十一幕目 学芸会
学芸会が始まった。
教室の前に全員が整列し、集まった保護者たちの視線を受けながら、委員長が堂々と挨拶をしている。
僕の母は……、いた。
後ろの方でカメラを構える母の姿を見つけた。彼女は、いつものように笑顔を浮かべながら、シャッターを切る準備をしている。少し恥ずかしい気持ちが胸をよぎるが、同時にその温かい視線が心強くも感じられた。母は、僕の大切な瞬間を逃さずに記録しようとしているのだ。
ふと、僕はセイラの祖母、月静おばちゃんのことを思い出した。彼女は「セイラを緊張させたくないから、ギリギリに来る」と言っていた。まだ姿は見えないが、きっと彼女もセイラの晴れ舞台を見守るために、準備をしているのだろう。そんな思いを抱きながら、僕は「大丈夫!大丈夫!」と自分自身を鼓舞していた。
廊下の静けさの中、僕たちのグループは後半の演目を控えていた。結衣ちゃんのグループは前半に登場する。彼女の緊張した表情が、少しだけ心配を呼び起こす。「頑張って!」と小声で声援を送り、彼女の背中を押した。結衣ちゃんは微笑みを返し、舞台へと向かっていった。
前半のグループが演目を始めると、廊下には少し緊張感が漂っていた。大きな声を出すわけにはいかないので、僕たちは小声で雑談を交わしたり、前半の演目を見学したり、階段の踊り場でセリフを確認したりと、それぞれの方法で心を落ち着けていた。
僕は、もう一度台本を手に取り、段取りの確認をしていた。僕たちが演じる「ワガママ姫」は三部構成になっていて、それぞれの場面がどのように繋がっていくのか、頭の中で描きながら確認をしていった。
第一幕は物語の最初からお姫様が転んで亡くなってしまうまでになっている。
お姫様の大袈裟なくらいのワガママを強調した演技と、それに翻弄される執事や使用人達のドタバタ劇がメインになる。
そしてナレーションを挟みながら、素早く場面転換を行い、第二幕はお姫様が幽霊になってからだ。
一幕目のドタバタ劇とは違い、お姫様がワガママを言っても誰も言うことを聞いてくれない悲壮感を出せるのかが胆である。
そして僕の出番はこの辺りになる。
「お姫さま?もうそんなものは関係ないね。私たちは幽霊なんだ!自由な私たちにはそんな威厳は通用しないよ。」と言うのが僕のセリフである。
そしてセイラの出番はこの少し後だ。
秀之が演じる少年の幽霊が、お姫様を案内してセイラが演じる「幽子」と言う幽霊と出会う場面になる。
セイラは箱の中から勢い良く現れて「バーァ」とお姫様を脅かすが、お姫様はそれに動じず「なによ!怖くないじゃないの!」と言って会場の笑いを誘う場面になる。
その後、セイラが演じる幽子がお姫様の日頃の行いを諌め、「今ならまだやり直せる、早く身体に帰るんだ」とお姫様に告げるまでが第二幕になる。
そして、もう一度ナレーションを挟みながら場面転換をし、最後の幕は、お姫様と幽子が別れのシーンとなり、生き返ったお姫様が心を入れ換えて、使用人たちに謝って大団円となる。と言うのが一連の流れになっている。
僕の役目は、ただの幽霊役にとどまらない。舞台のセッティングにも参加しなければならないのだ。台本を手に取り、練習の時のイメージを何度も思い返しながら、セリフや舞台のセッティングの手順を頭に叩き込んでいた。
その時、教室の方から結衣ちゃんの声が聞こえた。どうやら彼女の出番らしい。思わず教室を覗き込むと、普段は少し引っ込み思案な彼女が、今は舞台の上で生き生きと輝いている姿が目に飛び込んできた。可愛らしい容姿の彼女は、この舞台で重要な役を任されている。
彼女がどれほど練習を重ねてきたのか、想像するだけで胸が高鳴る。長いセリフを一言一言、確かな声で紡ぎ出し、堂々とした演技で観客の視線を引き寄せていた。
まるで、彼女自身がその場面の中心に立っているかのように。彼女の姿を見つめながら、僕もまた、「彼女に負けないように頑張らないと」と決意を固めていた。
その時、僕はセイラを見つけた。彼女の背中越しに、「ねぇ!ねぇ!セイラ!結衣ちゃん、凄いよ。」と小声で声をかけたが、彼女は振り向きもせず、ただ立ち尽くしていた。
「あれ?聞こえなかったのかな?」と不安になり、「セイラ?」ともう一度呼びかけると、ようやく彼女は振り向いた。
その瞬間、僕の心臓が一瞬止まった。
彼女の顔は真っ青で、まるで幽霊のように瞳が死んでいた。
思わず「幽霊のメイクのせいなのか?」と考えたが、明らかに彼女の様子はおかしかった。そんな彼女が口を開いた。
「ぎもぢわるい……」
その言葉に、僕は思わず「うんっ!」と笑いをこらえた。幽霊のメイクのせいではなかった。セイラは本当に気分が悪そうだったのだ。
「大丈夫?」と心配する僕に、セイラはゆっくりと事情を話し始めた。その言葉は、まるで「油断大敵」という警告のように響いた。
彼女の話によれば、午前中の練習は何の問題もなかったという。むしろ、練習は順調に進み、朝の緊張感も薄れて安心していた……いや、油断していたのだ。
