剥がし業
「はい。7秒経過離れてくださいー」
束元はその四十代ほどの男性の両肩を背後から極力波風を立てないかのごとくそっとナチュラルに手を添え、そのまま体重移動しようとした。
しかし、堅固にも動かない。男性はまるでこちらに反発するかのごとく眼前にいるアイドルの片手を両手でがっちりと掴んでいる。
(……またか……)
束元は吐息とともにほんの少しだけ踏ん張って強引にその男性をアイドルから引き剥がした。
すると、
「この野郎!」
すぐさま男性はこちらの両腕を振り払って憤怒に湧いたその表情を向けてきた。その場が凍りつく。
握られていたアイドルの子が喉を鳴らすのがわかった。
すぐさまその緊張を和らげるがごとくイベントの司会者がマイクを通して言った。
「ファンの皆様。握手は7秒までと決まっております。時間を超過しますと、他のお客様の迷惑になりますのでどうかよろしくお願いいたします」
会場内に響く声で全員の視線が自分に向けられて我に返ったのか、男性は顔を震わせながらなくなく怒りを鞘に収め、プイッと束元に対し背を向け逃げる様に会場から出て行った。
「はい、次の方。どうぞ」
白いジャンパーを着たスタッフにファンが促され、緊張が解けたように握手会は再開された。
(ったく。人の話を聞いてない奴ばっかだな。7秒経ったらスパッと離さんかい)
束元は心の中で愚痴ると再び競歩ランナーの審査員のごとく1秒足りとも見逃すまいとファンから射程距離内1mの位置についた。
列は、再び流れ始めた。
(……ん?)
ふと視線を感じ、後ろを振り返った。見ると、男性ファンばかりの人だかりの中に一際目立って若い少女がこちらをジッと見ている。高校生ぐらいだろうか。長く綺麗な黒髪を下ろしている。
(え? 俺?)
前に向き直ると、握手会が滞りなく進行している。もう一度振り返る。
やはり、自分だ。
瞬き一つせずこちらを凝視する光景はまるで絵画のようで不気味だ。
(何だよ? 俺の顔に何かついてんのか?)
束元は威嚇の意味も込めて少しだけ眉を顰めた。しかし少女の表情は微塵も動かない。
「おい!7秒経ってるぞ!早く引き離せよ!」
その怒号で前を向くと、次の順番を待っている眼鏡を掛けた中年太りの男性がこちらに怒りの表情を向けている。
(ちっ……うっせーな)
心の内で舌打ちを鳴らして急いでアイドルの両手を汗と一緒に握っている頭髪が薄いその男性を今度は少し苛立ちとともに強引に引き離した。
腕の中で抵抗し暴れる男を堅固に極めながら、束元は後ろを振り返る。
(……!)
少女の姿はない。探すように視線を泳がせるが見えるのはむさ苦しい男性の連なりだけだ。
片手間にファンの男性を取り押さえながら、束元は狐に包まれたような気分になる。
(……ひょっとして……幽霊……?)
仕事中に突拍子もないことが浮かび思わず首を軽く振る。
(……まさか……な)
「あなた、捲り屋でしょ」
仕事を終え、関係者出入り口から一歩踏み出したところで、背後から声が聞こえた。
その声で束元は思わず振り返った。
吃驚で目が丸くなる。
さきほど自分をじっと凝視していたあの少女だ。
間をおいて彼は思わず周囲を見渡し、誰もいないのを確認するとその少女に向き直った。
「何の話だ?」
すると、少女はいきなり足早に歩み寄って来た。
思わず身構え、警戒態勢になる。
彼女は眼前で止まると言った。
「どうしても、捲って欲しい奴がいるの」