六話目 病室
「……白血病?」
その言葉を耳にした瞬間、自分の心臓が一度、大きく跳ねた。
木内くんも一瞬、聞き間違いかと思ったのか、信じられないといった表情で幽子に問い返す。
「今……白血病って言ったの?」
「木内くん、知らなかったの?」
思わず自分が口を挟むと、木内くんは激しく首を横に振った。
「知らない! そんなの……初めて聞いたよ……!」
混乱気味にそう言った彼の声が、微かに震えているのが分かった。
自分も信じられない思いで、幽子に視線を向ける。
「……幽子、それ本当に? 幽子の勘違いとかじゃなくて……?」
だが、幽子は落ち着いた表情のまま、真っすぐこちらを見てこう答えた。
「間違いない。私は……本人から直接、聞いたんだ。」
その言葉は重く、迷いのないものだった。
呆然とする自分たちの前で、幽子は少し視線を落とし、ぽつりと語り始めた。
「健吾と再会したのは……中学に入ってすぐの頃だった。ちょうど、おばあちゃんが一週間ほど入院してな。その時に、偶然、健吾と出会ったんだ。」
中学一年……あれは確か春先だっただろうか。幽子の祖母が手術か何かで短期入院したと聞いてはいた。石を取るだけの軽いものだったはずで、入院中は毎日のように幽子が家に来て夕飯を一緒に食べていたことを、自分もかすかに覚えている。
だが、彼女がその入院の際に、野原健吾くんと再会していたとは、今の今まで一度も聞かされたことがなかった。
木内くんは動揺を隠しもせず、目を丸くして、幽子の話の続きをせがむ。
「それで……?」
「うん。久しぶりに見た健吾は、ずいぶん変わってた。四年のとき以来だったかな……背も高くなっていたし、風貌も大人びていて。元々痩せ型だったけど、さらに細くなったように見えた。
点滴のスタンドを引いていて、髪の毛もなかったから、抗がん剤の治療をしているのは一目でわかったよ。」
幽子は少し遠くを見るような目をして、続ける。
「でもな、彼は私を見るなり『セイラさん?』って、笑いながら声をかけてきたんだ。
私が怪訝そうな顔をしていると、『ほら、健吾!覚えてない? 小四のとき一緒だった野原健吾!』って、自分で名乗ってきたんだ。」
その瞬間の情景が浮かんだ気がした。
点滴のスタンドを引きながら、懐かしそうに微笑む想像上の野原健吾の姿が。
「転校したって聞いていたから、最初は私も驚いてな。でも、病室まで案内されて、少し話をしたんだ。
健吾の話では、白血病のことはすぐにご両親から知らされたらしい。しばらく学校には戻れないって。でも、クラスの皆には心配かけたくないって本人が強く言って、見舞いに来た先生にも、病気のことは内緒にしてほしいと頼んだらしいよ。」
「じゃあ……転校っていうのは?」
自分が問いかけると、幽子は小さく首を傾げた。
「多分、転院の話が転校って形で伝わったんじゃないかな。誰かが聞き間違えて、それが噂になったんだろう。」
隣で話を聞いていた木内くんは、悔しそうに顔を歪めていた。
きっと、知らされなかったことに傷ついているのだろう。健吾とは、仲の良い友人だったと聞いていた。彼の苦しみを知っていれば、何かできたかもしれない……そんな思いが滲んでいた。
「それで……野原くんの病状って、どうだったの?」
自分が恐る恐る尋ねると、幽子は腕を組みながら苦い表情を浮かべた。
「うん……あまり良くはなかったと思う。入退院を繰り返していたし、治療も相当きつかったみたいだな。抗がん剤の副作用で体がだるいとか、髪の毛が抜けるのも嫌だって、ぼやいてたよ。」
だが、幽子は少しだけ笑って、こう続けた。
「それでもな、健吾は前向きだったぞ。『院内学級』って、病院の中にある小さな学校みたいなところに通ってて、『いつか元気になって、みんなをびっくりさせたい』って言ってた。
別れ際には、『入院生活暇すぎるから、また見舞いに来てくれ』って言われてさ。それからは、月に一回くらいだけど、様子を見に行ってたんだ。」
その言葉に、木内くんは何も言えず、ただ黙って俯いていた。
野原くんが、そんなに強く、前向きに病と向き合っていたこと。木内くん知らないところで、彼が静かに戦っていたこと。
そのすべてが、今になってようやく明かされようとしていた。
いい話だった。
