第57話「在過の罪と鎖 4」
これが、最初で最後の学校で起こした事件だった。
当然、担任の視線やクラスメイト。他学年からのうわさ話などはあっという間に広まる。それだけで終わればいいが、様々な児童が親に面白おかしく話をすれば、その親は近所や友達などに吹聴する。
ただでさえ、親の借金やヤクザっぽい人が取り立てに来ているなど、ろくでもない噂話が流れている状態で、家族が崩壊した可哀そうなお子さんが、学校で暴力事件をした。やはり、親が親なら子供もそうよねと、話が視覚聴覚共に攻撃してくる。
そんな状況下で、妹である友理奈の心身ともに悪化していることに気づいていなかった。学校のストレス,近所による視線,聞こえるように話をする噂話。苛立ちと不安に押しつぶされそうだった。
学校から帰宅すると二人の妹、友理奈とえりかが洗面台に立っていた。えりかが、友理奈なの背中をトントンっとリズムよく叩いている。重苦しい嗚咽が聞こえ、在過二人の様子を見る為に近づいた。
「どうした?」
「あ、在くん。ゆりちゃんが吐いちゃってる」
「大丈夫か? 熱はある?」
「ないよ。いつものことだから大丈夫。在くんは、あっちいっていいよ。うちがゆりちゃん見てるから」
「いや、でもなぁ。吐き気止めあったかな」
「げっほっゲッホ。いいから、向こう行ってよ! 」
「なんだよ、心配してるだけだろ」
「まぁまぁ。吐いてるの見られたくないんだよ」
少し苛立ちを感じながらも、台所に向かって椅子にカバンを置く。冷蔵庫からお茶を取り出し、半分ほど入れて再度洗面台に向かった。
「なぁ、軽くうがいしてお茶飲みな」
洗面器一面に、大量の嘔吐物が溜まっている。持っていたお茶をえりかに渡し、深い呼吸を繰り返す友理奈の背中をゆっくりさする。
「もう! やめてよ! どっか行ってって言ってるじゃん」
「ゆり連れて、台所のソファーでお茶飲ませてあげて」
「わかった。在くん、素手で触ったら汚いよ」
「大丈夫大丈夫」
洗面器が吐瀉物で汚れ、固形物などが排水口に溜まっているのを取り除く。本来なら、こんな時に母親なり父親が心配してくれるのかもしれない。在過は、家族がバラバラになった原因を把握しているが妹達は知らない。そう、知らないはずなのだが、ある日を境に母親も父親のことも口にしなくなっていた。
もしかしたら、小学生である妹達も、両親がバラバラになった理由を薄々理解しているのかもしれない。
「怒鳴ってごめんね」
「いいよ。お茶飲んでおいで」
えりかに支えられ、台所に向かっていく。
「……またか」
ここ最近ではあるが、頻繁に嘔吐しているのを目撃していた。その度に声を掛けようとしていたが、えりかに来るなと人差し指を口元にあて、静かにどっか行ってとジェスチャーしてくる。
嘔吐した数時間後には、なにもなかったように振舞う二人を見ることで深く気にすることがなかった。
洗面器を洗い流し終わると、在過は台所に向かう。
「あら、今日はどんなお魚さんが売っているのかしら?」
「ぴちぴちで綺麗なお魚ですのよ」
「ちーちゃん、このお魚食べる」
「はいはい、買っていきましょうね」
椅子に座りながら、お気に入りの可愛らしくデフォルメした動物人形でおままごとをしていた。30体近くの動物人形がテーブルに並べられ、それぞれ名前を付けている。
先程までの苦しそうな雰囲気はなく、姉妹と言うより友達と遊んでいるに近い。
「もう大丈夫なのか?」
「あら奥様、豚さんが訪ねて来ましたわ」
「あらあら、私達のお魚まで食べられてしまうわね。早く帰りましょう」
人形の頭を鷲掴みにして操作し【テクテクテク】と歩く動作の効果音を言いながら遊んでいる。
「誰が豚やんね!」
「「きゃ~~~襲われる」」
「へへへへ、その魚は俺が食ってやる」
「誰か~助けて~」
「こらぁ! 私はタヌキ警察です。豚野郎は死にます。いっしょに来てください」
「いや、こえーよ」
ボロボロに使い古した狸のぬいぐるみが登場し、可愛らしい豚のぬいぐるみを力任せに殴り倒す。タヌキを持ったえりかが、豚のぬいぐるみを【バーン】と言いながら弾き飛ばした。
「さぁ、怖い人はいなくなりました! 豚どっかいけー」
「はいはい」
椅子に置いたカバンを持って、在過は2階の自室に向かう。後ろから楽しそうな声が聞こえ、先程の嘔吐があったこともすっかり忘れていた。
しかし、在過にとってもう一つのトラウマが迫っていた。
18時を過ぎた頃、ふっと嘔吐して気分が悪くなっていた友理奈の状況を思い出していた。
