十幕目 緊張の当日
学芸会の当日、朝の光が薄曇りの空から漏れ、僕の心には不安が渦巻いていた。昨夜はほとんど眠れず、目を閉じてもセイラのことが頭から離れなかった。彼女のことが心配でたまらなかったのだ。
前日の彼女は、明らかに緊張していた。平静を装っていたが、長い付き合いの僕にはその微妙な変化が見逃せなかった。歩き方もどこかぎこちなく、授業中には「ハァ」小さくため息をついていた。そして、何よりもその日の給食をおかわりしなかったことが、僕の心に不安の影を落とした。
普段のセイラは、給食をモグモグと美味しそうに食べていて、僕が楽しみにしていたオカズを奪おうとするほどの食欲旺盛な女の子だ。
だが、その日は「ちょっと食欲が…」と呟き、箸が進まなかった。いつもなら皿を舐めるように綺麗に食べる彼女が、少し残してしまったのだ。
これはやはりおかしい……。去年の演武会の悲劇が脳裏に浮かび、僕はいてもたってもいられず、セイラに声をかけた。「緊張してない、大丈夫?」と。すると彼女は、「全然緊張してないぞ、なにを言ってる?アハハハ」と乾いた笑いを返してきた。
その瞬間、僕の心に危機感が走った。これはマズイと思った僕は、結衣ちゃんにも助けを求め、二人で何とかセイラの緊張を解こうと必死になっていた。
彼女を褒め称え、学校の帰りにはなけなしのお小遣いでセイラに奢ってやった。打てる手は取りあえず打ってみたものの、セイラの顔を見るまではその不安は消えなかった。
何せ、合気道の演武会の時とはまるで違う。あの時は代役がいた。しかし、今回は違った。セイラが演じる幽子役は、セリフも多く、物語の中でも重要な役どころだ。急に代役を立てることもできないし、彼女を欠かすわけにはいかない。そんな思いを抱えながら、僕は支度を整え、セイラの家へと向かった。
彼女の家の近くに差し掛かるにつれ、鼓動が高まり、今にも飛び出してしまいそうなほどだった。心臓の音が耳の奥で響き、まるで自分の気持ちを代弁するかのように、リズムを刻んでいた。周囲の景色はぼんやりとした印象を残し、目の前の道だけが鮮明に映っていた。
「大丈夫、きっと大丈夫」と自分に言い聞かせながら、足を進める。手のひらには冷や汗がにじみ、緊張感が全身を包み込む。彼女の家のドアが近づくにつれ、期待と不安が交錯し、心の中で葛藤が渦巻いていた。
ついにドアの前に立ち、心の中で「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながら、僕はセイラの家のドアを開けた。大きく深呼吸をして、「おはよう」と挨拶をする。心臓が「ドキドキ」と大きな鼓動を打ち、耳を澄ませて彼女の声を待った。
早く元気なセイラの声が聞こえないか、いつものセイラの顔を見せてくれないかと、ソワソワしながら待っていた。
その時、二階から「少し待ってくれ!」というセイラの声が響いた。心の中で期待が膨らむ。やがて、「待たせたな」と言いながら、彼女が二階から降りてくる。いつものセイラがそこにいた。少し緊張した面持ちだったが、彼女の目には確かな決意が宿っていた。
その瞬間、僕の心の中にあった不安が少しずつ和らいでいくのを感じた。
セイラは、明るい声で「おばあちゃん、いってきます!」と挨拶をし、元気よく家を出た。その姿を見つめる僕の心には、不安が渦巻いていた。
彼女の笑顔は一見、いつも通りのものだった。
しかし、目は一点を見つめ、まるでその場から離れているかのように動かなかった。目の下には、深いクマが浮かび上がり、彼女の緊張を物語っていた。さらに、彼女が着ている上着は裏返しで、ボタンもかけ違っている。まるで、心の中の混乱がそのまま外見に表れているかのようだった。
「余程緊張しているのだろう」と思った。
ただ、演武会の時とは違い、彼女は熱を出しているわけではない。行こうとする気持ちはあるのだ。そんな彼女を見て、僕は少しだけ安心した。連れて行ってしまえば、何とかなるのではないかと考えた。
