七月二十七日(喉) そんな世界が来ると信じて
「人ハ支エ合イハシナイ。タダ喰イ物ニスルダケ。ナラバ……縋ッテミルノヲ辞メテミヨウ。最後クライハ……」
亜暦三四一年 七月二十七日(喉)
錆びついた扉の先を抜けると、パイプとチューブが作る人工の森が見えてきた。階段が既に立っていた事を忘れていたかの様に歪に避けて作られ続けたそれらはとてもアンバランスで、初見では構造すら理解できないで終わってしまうだろう、と素人目にだって分かる。少女は困惑しつつも、他の人間に倣ってその森を切り開いてった。周りの人間は時計塔の土捏ねの様に無表情で、疲れた印象を感じさせる。やっとの事で森を抜けた先は、“街”と呼べばいいのだろうか。四角いキューブが連なって隙間が無い程に積み上がり、目の前には上へ上へと続く階段があり、更にその上からは水か何かが滝の如く流れているのが見えた。「罪滅泉」の排出水かもしれない。視線を左に移していくとキューブに乗っかった小汚い家屋が目に入る。住宅地だろう。旅人が住んでいた場所も、確かこんな外観だったと思う。少女は自分が帰って来た事を確信すると、少し頬を緩め、周りの人間をかき分けて、いそいそと街へ入っていった。街はカラカラと生気の抜けた地表を少女に見せて、やはり垂れる血の海を見せた。
「澱み」
少女が固着した血を覗くと、水面に浮かんでいた瞳がニィっと笑いかけた。まだ、意識がある。しかし、いずれ自分がなんなのかさえ忘れてしまうだろう。いや、忘れてしまった方がいい。少女は水面に素足をかざすと、体重をかけて思い切り踏み抜いた。砕けた瞳はそれでも笑おうとしていた。
「……乱暴だね」
低い声に少女が振り向くと、血塗れの衣服を着た男が道路の隙間に何かを投げているのが見えた。
「貴方は」
「ネモト……もう、何処にでもいる亜徒だ」
男の衣服は血に塗れている点を除けば、とても小綺麗で装飾も拘られていたのが伺える。没落したのだろうか。ならば、極人機関の関係者だろうか。少女は警戒した。ネモトは少女に近付きながら、また何かを投げていた。……それは、肉機械の切り身だった。彼はそれをレンガ路に投げ続けている。
「以前、私はこの世界を救える気でいた。自分の使命に酔っていた……だが、結局自分で出来る事などなかった。本当に選ばれていた者は皆んな私の元から離れていってしまったよ……見ての通り、第三区画の崩壊と共に亜球は終わりを迎えるだろう。外ノ世界が我々を生む際に決めていた取り決め通りに……何をしていたのだろうな」
「何をしているの」
ネモトは少女を眺めて、それから足下に広がるレンガ路に目をやった。レンガ路にはビチャビチャと肉がちぎれた光景が広がっていた。
「ああ、これか……なに、単純な事だ。この下には私が慕っていた究極の肉機械「極人」が埋まっているんだ。私が埋めたんだよ」
「餌やり?」
「自分にだって、今までの行いに誇りを持つ部分はある。そういう破廉恥ではないよ。ただ、忘れたくないんだ。私の青春を……」
「よく分からないわ」
ネモトは「分からなくていい」と少女に話してレンガ路の上を避ける様にして、側端を歩き去った。少女はそんなネモトを見えなくなるまで眺めていると、人の群れが向かってくるのが見えた。人の群れは旗が生えた女性を中心にして円を作って、レンガ路の上を何の気なしに突っ切っていく。
「天女様!あちらが亜球崩壊の遠因を作った極人機関でございます!いかがなさいましょう!?」
「知っております。では良きように」
伽羅盤に居た旗付きだ。少女はすれ違う最中に、天女を盗み見た。深く、冷徹で、鋭く冷たい瞳をしている。以前見た時と同じに。少女はふと、自分はまだ外ノ世界に居るのではないか、と思い始めていた。極人が崩れ、民衆は新たな拠り所を手に入れた。人が崩れるのは、増えることができるからの一点に責を置くのは早計だったのではないか。人は弱く、依存的だ。ならば、そういう逃げこそが罪で、澱みなのではないか。
