少し話せた日
次の日の昼休み。
教室では、いつものように数人ずつのグループに分かれて、おしゃべりや給食の準備が進んでいた。
リオナは、窓際の席で静かにパンを開けていた。
誰かを避けていたわけではない。でも、なんとなく“ひとりでいるのが自然”という空気が、彼女のまわりにはあった。
そのとき──
トレーを持った女の子が、少し迷ったように近づいてきた。
「ねえ、ここ、座っていい?」
リオナは驚いたように顔を上げる。
「……うん。いいよ」
座ったのは、クラスメイトのヒカリだった。話したことはあまりなかったが、いつも明るく、周りに人がいるタイプだった。
ヒカリは、パンをかじりながら、ふとリオナを見た。
「昨日の、国語の時間……なんか、かっこよかったよ」
「え……?」
「“わかんないけど、自分はこう思う”ってやつ。ああいうの、ちょっとすごいなって思った」
リオナは、思わず視線を下に落とした。
「……なんか、変だったかもって思ってた」
「ううん、全然。私も、あの詩、なんかさびしいけど、キライじゃなかったんだ。
でも、“正しいこと”言わなきゃって思って、言えなかった」
「……ヒカリちゃんも、さびしいって思った?」
「うん。リオナと、ちょっと似てたかも。……ね、また一緒に食べていい?」
リオナは、驚きながらも、小さく笑ってうなずいた。
「うん。……私も、昨日、ちょっとだけ“言えてよかった”って思ったから」
その笑顔は、ほんの少しだけど、昨日より軽く見えた。
──
放課後。靴箱でくつを履いていたとき、今度は別の男の子が声をかけてきた。
「なあ、リオナ。昨日の国語さ、“正解じゃないけど、正しいこと言ってた”って感じだった」
「え……?」
「よくわかんねーけど、俺、ああいうの好きかも。」
リオナは戸惑いながらも、少しだけ口元をゆるめた。
家に帰る道すがら、リオナは考えていた。
(言ってみないと、わかんないことって、あるんだな)
言葉を口にしたことで、誰かと少しだけ繋がった気がした。
それは、今まで“ちゃんとしてる”だけでは、届かなかった場所。
その夜、夕食後のリビング。
テレビの音が流れている。でも、リオナの手元には教科書とノート。
母が台所から声をかけた。
「ねえ、明日の準備、もう済んでるの?」
「……うん、だいたいは」
「“だいたい”じゃダメよ。ちゃんとまとめておかないと」
その「ちゃんと」が、胸にひっかかった。
「……わたしなりにやってるよ」
「それじゃ通じないの。“リオナなら”きちんとできるって、先生も言ってたし」
“リオナなら”。
何度も聞いてきた言葉だ。
それが褒められているのか、責められているのか、もうよくわからない。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
リオナは少しだけ声を落とした。
「わたしって、“ちゃんとしてなきゃ”いけないの?」
母は少し驚いたような顔をした。
「……どうしてそんなこと言うの?」
「“リオナなら”って、よく言うけど……それって、わたしが“いい子”じゃなくなったら、ダメってこと?」
「そんなつもりじゃないわよ。ただ……心配なの。ちゃんとしてれば、失敗もしないし、まわりからも嫌われないし……」
「……でも、それって、わたしのため?」
母は黙った。何かを言いかけて、言葉が出てこないようだった。
「ちゃんとしてる私しか、見てもらえないのって、苦しいよ」
リオナは言ったあと、少し息を吐いた。
言ってしまった。けれど、後悔はなかった。
母はゆっくり椅子に腰を下ろした。
テレビの音だけが続いていた。
しばらくして、母がぽつりとつぶやいた。
「……あなたが、ちゃんとしてるのが、当たり前になってたのかもね」
その声に、リオナはふと肩の力を抜いた。
翌朝の玄関前
いつものように制服のネクタイを直してくれる母の手が、少しだけ優しかった。
母と子のあいだに、わずかだけれど確かな変化が芽生えた朝だった。




