正しくないというやさしさ
佐鳥悟は、かつて小学校の非常勤支援員だった。
教室に入ることは少なく、保健室や空き教室で、落ち着かない子供たちの話し相手になることが主な仕事だった。
「リオナちゃんは、ちゃんとしてるよね」
担任教師が言うと、彼は少しだけ首を傾げた。
「……でもね、あの子、たまに“ちゃんとしすぎてる”んです」
教師は怪訝な顔をした。
「それは、いいことじゃないの?」
悟は微笑んだだけだった。
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彼は、子どもたちがつぶやく「わからない」「イヤだ」「やりたくない」に、真正面から耳を傾けた。
何も正そうとしなかった。ただ「そう思ったんだね」と返した。
ある日、男の子が泣きながら教室を飛び出してきた。
保健室で彼は悟に聞いた。
「せんせい、大人はなんで“わからない”のを怒るの?」
悟は答えた。
「うーん……大人たちはね、“自分たちもほんとはわからなかった”ことを、忘れようとしてるんだよ」
「なんで?」
「わからないまま生きるのは、こわいから」
その子は、少し黙ってから言った。
「さとる先生は、こわくないの?」
悟は笑った。
「うん。正直、こわい。でも、こわいままでも、人とつながれるって思ってる」
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だがある日、校長に呼び出された。
「佐鳥先生、最近、一部の保護者から“指導方針が不明確”との声が上がっていましてね」
悟は静かに言った。
「私は、“導かない”ことを指針にしてきました」
「……困ります。それでは子供たちが“正しく育たない”」
「でも、“正しさ”は、誰のためにあるんですか?」
その会話を最後に、悟は契約を更新されなかった。
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町を出る日、彼は駅のベンチで、リオナの姿を見かけた。
彼女は遠くから彼を見つめ、そっと手を振った。
悟も、静かに手を振り返した。
リオナの表情は揺れていた。笑いたいのか、泣きたいのか、自分でもわからないような顔。
でも、それがいい――それが、ほんとうだ。
悟は心の中でつぶやいた。
「わからないままでいい。それを誰かが“いい”と言ってくれる世界を、いつか誰かが作るかもしれない」
列車が動き出す。
窓の外に残る小さな手のひらと、揺れるまなざしが、遠く遠く、滲んでいった。