***
少女はなんとなく旗付きの方ではなく、ネモトの後を追ってみることにした。挫折した人間の方が信用できると思ったからだ。ネモトを追って街を歩く少女は、この街が中々に寂しい構造になっている事に気付いた。建造物はそれなりに形を保ってはいるが、まだまだ耐えられる崩れ方をしているとは言い難いのだ。それは居住家群にしても変わらず、唯々乱雑に積み上がった様相だった。
「私にまだなにか……」ネモトは不審そうに少女を見た。
「別に……目的地が同じだから。たまたまだよ」
「そうか」ネモトは階段に脚をかけて、それから思い直したように振り向いた。「君、何かしたい事あるかい?」
「ないよ」少女が答えるとネモトは「だろうな」と自嘲気味に答えた。
「でも、もうじき皆んな死んでしまうんだ。酔っ払い方ぐらい決めておくといい。私は本を書くよ。亜徒の葬列の様な排他的な本を、ね。私は誰かを悪と切り捨て、誰かに責任を任せる以外の生き方をしてこなかったし、それが私なのだ。最後までそうしておくよ」
「天女も民衆の酔っ払い方なの?気狂いも?」
ネモトは少女の質問に、また自嘲気味の笑いを投げかけた。
「そうかもしれない。思えばずっと我々は酔っ払っていた。正しい事をしてると信じて……マグロが逃げた理由も分かる。彼女は自分本位な奴だった。私もそうだ……ただ、自分の範囲の大きさが違った、それだけ」
ネモトは納得したように部屋へ引っ込むと、少女の方へ戻らなかった。少女は悩んだ後に、住宅街を出て罪滅泉に脚を向けようとした。が、そこで思考が止まった。少女の目には二輪屋が見えた。落ち着かない様子で店内を覗き込むと、見覚えのない店主が居眠りしているのが見えた。
「前の人は死んだのね」
少女は店に入り込むと、店内の光景に目を疑い、また納得した。あらゆる商品が野晒しにされて机の上に放置されていたからだ。
「全て元通りになるなんて、甘いのよね。皆んな、同じ事をしている。何にも変わらない」
少女がカウンターで店主を起こそうとした時、店の扉が勢いよく開いた。訪れたのは眼に力が籠った青年だった。自信はないが、頼りのならないという程でもない、そんな青年だった。青年は少女には気が付かずに、店内の二輪を見比べていた。
「貴方は……」
「うん?」青年は間の抜けた表情で少女を見返した。
「亜徒、旅人?……それとも」
少女は青年の衣服に付いた血を見て、少し後ずさった。青年は少女を不思議そうに見た後に、自分の衣服を見た。
「あぁ、ごめん。排出口の掃除をしてたんだ。あそこ、肉機械が多くてやんなっちゃうよね。……それより、君って女の子?罪滅泉には……」
「良いの。気にしないで……質問が先」
青年は気味が悪そうに少女を見て、それから話した。「……旅人だよ。何処にも行かないのに、旅人。ヘンだよね?」
「別に。その方がいいと思う。ずっと酔っ払ってた方が幸せだと思うし」
青年はますます不審そうな表情で少女を見た。
「それで、君は何かな?やっぱり、湯女なのかな。だったら、名前あるんでしょ?ちょっと羨ましいなぁ、やっぱり」
「湯女じゃないけど、名前ならあるよ。フタワ……多分、大切な人がくれた」
「へぇ。それじゃあ、大事にしなきゃね」
「ううん、いいの……私の物だから、私が好きに使う」そう言うと、少女は二輪屋を後にして、名前の無い物語に刻まれるのを拒んで、外へ出た。
──今度は、誰にも寄りかからないで生きてみよう。誰かに任せないで、生きてみよう。
人は一人では生きていけないが、それでもそうやって生きてみたい。
晴れた日には歌を歌って、雨の日にはただ耳を澄まして……そんな、世界が来ると信じてみたい。
【崩れゆく亜球とは対照的な程に少女の歌声は伸びやかだった。辺りの土捏ね達は顔を上げて、少女を見やり、少女もまた穴倉から見せた様な陰りのない笑みで答えた。そうやって亜球は終わり、また、誰かが始めるのだ……ソンナ妄執ノ都ヲ、ドウカ恐レズニ見テ欲シイ……】
ここまで読んでくださってありがとうございました。次回の事は次のオマケに書いてます。興味があったら、是非……。