「セイラ、その服、裏っ返しだよ。」と、僕は優しく指摘した。彼女は一瞬驚いたように目を見開き、次の瞬間、思わず笑い声をあげた。「アハハハ!わ、私としたことが、失敗、失敗。ぜ、全然、き、緊張なんてしてないぞ。」彼女は片言の日本語でそう言いながら、慌てて服を直し始めた。
その姿を見て、僕の心の中で不安がさらに膨れ上がっていくのを感じた。彼女の笑顔は明るいものの、その裏には隠された緊張が見え隠れしていた。彼女の手は少し震えていて、ボタンをかけ直す動作もどこかぎこちない。まるで、心の中の動揺が現れているかのように。
「本当に大丈夫なのかな?」と、僕は思わず心配になった。セイラの言葉とは裏腹に、彼女の目には不安の影がちらついていた。彼女がこの日を乗り越えられるのか、僕はその答えを見つけられずにいた。
彼女の隣を歩きながら、少しでもその不安を和らげられたらと思ったが、果たしてそれができるのか、自信が持てなかった。
ただ、学芸会の準備が始まると、僕の心の中にあった不安は徐々に薄れていった。
午後に行われるこの特別なイベントのため、午前中は教室の中を華やかに飾り付けたり、看板を取り付けたり、そして本番に向けた最後の練習が行われる。
準備が進むにつれて、セイラの表情は朝の緊張から解放され、落ち着いた雰囲気に変わっていった。お祭りのような賑やかな雰囲気が影響しているのか、普段はあまり他の生徒と話さないセイラも、この時ばかりは同じグループの女の子たちと楽しそうに会話を交わしていた。
その後、行われた最後の練習も順調に進んでいった。本番を想定したこの練習では、みんな役の衣装に着替えて挑むことになっていた。セイラもその一員として、華やかな着物に身を包んで姿を現した。
彼女が纏ったのは、少しグレーがかった黒い着物。赤い帯ひもが印象的で、彼女の美しい容姿と艶やかなロングヘアが相まって、まさに「カッコいい」という言葉がぴったりの素敵な姿だった。
周りの女子たちが「絶対にセイラさん、着物似合うよ。」と言っていた意味が、今ならよく分かる。
練習が始まると、セイラの様子はいつもと変わらなかった。彼女の冷静さは、まるで静かな湖面のように揺るがない。若干の緊張感は漂っていたが、それでも彼女は淡々と役をこなしていく。周囲の目を気にすることもなく、まるで自分の世界に浸っているかのようだった。
一方、僕の心は不安でいっぱいだった。緊張が体を締め付け、短いセリフさえも上手く言えず、まるで棒読みのようになってしまった。
温子先生からも「しんいちくん、落ち着いて、もう少し感情込めてね。」その言葉は、僕の心に重くのしかかり、セイラのことばかり気にしている場合ではなくなった。
そして給食の時間が訪れた。周囲の賑やかな声が響く中、僕は緊張から箸が進まなかった。目の前の美味しそうな料理が、まるで遠い世界のもののように感じられる。そんな僕とは対照的に、セイラはいつものようにモグモグと食べていた。彼女の表情は、まるでその瞬間を楽しんでいるかのように輝いていた。
「なんだ!食べないのか?」セイラが不思議そうに声をかけてきた。その声に、「ちょっと食欲が……、食べたきゃこれ食べる?」と、手付かずのオカズを彼女に渡す。すると、セイラは嬉しそうにそれを受け取り、また美味しそうに頬張った。
昨日までの僕とセイラの立場が、まるで逆転してしまったようだった。
お昼休みの鐘が鳴ると、いつもなら友達はそれぞれの遊びに散り散りと出かけていく。しかし、この日は違った。みんなは一斉に会場設営へと向かっていった。
廊下には机が並べられ、保護者用の椅子が整然と配置されていく。お昼休みも中頃を過ぎると、ちらほらと保護者たちが集まり始め、その姿が目に入る。緊張感がじわじわと高まっていくのを感じた。
僕は思わず「ふーーぅ」と大きく深呼吸をし、頬を「パンパン」と叩いた。「成るようになる!頑張ろう。」と自分に言い聞かせ、心の中に小さな炎を灯す。僕はみんなが集まる輪の中へと足を踏み入れていった。




