四話目 見えない『彼』
自分が幽子から受けた指示は、たった二つだった。
一つは、黙って成り行きを見届けること。
そしてもう一つは……、何があっても、動揺せず、幽子の合図を待つこと。
ただそれだけのことが、こんなにも重く、息苦しいとは思わなかった。
最初に木内くんを見た瞬間、自分は思わず声をあげそうになった。
彼は、誰もいないはずの椅子に向かって、楽しげに話しかけていたのだ。
その横で、幽子もまるで当然のように頷きながら、空の椅子へ語りかけている。
寒気が背を這い上がってくるのを感じた。
その場に漂う空気が、どこか歪んでいた。音も、光も、すべてが濁ったように見える。
二人の会話に合わせて、まるでそこに『誰か』がいるように、沈黙すらも呼吸をしている気がした。
……いや、確かに『何か』が、そこにいるのだ。
木内くんと幽子の視線、間、反応、すべてが、それを物語っている。
名前は分かっている。
野原健吾……そう、幽子と木内くんがそう呼んでいた『モノ』がそこにいるのだ。
けれど、自分の目には何も映らない。ただ、空っぽの椅子があるだけだ。
椅子の背もたれに、何かがじっと座ってこちらを見ているような気がして、
自分は思わず拳を握りしめた。平静を装うだけで、全身の神経が軋んでいた。
そして幽子が霊視をしているときも異様だった。
彼女は何もない空間に手を伸ばしていつものように霊視を始めてきた。
木内くんに話しかけられた時は、かなり動揺して声が上ずらないか心配だった。
幽子の霊視が終わり、ついに幽子がこちらを見て言い放った。
「なあ、木内くん……お前、いったい何を連れてきたんだ? 俺、ずっと何も見えないんだよ……」
自分の声は、気づかぬうちに震えていた。無意識のうちに息を呑み、喉の奥がひりつく。目の前に広がる、ただの空間……そこに漂う異様な『気配』に、背筋がぞわりと粟立った。
木内くんは、最初きょとんとした表情を浮かべた。自分が何を言っているのか理解できないといった顔つきだった。
「はっ?」と疑いの混じった声を漏らす。だがその一瞬、彼の顔色は見る間に変わった。
目を見開き、口を半開きのまま凍りついたように固まる。そして、何もないはずの空間に向かっておそるおそる視線を這わせると、その体は細かく震え始めた。
堪らず、幽子の方へ視線を向けた。
「どうしたの、彼……?」
小声で尋ねると、幽子は肩をすくめ、妙に楽しそうに微笑んだ。
「ううん、今な。偽物の健吾が消え始めてるんだ。もう、だいぶ薄くなってるぞ。」
彼女は唇の端クッと上げ楽しそうに不敵に笑っていた。状況の異常さに頬が引き攣る。
彼女にとっては珍しくもなんともない光景なのかもしれないが、こちらとしてはただ想像するだけで冷や汗が滲むほどだ。
「ほら、消えるぞ……」
その言葉は、自分のすぐ耳元でそっと囁かれた。静かで、湿った声。その声に反応するように、木内くんが「わっ!」と声を上げ、勢いよく立ち上がった。
椅子がギィッと不快な音を立てて引き摺られる。周囲の客たちの視線が、一斉に彼に注がれた。
静まり返った店内の空気が一瞬、ぴんと張り詰める。
そんな中、幽子だけがどこか飄々としたままだ。頬杖をついたまま、軽く眉を上げて木内くんに言った。
「木内、落ち着け。大丈夫だから、席につけ!」
幽子が周囲の視線を気にしながら、声をひそめて言った。
その声に、木内くんはようやく我に返ったようだった。「ああ……ごめん……」と小さく呟くと、彼は隣の席から微妙に距離を取るように、慎重に腰を下ろした。
だが、座った途端、彼の目は再び大きく見開かれた。
「なに、これ……?どういうことなんだよ!」
混乱した様子で幽子を見つめ、問いただす。
「お前、言ってたよな。『健吾のドッペルゲンガーが出る』って。今のがそうなんだ? あれが……健吾のドッペルゲンガーだったんだよ?」
幽子の言葉を聞いて木内くんは口をポカンと開けて信じられないと目で訴えているようだ。
だが、そんな彼を前に、幽子はいたずらっぽく口元を緩め、ニヤニヤと視線を返す。
『ビックリしたか!』まるでそう言いたげに……
……ドッペルゲンガー?
その言葉が脳裏をかすめた瞬間、自分は思わず息を呑んでいた。
信じがたい。だが、それが現実として目の前に突きつけられた今、頭がうまく処理できない。
ドッペルゲンガー……普通なら『瓜二つの分身』というイメージが浮かぶ。けれど、今の『それ』には、どこか釈然としない違和感がまとわりついていた。
そもそも自分には、見えていなかったのだ。
そこにいたはずの『誰か』が、自分の視界からごっそり抜け落ちている。
だが木内くんには、確かに見えていたという。
幽子は「健吾のドッペルゲンガー』だと言っていたが、あれは幽霊とは違うのか?それとも……別の何か?
そもそも、『野原健吾』とは誰なのか?
その名を聞いた幽子も、まるで当然のように知っていたし、彼女は明らかに動揺もみせていた。
疑念が、じわじわと心の奥から染み出してくる。
「幽子……」
自分は静かに口を開いた。声は思ったよりも落ち着いていた。
「お前、いつから気づいてたんだ? 彼が……偽物だって。昼休みからずっと、様子が変だっただろ? あのときから、見抜いてたのか?」
まずは、そこをはっきりさせる必要があった。
この奇妙な出来事には、まだ分からないことがあまりにも多すぎる。
けれど、真実に迫るためには、まず幽子が『何を見ていたのか?』を知るしかない。
彼女の目に映っていたものこそが、この謎の鍵を握っているのだから。




