静かに揺れる日
次の日の朝、目覚ましの音より早く、リオナは目を覚ました。
カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
部屋はいつもと同じ。カレンダー、賞状、並んだぬいぐるみ。
でもどこか、ほんの少しだけ、空気が違っているような気がした。
ベッドから起き上がると、スマホが自動的に通知を表示した。
『本日のリズムサポート:今朝のリオナは②普通です。
気持ちが安定しています。今日も一日がんばろう』
「ちがうよ」
リオナは思った。
でも、口には出さなかった。
ただ、スマホの画面を指先でスッとなぞり、消した。
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学校では、表彰されたリオナのことを「えらいね」と何人かが言った。
先生はクラスのみんなに言った。
「リオナさんのように、“まわりを見て動ける子”になりましょう」
誰もがうなずいた。リオナも笑って、うなずいた。
“ちゃんと”していた。
でも、笑顔の奥で、声にならない小さなつぶやきが響いていた。
(「……わからないって、言っていいんだよ」)
サトル兄ちゃんのあの声が、なぜか今日、ずっと消えなかった。
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放課後。教室の隅にある「なんでもノート」がふと目に入った。
悩みごとでも、ひとこと日記でも、誰でも自由に書いていいノート。
いつもは閉じたままで、たまに“真面目な感想”が書かれているだけ。
誰もいない教室で、リオナは静かにそのノートを開いた。
数ページめくると、空白が続いた。
そのまっさらなページのすみっこに、リオナはシャープペンでこう書いた。
「よくわからない日もあります」
それだけだった。
名前は書かなかった。
書いてから、手が少しだけ震えていた。
でも、胸の奥のなにかが、ほんのすこしだけ、やわらかくなった気がした。
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帰り道。空は少し曇っていた。
ふいに、前を歩いていた下級生がリオナに気づきふりかえり、言った。
「リオナちゃん、さっきの放送、すごかったね! いいなぁ、心の模範児!」
リオナは、ふっと笑った。
“ちゃんとした笑顔”ではなく、ほんの少し斜めにずれた、本当の笑顔だった。
「……うん。でも、わたしも練習中なんだ」
「え? なにを?」
リオナは少しだけ考えて、こう言った。
「“わからないって言うこと”かな」
下級生はぽかんとしていたけど、
そのまま一緒に歩き始めた。
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その夜、またスマホが震えた。
『今日の気分を選んでください:①元気②普通③つかれた』
リオナはしばらく見つめて、
ゆっくりと指を動かした。
「③つかれた」
その直後、リビングからママの足音が近づいた。
でもリオナは、ふと画面を伏せた。
ママが部屋のドアを開けて言った。
「今日もおつかれさま。あしたは体操服忘れないでね。……ねえ、大丈夫だった?」
リオナは、少しだけ考えて、こう答えた。
「……うん。ちょっと、つかれたけど、大丈夫」
それは、“ちゃんとした”言葉ではなかった。
でも、胸の奥が少しだけ、ほっとした。
ママは、少し驚いたようにリオナを見つめた。
一瞬だけ言葉に詰まって、ほんの少しだけ声のトーンをゆるめて言った。
「……そっか。つかれたんだね」
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その夜、リオナは机の引き出しから、小さなメモ帳を取り出した。
誰にも見せたことのないページをひらき、鉛筆を持った。
「わたしは、“ちゃんとわかってる子”かもしれない。
でも、“ちゃんとわからない日”も、生きてる」
小さな字で、そう書いた。
その文字は、ふるえていたけれど、たしかにそこにあった。
夜は深く、しずかに流れていた。
でもリオナのなかでは、小さな光が、あたたかく灯っていた。




