七月二十七日(腸) 温水プール
「我々ハ何処ニ行コウト満タサレナイノダ。ダカラ、納得シヨウトスル。コノ世界ヤ規範ハソウイウ納得デ出来テイル。ナラバ、解釈デ世界ハイカヨウニデモ……」
「或ル旅人ノ記録」
亜暦三三六年 七月二十七日(腸)
【私は正しかったのだろうか?はなから、ベストを尽くせていたのだろか?……疑念は尽きない。でもどうやら、もうどうにもならない事らしい。……第一、我々は何の為に生きていたのだろう?“増える”事は無いし、“創造”も起こさない。……外ノ世界を形作るのに必要だった「人間らしさ」を何一つとして持っていない。では、我々に何が出来たのだろうか?……私の遺言は一つだ。此処は虚構だ。決して理想の世界ではない。そこからは遠い、本当に遠い世界だ。きっと、とても趣味の悪い者が虫眼鏡を片手に、この亜球という虫籠を覗いている。そして、私にはそれから身を隠す術が無い。】
「来るぞ、旅人君」
マグロのライフルがグンと持ち上がって、錆びた重い扉に向けられる。それに合わせて私の呼吸は早くなって、やがて深い冷静をも呼び込んだ。
黒翼に重くのしかかる重力を感じながら私は前を見据える。奇妙な連帯感が私とマグロにはあった。それは、きっと……友達だからだろう。
やがて、扉がギシギシと音を立てて開くと……そこには一人の男が立って居た。男は戸惑った表情で我々を見ている。男の手には傷んだ日記が抱えられていて、そのページが外の風でパラパラと捲れ上がっていた。
「……君も旅人か。私もそうだ」私は呟く様に、訪れた男に言った。
「そ、そうだ……私は赤黒い道を探しに来たんだ!……此処がそうなのか!?」男は私と同じ様な背格好をしていた。
「そうだ。……君はどうやって此処を?」
私の質問に、男は「ヨツワから託された」と返事した。マグロは眼を伏せて「……特別な人間なんて居ないんだな」と呟いた。
男はそんな私達の顔色を窺っているのか、オロオロとしながらも言葉を紡ぐ。
「私は彼女に託された……人は常に納得する為に生きていると……亜球はちっぽけな人間牧場に過ぎないとも言っていた。そんな、彼女の望みは……」
「定型文の様な物さ。大した意味は無い」マグロはそう被せる様に言った。男は居所を無くした様にへたり込んだ。
私もそうしたかったのかもしれない。しかし、そうしてしまうと、次に立ち上がる意味を見出せなくなりそうで、出来なかった。
「……辛いな。何か自分に意味を見出せるかと思ったろうにな。我々は「役」のままでしかいられなかった。最後くらいはやりたい様に生きたいものだ」私がそう言うと、訪れた「旅人」は「ああ」と項垂れて引き返した。何処へ行くんだ、と聞いてみると男は「罪滅泉に。残してきた人が居るんだ」と言った。彼は私ほど亜球を捨ててはいなかったらしい。彼には滅びゆく世界で、共に過ごせる人が居る。少し羨ましい。
我先にと去ったあの男には悪いが、此処に残る選択をした私達の行動も大差無かった。無力感に包まれたまま待つこと数時間……やがて、黒翼に重い重力がかかるのを感じた。甘い、責務からの解放感。だがそれは心地よい類の感覚だった。何かから開放されたような妙な楽観さを胸にしながら眼を閉じると、短い生涯がビデオ映像の様に脳裏に流れた気がした。──十五ヶ年……後、五ヶ年。私は何をしていようか。
「ユキネ……気付くにはちょっと遅かったよ」
ほんの気まぐれで、思い出さなくても良かった役割に準じてしまった。あの時、何も感じなければ私は君といられたのに。
「フタワ……君の鼻が後、数センチ短ければ……私は私のままでいられたのかな」
私が目を伏せて翼を畳むと、指に何かが触れた。それは、マグロの指だった。とてもしなやかで、しわ一つない。若い女の指だ。
「マグロ……悪かったな。巻き込んでしまって」私がそう言うと、彼は鼻で笑って「君はその気持ちを罪と思って報いてくれ。俺もそうしよう」と言った。黒翼は消え、爪が皮膚と擦れ合う不快な音が消えると、私はそっと彼の手を包み返した。私とマグロの皮膚は徐々に赤らんでいき、皮膚を超えて肉の感触に近付いて澱んでいった。意識を失うまでそう時間はかからないだろう……二人の手は枝の様に伸びていき、旧式の人体精製機を積み込んでいく。まるで、繭を作っているかの様に。やがて私の身体から首が、その次に胴体が繊維と液となっていき……足先はとうに人体精製機の底に埋もれて見えなくなった。数時間もしない内に薄桃色の肉製ドームが赤黒い道中を満たしていった。中には人肌を少し過ぎた辺りの温水が並々に溜まっており、そのプールの中心ではフタワがうっすらと白んでいた意識を取り戻していた。
「アァ……痛イィ!?……?ウウン……帰ッテキタンダワ……私の行きたかった場所……とっても暖かい」
彼女が自らの手を広げては温水に曝し、歩みを進めると水面が揺れて心地のいい音を奏でた。彼女は、まるで自分の家であるかのように振舞って、その温水の中で丸くなった。そして、そのまま……眠りに就いていく。彼女の身体は水の中にゆっくりと沈んでいって、最後は満たされる水の中心で旅人の事を少し考えて、それから頬を緩ませた。──子宮の外では、ツツミらのクーデターが失敗に終わったという話が持ちきりとなっていた。
【しかし、フタワにとっては決して必要のない報せであった。いや、もはや他人を必要とする人は居ないのかもしれない……】
***
彼女は眠りに落ちながら今一度、この亜球の成り立ちを考えていた。外ノ世界が滅びて、その反省を胸に構築された新世界。そこがこの亜球。だが、その切り捨てる過程で捨ててきた“人間らしさ”が進化には必要だったらしい。我々は行き詰まってみせていたのだ。彼女の様に完璧な女性は失敗だったのだろう。だから、あえてデチューンした人間が罪滅泉に蔓延っていた。人ですら扱える様にする為に全てをデチューンした世界。それが亜球。……三三六年掛けて磨き上げたコントロールシステム。……対して、彼女はバグだ。新時代に切り捨てられた物を持っていた。
「言ってしまえば、それは希望と呼べるものかも知れない……しかし、そんな不確定で、旧時代な物は亜球にはもはや存在しなかった……」
……旅人には悪い事をしたと思う。真面目な彼にとって、少女は癌だったのだろう。だが、こうして彼女の望みに辿り着かせてみせた。フタワは夢見心地のままに、ユメを思い返していた。……幼い頃の夢だ。指が開いて……目が開いて、幼かった。一番、安らかだった頃の……。
【これから、ずっと……】
此方の小説はブログ、日記感覚で更新されていきます。
ですので、不定期かつ短い内容になるとは思いますが、どうかこの美しく醜い世界を覗いて行ってください。
遅れてゴメンね。後1、2話で終わるヨ!




