二話目 幽子の戸惑い
「……野原健吾のことか?」
幽子が、まるで時が止まったかのように、こちらをじっと見つめてきた。
「誰? 幽子、知ってるやつなのか?」
そう問いかけたが、彼女は返事をせず、顎に手を当てたまま視線をあちこち彷徨わせている。
深く思案しているのか、それとも動揺しているのか……。
掴みどころのないその仕草に、自分の胸の奥がじわりとざわめいた。
そのとき……
「キーンコーン、カーンコーン……」
昼休みの終わりを告げるチャイムが、廊下に反響する。
生徒たちのざわつく声と、足音が遠くから近づいてきた。
だが、幽子はその音にも反応せず、まるで別の世界にいるかのように立ち尽くしていた。
呼吸さえも忘れてしまったような横顔が、自分を不安にさせる。
「幽子……ねぇ、幽子!」
焦り混じりに声をかけると、彼女はハッとしたように肩を震わせ、こちらを見た。
「す、すまん……」
どこか遠くから戻ってきたような声音だった。
「……どうしたんだよ。とにかくチャイム鳴ったし、教室戻ろ?」
促すように声をかけると、幽子はわずかに遅れて頷いた。
「ああ……」
返ってきた声は、空っぽの返事のようで、彼女の心がまだ何かに囚われているのを感じさせた。
そしてその「何か」が、これから起こる出来事の始まりであるような気がしてならなかった
授業が始まっても、幽子の心は上の空で、机に頬杖をつき、遠くを見つめるような目でぼんやりとしている。静かな教室の中に、彼女の「うーん……」というかすかな声が、虫の羽音のように響いていた。
その声が口にするのは、ひとつの名前だった。
『野原健吾』
聞き覚えのない名だった。いや、確実に知らない。思い出そうとしても、記憶のどこにも引っかかってこない。
小学三年か、四年の頃……幽子が自分の小学校に転校してきたのは、ちょうどその時期だった。あの頃の彼女は、今よりも強い人見知りで、話しかけるのも躊躇うような雰囲気をまとっていた。そんな幽子の隣にいたのは、たった一人、自分だけだった筈だ。
あの頃の彼女に、果たして「知り合い」と呼べるような存在がいたのだろうか?
……なのに。
『野原』という苗字を聞いた瞬間、まるで当然のように『健吾』という名前を口にした。
どうして、その名前を即座に思い出した? それは、ただの記憶の断片か。それとも、もっと深い場所に眠る過去の痕跡か。
わからない。考えても、答えには届かない。ただ、思考の中に名前だけが、ぼんやりと残り続けた。
午後の授業は、そんな風にして、まるで時間だけが風に流されていくように、淡々と過ぎていった。
そして、何の答えも得られぬまま、放課後の鐘が鳴った。
教室には放課後の喧騒が戻っていた。椅子を引く音、カバンを閉める音、部活に向かう者たちの足音、そしてあちこちで弾ける笑い声。皆それぞれの放課後を歩み始めている。
そんな中、ひとり机に頬杖をついたまま動かなかった幽子が、ようやく意を決したようにこちらへ顔を向けた。
「しんいち……ちょっと、頼みごとがあるんだけど」
気だるげな声音と、横目でこちらをちらりと見てくるその様子には、どこかいつもの調子が戻りきっていないような違和感があった。
「……どうしたの?ずっと黙ってたけど。まあ、頼みごとなら聞くよ。」
軽く返したつもりだったが、幽子はその言葉を聞くと、頬杖を解き、姿勢を正して真っすぐにこちらを見据えた。
「今日の木内の件なんだけど……」
「ああ、あれね。って、大丈夫?嫌なら自分の方から断るけど。なんか、引っかかってるんだろ?」
こちらの言葉に、幽子は小さく首を振った。
「ううん。そういうのじゃないんだ。ただ、今日木内が来たとき、しんいちは黙ってて。少しだけでいい。成り行きを見守っててほしい。あとのことは、私に任せてくれないか。」
その瞳は冗談を言うときのそれではなかった。何かを決めた人間だけが持つ、固い意志のようなものが、静かに燃えていた。
「……ああ、わかった。理由は聞かないでおくよ。どうせ行けば分かるんだろ。」
幽子はふっと、少しだけ息を吐くように頷いた。
だが彼女は、そこで言葉を切らなかった。
「あと……もう一つだけ、お願いがある。」
その声色は先ほどまでとは違っていた。どこか躊躇いを含み、言葉を選ぶように口にされたその一言に、自分は思わず眉をひそめる。だが、何も言わずに静かに頷いた。
……そして今、自分と幽子は駅前のマクドナルドの二階、窓際の奥まった席に並んで座っていた。
時間は平日の午後三時を少し過ぎたところ。二階の店内は比較的空いており、周囲の席もまばらだ。学生の姿も少なく、聞こえるのはBGMと、店内にいるお客さんのかすかな喋り声だけ。
注文したのは飲み物だけで、目の前のテーブルには汗をかいたジンジャーエールと、まだ手をつけられていないアイスティーが並んでいる。
幽子はその手にストローを持ったまま、口をつけることもなく視線を宙に漂わせていた。どこか遠くを見るようなその眼差しには、緊張と不安が混ざっているのが分かった。
そのとき、不意にポケットの中のスマートフォンが震えた。
「ブーブー、ブーブー……」
振動音が静かな店内にわずかに響く。スマートフォンを取り出して画面を覗くと、そこには『木内』の文字が表示されていた。自分は画面をスライドし、耳元へと持っていく。
「もしもし、木内くん? うん……ああ、もう着いたんだね。こっちは二階の奥の席、幽子と一緒にいるよ。……うん、分かった。」
通話を終えるとスマートフォンをテーブルに置き、幽子に向かって声をかけた。
「今、店の前に着いたって。」
幽子は短く「分かった」とだけ答えると、背筋を伸ばし、大きく深呼吸をした。その表情から、心の準備を整えようとしているのが伝わってくる。
自分は視線を階段の方へ移す。
……ほどなくして、階段を上がってくる人影が見えた。
木内くんだった。目が合った瞬間、彼は軽く手を上げてこちらに笑みを浮かべる。
このあと、どんな話が始まるのか……、自分は無意識に息を呑んでいた。