野原くんのことを自分はよく知らない。けれど、幽子が語ったその記憶の断片には、胸を打たれる何かがあった。
病と闘いながらも前を向いていた少年。その姿は鮮明に想像でき、まるで昔から知っていた人物のように感じられた。
……だが。
それと同時に、心の奥底からじわじわと、嫌な考えが這い上がってくるのを感じていた。
言葉にしていいのか、一瞬迷う。
けれど、胸の中に渦巻くざわつきは、どうしても無視できなかった。
「ねぇ……幽子」
自分は意を決して、口を開いた。
「野原くんって……その後、どうなったの? もしかして……『亡くなった』とか……? あのドッペルゲンガーって、野原くんの幽霊だったり、しないよな……?」
言葉を選びながら問いかけると、幽子は一瞬、眉をひそめ、鋭くこちらを見据えた。
「しんいち。不吉なことを言うなよ。」
ぴしゃりとした口調だったが、そこには怒りというより、野原健吾という存在への強い思いが込められているようだった。
「健吾は……いまも生きてる!」
その言葉に、思わず肩の力が抜けた。
「去年だったかな。骨髄移植を受けて、無事に退院したって話だ。直接会ってはいないけど、高校に上がったばかりの頃に手紙が届いてな。もう少し体調が良くなったら、定時制の高校に通うつもりだって書いてあった。元気な姿を見せに行くから、楽しみにしててくれって……」
隣で聞いていた木内くんも、安心したように息を吐きながら、天井を仰いだ。
「良かった……」
その声に、自分も頷きながら同じ思いを抱いていた。
……だが。
胸の奥に、まだひとつだけ大きな疑問が残っていた。
事件の核心ともいえる問い。そう、あの『野原健吾のドッペルゲンガー』について、だ。
「幽子……じゃあ、さっき消えたっていう健吾くんのドッペルゲンガーって、いったい……?」
自分の声は、自然と探るようなトーンになっていた。
幽子は少し顎に手を当て、何かを思い出すようにゆっくりと語り出した。
「……それなんだがな。私がしんいちから最初に依頼の話を聞いたときに、真っ先に思い浮かべたのが、ドッペルゲンガーについてのある『噂』だったんだ。」
「噂……?」
自分の記憶を手繰り寄せながら、その言葉に引っかかる何かを探る。そして、ふと、ある一説が脳裏に浮かんだ。
「……『死神説』のことか?」
そう呟くと、幽子は静かに頷いた。
ドッペルゲンガーには様々な説が存在する。
その中の一つに『死期が近い人間の前に現れる』という不吉な言い伝えだった。
木内くんは、その話を知らなかったらしく、不安げな表情を浮かべた。
自分がその仮説について説明すると、彼の顔は徐々に青ざめていった。
幽子は続ける。
「……私も、最初はそればかり考えてしまってな。授業中もずっと、どうしたらいいか悩んでいた。健吾の携帯番号は知らないし、連絡も取れなかった。でも、手紙に書かれていた住所は携帯電話に登録してあったから、直接会いに行こうかと、本気で思ってた。」
言いながら、幽子は悩みを告白するように話を続ける。
「ただ……話だけじゃ、本人の可能性も捨てきれなかったから、だから、しんいちには何も言わず、反応を見ていたんだ。……悪かったな、巻き込んで。」
自分は思わず苦笑いを浮かべた。あの時の奇妙な頼み事……すべては、逃げるドッペルゲンガーをどうにか捕まえるための『仕掛け』だったのだ。
「最初、お前が動揺したときは少し焦ったけど……。まあ、その後は上手く合わせてくれてたし。正直、助かったよ。」
幽子は軽く笑って、肩をすくめた。
その言葉に、自分の中でひとつづつのピースが、カチリと音を立ててはまったような気がした。
これまで噛み合わなかった謎の断片が、ひとつの形を成し始めていた。
けれど、まだ残っている。
最後のピース……『アレ』の正体が。
「それで……結局、あれはいったい……?」
自分は固唾を飲み、その問いを口にした。
だが、幽子は目を伏せ、小さく首を振った。
「分からない……」
「え……?」
一瞬、耳を疑う。
「分からないって……どういうこと? じゃあ、幽霊でも、死神でもなかったってこと?」
問い返すと、幽子は静かに、けれど確かに頷いた。
その頷きが、逆に不気味だった。
あの存在『野原健吾のドッペルゲンガー』とは、いったい何だったのか。
その答えは、未だ闇の中だった。