すっかり気を緩めたセイラは、午後のためにエネルギーを蓄えようと、僕が差し出したおかずをペロリと平らげてしまった。それが、彼女にとっての誤算だった。
お昼休みが始まり、保護者たちの姿が見え始めると、彼女の緊張感は次第に高まっていった。学芸会が始まる前、教室の前に整列しているとき、彼女の緊張はピークに達した。食べ過ぎた給食の影響もあって、気持ちが悪くなっているという。
僕は心の中で「しまった!」と舌打ちした。油断していたのはセイラだけではなかった。僕もまた、彼女のことを忘れ、安心しきっていたのだ。
順調に進んだ最後の練習、給食を美味しそうに食べるセイラの姿を見て、僕は安心していた。しかし、午前中の練習がうまくいかなかったことで、自分のことで頭がいっぱいになり、すっかり彼女のことを忘れてしまっていたのだ。
さらにこの状況もまた、不味かった。いっそ前半に演じてしまえば、緊張の時間も短くて済んだだろう。待っているこの時間が、セイラを少しずつ蝕んでいくのを感じた。
完全に見過ごしていた。セイラの事情を知っている先生に話せば、きっと劇の順番くらいどうにでもなったはずだ。しかし、過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がない。今はセイラのことを考えなければならなかった。
「セイラ、大丈夫?」と声をかけるものの、彼女の状況は変わらない。彼女の表情はさらに青くなり、このままでは劇が始まる前に本当に幽霊になってしまいそうだ。
まだ時間はある。僕は「保健室で横になってくれば?」と提案したが、セイラは「ぞんな、ごとしたら、わたしはにどと、おぎてこれない。」と片言の日本語で返してきた。
その姿を見て思わず笑い……いや、心配が募った。すると、僕たちのやり取りを見ていた同じグループの女の子が声をかけてきたのだ。
彼女に事情を話すと、彼女は驚いた様子で「えっ!大変、取りあえず階段のところで座って休んでて、私お水持って来るよ。」と言い残し、水道へと走り去った。
僕はセイラを連れて階段のところに座らせると、彼女はすぐにお水を持って駆けつけてきた。彼女の手には冷たい水の入ったコップがしっかりと握られている。すると、他の女の子たちもセイラの様子に気づいたのか、次々と集まってきた。「セイラさん、どうしたの?」、「大丈夫?」と心配の声が飛び交う。
セイラはコップを受け取ると、一気に水を飲み干し、「フゥ」と息を吐いた。彼女は水を持ってきた女の子に「ありがとう」と感謝の言葉を伝え、その瞬間、彼女の顔には少し嬉しそうな表情が浮かんだ。
普段あまり喋らないセイラからの感謝の一言に、彼女は照れくさそうに微笑んでいた。周囲の女の子たちも、セイラを励ますように「緊張しなくて大丈夫だから」、「私も緊張してるけど頑張ろう」と声をかけていた。
学芸会を通じて、いつの間にか仲間意識や友達関係が芽生えていたのだろうか。集まった女の子たちの中で、強がりを見せるセイラの表情は少し楽しそうで、彼女の緊張をほぐしているように見えた。彼女の周りには、温かい友情の空気が漂っていた。
僕はセイラのことを彼女たちに任せ、前半の劇の様子を見に行った。舞台は中盤の後半に差し掛かっているようで、まだ少し余裕がある。残りの時間でセイラの緊張が解けることを祈りながら、僕は劇に目を凝らしていた。
やがて後半に入ったタイミングで、僕はセイラたちの元に戻り、「ボチボチ出番になるよ。」と声をかけた。セイラはまだ緊張している様子だったが、顔色は少し戻り、先ほどよりも良くなっているように見えた。
「ちょ、ちょっとトイレに行って来る。」彼女はそう言い残し、教室の隣にあるトイレへと急いで入っていった。
「大丈夫かなぁ?」と心配が胸をよぎる。頭の中には「このまま、トイレに立て込もって出て来ないのでは?」という嫌な想像が浮かんでいた。
そう思うと、トイレを待つわずかな時間が異常に長く感じられた。僕の視線はキョロキョロと周囲を探り、足は自然と「パタパタパタ」とリズムを刻んでいた。
少し長いのではと思っていると、教室の方から歓声が上がった。前半の劇が終了した合図だ。
挨拶を済ませた、前半のグループが続々と教室から引き上げてくる。
5分程の休憩を挟み今度は僕たちの出番だ。
セイラはまだトイレから出て来ない。僕は自分の想像が現実になるのではないかと不安になり、背筋に嫌な汗が流れていった。
前半のグループと入れ替わるように、僕たちの舞台の準備が手早く行われていく。僕は未だ現れないセイラの事で頭がいっぱいだった。
そして廊下に一旦出ると、そこにセイラの姿を見つけた。僕は「はーーぁ」と安堵のため息をつき、すぐに彼女に声をかけた。「セイラ、セイラ!」と呼びかけるが、彼女は振り向きもせず、全く無反応だった。
僕は嫌な予感が胸をよぎり、今度は彼女の肩を叩いて「セイラ?」と声をかけた。
振り向いた彼女は、明るい笑顔を見せて「あら!私の事?なにか用かしら。」と答えた。




