十一幕目 結界
そして、自分達は人目を避ける場所へと移動し、幽子が周囲を見渡した後、「ここら辺で良いぞ。」と低い声でみんなに告げた。
彼女の言葉には、何か特別な決意が込められているように思えた。
あとの事はもう幽子に任せるしかなかない。
幽子は星野さんから預けていた巾着袋を受け取り、中から筆ペンと和紙を取り出した。
そして幽子は手際よく、数枚の御札を次々と作り始める。
その姿は、まるで映画に出てくる陰陽師のようだ。
「箱の中から彼を出したまえ。」幽子の声が、緊張感を漂わせる空気の中に響いた。
自分達は、段ボールの中から木村さんを慎重に外に出すと、彼の様子は、控え室にいた時とは少し違っていた。
控え室にいた時は、縛られながらもまだ抵抗をするかのように身を捩っていたのだが、今は「フーゥ、フーゥ」と息は荒いのだが抵抗感は薄れているように見えた。
そんな様子を観察していた幽子は「おばあちゃんの言った通りだな。」とポツリと呟いた。
「これからお祓いを始めるから、みんなも少し協力してくれ。」幽子の声が、部員のみんなに伝わった。
幽子の指示とは、先ほど準備をしていた時に頼んでおいた数本の棒を、木村さんを囲むように広めに置いて欲しいとの事だった。
自分は「何の準備だ?」と考えていると、幽子が自分の腕を掴み、「しんいちには、別の頼み事がある。」と耳打ちをしてきた。
その内容に驚いた自分は目を大きく開き、「えっ!本当にやるの?」と問い返した。
幽子は微かに頷き、「もしもの時はな。」とだけ告げた。
そのやり取りの最中、部員の一人が呼びに行ったのか、いつの間にか最木先生が姿を現した。
先生は心配そうな表情で、「どうしたの?何があったの?」と問いかけた。
関口さんが事情を説明している間、棒を設置していた部員が幽子に確認を求めてきた。
「こんな感じで良いの?」
幽子は木村さんの周りに設置された木の棒を見つめ、微笑みながら「ありがとう、大丈夫だ。」と告げた。
自分は、目の前に立てられた木の棒を指差しながら、幽子に尋ねた。「この棒の囲いはいったい何なの?」
幽子は微笑みを浮かべ、柔らかな声で答えた。「これは境界線だよ。そうだなぁ……、分かりやすく言うなら結界の一種だな。」
その言葉に、自分は思わず目を細め、木村さんの四方に置かれた木の棒をじっと見つめた。
幽子の説明によれば、パーソナルスペースを明確にすることで、その境界線の内側に入りづらくなる効果があるという。
「こんなのが?」と疑問を抱きつつも、心のどこかで「言われてみれば…」と言うような気持ちになってくる。
幽子は続けて「簡単な結界としては、自分が座った席の横にバッグとかを置くのも良いぞ。簡単な境界線の付け方だが、なかなかに効果があるんだ。」と教えてくれた。
幽子は境界線に近づき、手にした木の棒を少し手直しした後、四方に配置された境界線の角に、先ほど作った御札を淡々と置いていった。「さて、準備は整ったから、彼のお祓いを行おう。しんいち、予定通り一緒に中に入ってくれ。」彼女の声には、どこか決意が感じられた。
その言葉を聞いた瞬間、心の中に不安が広がる。先ほど耳打ちされた時に頼まれたことの一つではあったが、やはり恐れが消えない。
「本当に大丈夫なの?」と尋ねると、幽子は自分を急かすように、「君、私から貰った数珠を着けてきてるんだろ?あれがあれば大丈夫だから、早く一緒に入りたまえ。」
仕方ない……。
そう思いながらも、幽子と共に境界線の中へと足を踏み入れた。
境界線の中に入ると、幽子は木村さんの前に腰をかがめ、自分に向かって冷静に指示を出した。
「まずは彼のロープをほどいてやってくれ。ただし、手足のロープは念のため外さなくて良いぞ。猿ぐつわも外して大丈夫だ。」
自分は「本当に大丈夫?」とためらいを見せると、幽子は淡々とした口調で話を続けた。
「ちょっとロープがあると、いろいろやりにくいんだ。もしまた暴れるようなら、例のやつをやってくれ。」
その言葉に、少し不安が残るのだが自分は腹をくくって木村さんを縛っていたロープを外していった。
取りあえず身体中を巻いていたロープは外し、次に猿ぐつわを取って上げる。
木村さんは特に暴れる事はなく、ただ、「フーゥ、フーゥ」と荒い息を上げていた。
幽子が木村さんに近付いて行き、彼の身体をいろいろと触りながら何かを確認している様子を見て、自分は思わず「何をしてるの?」と尋ねてみた。
すると、幽子は真剣な表情で「浸食されてないか確認しているんだ。」と答えた。
「何?浸食って!」と驚きの声を上げる自分に、幽子は冷静に説明を続けた。
「動物霊が取り憑いたりすると、たまにそういう現象が起こることがあるんだ。
噛みあとぐらいならまだしも、身体の一部が変質していたりすると、かなり厄介なことになるんだよ。
さっき彼の後ろにあんなヤバいやつが見えたからな、あれが浸食して変質まで起こっていたら後々厄介だから確認しておかないとな。」
「えっ…、変質?、変質って何?」と興味を持ってさらに尋ねると、幽子は木村さんの身体を淡々と確認しながら、自分の質問に丁寧に答えてくれた。
「そうだなぁ……?君も少しは聞いたことがあるだろう。犬や狐、猫のような動物は、まず顔つきが変わり始め、次に爪が異様な形に伸びたり、鳴き声が出るようになったりする。
そして、浸食が進むと、牙が生えたり体毛が異常になったりすることがあって、これはかなりヤバい状態だよ。」
「さらに、蛇も同様の現象が見られるが、蛇の場合は体毛の代わりに皮膚が鱗のように変わることがあるそうだ。
流石に私もそれを見たことはないけれどね。」
幽子は続けて、「本来、魂の情報が身体に反映されるものだから、姿形が違う動物は人間の中にはなかなか入れないんだ。
しかし、時には身体の中に入ってこられてしまうことがあって、その場合、入ってきた魂の情報に浸食されて、身体が変質してしまうことがあるらしいんだ。」と、幽子は知識と経験に基づいた説明をしてくれた。
そんな話をしていると、幽子が手を止めて、少し考え込むように「ふーん!おばあちゃんの言ってた通りだなぁ…、これならすぐに終わりそうだな」とポツリと呟いた。
どうやら浸食や変質は確認できなかった様子で、彼女の表情には安堵の色が浮かんでいた。
そして、「じゃあ、さっさと終わらせてしまおう」と言って、ポケットから御札を取り出し、木村さんに貼ろうとした瞬間!
「うああああああぁ!」
と、断末魔のような叫び声を上げながら縛られた手足をバタつかせ暴れ出した。
予期せぬ出来事に、周囲で自分たちの様子を見守っていた部員たちが「うぁ!」と驚きの声を上げ、緊張感が一瞬にして高まった。
ただ、幽子だけは全く動じず、冷静に「はぁー」と一つため息をついてから、「しんいちーぃ、さっき言った通りにやってくれ」と、木村さんを指差しして自分に指示をしてきた。
その声には、まるで彼女がこの状況をすでに予測していたかのような余裕が感じられた。
自分は「えっ!本当にやって良いの?」と確認を取ると、幽子は一瞬こちらを見つめ、すぐに「あぁ、ただの最後の悪足掻きみたいなものだ。このままだと御札が置けないから、早くやってくれ」と、急かすような口調で指示をしてきた。