は薄れていった。
だが、最近のそれは違っていた。
ある夜。彼がベッドに入り、まどろみの中へと落ちた瞬間、突然身体が動かなくなった。
「またか」と思ったその刹那、彼の両脇の布団が、重さを帯びて沈んだ。
——誰かが、ベッドの上に乗ってきた。
太ももに、何か柔らかいものが押し当てられる。驚愕と恐怖が一気に心を支配する。叫びたくても声は出ず、ただ目だけが恐怖に見開かれる。
今度は腹の辺り。そして、胸の上。
明らかに“顔”のようなものが身体の上を這ってくる。顎にふわりと触れる髪の毛——そして、次は——顔だ。
全身の力を振り絞って金縛りを解こうとするが、まるで身体は自分のものではない。
ついに、顔に何かが触れた。
冷たくも熱くもない。ただ、誰かの額、鼻、髪の毛が、自分の顔に触れている感覚だけが、恐ろしく鮮明に残る。
その時だった。
「……私だけ……」
低くボイスチェンジャーで変調されたような、異質な声が耳元に響いた。
その瞬間、金縛りが解けた。
しかし小林さんは、すぐに目を開けることができなかった。ただ、闇の中で、激しく打つ心臓の鼓動だけを感じていた。
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小林さんの体験は、その一度きりだった。しかし、それ以降、金縛りに襲われるたびに、“黒い影”が、自分を静かに見下ろしているのだという。
自分は思わず尋ねた。
「じゃあ、その黒い影って……星野さんが言っていた、告白してきた女の子に似てるってことなんですか?」
小林さんは少し考えてから、「はい、多分そうだと思います」と答えた。しかしその言葉には、どこか歯切れの悪さが残っていた。
「多分……ですか?」
自分の問いかけに、小林さんは眉を下げて説明を続ける。
「黒い影は……完全に黒くて顔が分からないんです。ただ、長い髪と制服のシルエットが、僕の学校の女子生徒に似ていて……だから、タイミング的にあの時告白してきた女の子の生き霊なんじゃないかって思ったんです。」
「なるほどぉ……」
小林さんの説明に、自分は思わず頷いていた。曖昧ながらも彼の言葉には、確かに一貫した筋が通っているように思えた。
そのとき、静かに話を聞いていた幽子が、ふいに口を開いた。
「二、三、聞きたいことがあるのだが……よいか?」
その声は落ち着いていたが、どこか芯のある鋭さがあった。まるで何かを確かめにきた探偵のような、そんな気配。
小林さんは驚いたように目を見開き、やや緊張した面持ちで頷いた。
「はい、大丈夫です」
テーブルの上に張り詰めた空気が、ピンと糸を張ったように震える。幽子の瞳は真っ直ぐに小林さんを見つめ、彼の内側にある“何か”を見透かそうとしているようだった。
「その影が現れたとき……何か他に変わった出来事があったのか?」
彼女の問いかけは冷静だったが、その言葉の裏には見えない緊迫感が潜んでいた。
小林さんはしばらく沈黙した後、ゆっくりと記憶を辿るように口を開いた。
「うーん……特に何もなかったと思います。ただ……影の顔の部分、というか……真っ黒なんですけど、白い目だけが、じっと僕を見ているんです。」
彼はふと、思い出したように声を上げた。
「……あっ、そうだ。金縛りの後、夢の中に……あの女の子が出てきたことがありました」
「女の子?」と自分が確認すると、小林さんは小さく頷く。
「はい、告白してきた子です。彼女、夢の中で何も言わずに、ただ僕のことを見つめてきて……すごく不気味でした。」
その言葉に、幽子は小さく息を吐くように、「なるほど……」と呟いた。その響きには、何か確信に近いものを得たような重さがあった。
「次の質問なのだが……周囲からよく相談事とかはされるのか?」
幽子の問いに、小林さんは少しだけ首を傾げながらも、すぐに答えた。
「はい、まあ……。部活の後輩とか、同級生とか、ちょくちょく相談されたりします。」
幽子はさらに問いを重ねる。
「男女どちらが多い?」
その瞬間、彼女の質問の意図が気になった。自分も思わず息を飲み、小林さんの返答を待った。
「うーん……両方ありますが、どちらかといえば……女性の方が多いと思います。」
幽子は小さく頷いた。その瞳には、何かしらの確信が宿っていた。
「ありがとう……」
一瞬の静寂の後、幽子の表情が少しだけ変わる。真剣な眼差しのまま、彼女はさらに踏み込んだ。
「もうひとつ……怪我をされたと聞いたが、その時の経緯を教えてもらえるか?」
小林さんは「あっ」と声を上げ、少し驚いたように右腕の袖をまくり上げた。そこには、白い包帯がきつく巻かれた腕があった。
「これ……ですかね」
どこか気まずそうに言いながら、彼は腕を軽くさすった。
「黒い影が見えるようになった少し前から、右腕に違和感があって……最初は軽く痛めたのかなって思ってたんです。でもそのままバドミントン続けてたら、だんだん痛みがひどくなって……」
彼は小さくため息をつきながら続けた。
「病院に行ったら、腱鞘炎だって言われて……今は治療のために部活も休んでます。これが例の影と関係あるかどうかは……正直、わからないですね。」
そう言った彼の声には、不安と戸惑いが滲んでいた。
幽子は何も言わず、しばらく小林さんの顔をじっと見つめていた。そのまなざしはどこまでも冷静で、だが確かに、何かを見極めようとする鋭さを帯びていた。
まるで、真相へと近づいているのは彼女だけであるかのように。