部屋を出ると、妹達の部屋から咳が聞こえてくる。えりかの声が【頑張って、ゆりちゃん。在くん呼ぼ】と聞こえて来た。
「どうした? 何かあったか」
部屋の中を覗き込むと、床一面に嘔吐物で汚れていた。何度も嗚咽を漏らしながら、吐き出すものがなく白い泡をこぼれ落としている。えりかは、ずっと背中を軽く叩きながら、どうしたらいいか困惑している様子だ。
「大丈夫だから、あっち行って」
タンスの中から取り出したのだろう、大好きな黒猫のバスタオルで汚れた床を拭いている。
「俺がやっとくから、お風呂行ってきな。体中汚れちゃってるだろ……。えりか、ゆりを風呂場に連れて行きな」
「うん。ゆりちゃん行こ」
「いい。うちが自分で片付ける」
「いいから、綺麗にしておいで」
大量の嘔吐で苦しさもあるだろう。涙を落としながら、自分で吐いた嘔吐物を拭く。
「ゆりちゃん、お風呂行こ。うちも一緒に入るよ」
「ああ、二人で先に入っておいで」
「もぉ! うるさいなっ。いいって言ってるじゃん、いつもいつも、きもいんだよ。最近ずっとうちらのこと気にしてさ」
「……」
「毎日毎日、ゆり、えり遊ぼっって、気持ち悪いんだよ! 妹と遊ぶとか気持ち悪いの!」
「……」
「ほんと気持ち悪い! 在君なんていらなかったのに! えりかと二人だけでよかたったのに。在君がお金借りてこなくなったから、お母さんいなくなったじゃん! 何かあったら助けるって言うけどさ、なら元にもどしてよ! 馬鹿! 在君がいなくなればよかったのに!」
想像もしていなかった攻撃。
今まで我慢してきたであろう寂しさ。
兄である在過がお金を借りていることを知っていた驚き。
お金を借りることができなくなってから、親がいなくなる状況が妹からの視点からすれば、在過がお金を借りてこなくなったことが、家族が壊れた原因と認識しているようだった。
頭の中が締め付けられる感覚に襲われ、床に座り込んでいる妹達を見下ろし、早くなった心臓の鼓動が在過の行動に力を貸してしまう。
胸を何度も膨らませるほど呼吸を繰り返し、目の前の睨みつけてくる友理奈に殺意が湧く。頭の中で母親の言葉が繰り返される。
「なんでお金借りてこないの」
「生活できなくなるじゃない」
「役に立たないな。ほんと馬鹿」
「馬鹿! どうする? お金借りれないと困るんだけど。はぁ……」
「バレちゃったね。今度は給料日に沢山財布に入れている時じゃないとダメね」
嫌なことばかりを思い出す。楽しいこと、嬉しいこともあったはずだ。母親のことは嫌いではなかった。嫌いどころか、泣いてしまう母親を助けたいとすら思っていた。俺がなんとかしなけらば、いつもいつも、悲しい顔して、泣いて。
いつの日か、父親も同じ表情をするようになった。だから、母親にも父親にも必要以上に近づいた。
興味もない麻雀を教えてくれと頼んだ。その時の表情は凄く笑ってくれてカッコよかった。
怖いし嫌だけど、お金を借りに行った。借りることに成功すれば、凄い笑顔で喜んでくれた。
それなのに――。
「「邪魔、どっかいって」」
在過の存在は邪魔だった。
妹達二人を連れて外食に行くが、いつも一人家で待っていた。
妹達は怒られないのに、いつも在過だけ怒られることに苛立っていた。
わかっている。長男は強く賢くなければいけない。だから、厳しく育ててくれている。
けど――。
「馬鹿! 在君がいなくなればよかったのに!」
【この家族に俺の味方は一人もいなかった】
在過は、床に座り込んでいる友理奈の胸倉を掴んで立たせる。
「っひ」
眼球を押し出すかのように怒り、歯を食いしばるほど憎しみの表情を妹にむける。
「うぅぇぇう」
「ああぇぇあん」
二人同時に泣きはじめる妹達の姿を見ても、自分でも理解できない負の感情が溢れ出す。友理奈は、両手で在過の胸を【ドン】と突き飛ばす。その行為が、在過の行動の引き金になった。
グラっと後ろに仰け反った在過は、すぐに友理奈に近づく。
涙を流しながら、在過を睨みつけて立っている妹の横腹を、力任せに横腹を蹴りつける。鈍い感触と、倒れこんだ友理奈を見下ろす。
「カハっ。うぅぅおえぇ」
「おばあちゃん!」
えりかは叫びながら、1階にいるお祖母ちゃんを呼びに行く。
呼吸苦に襲われ、込み上げてきた吐瀉物を床に吐き出す。在過は、その光景を見て怒りから恐怖に変わる。何をしているんだ? 俺は、なんてことしたんだと怖さが膨れ上がる。
蹲って嘔吐を続ける友理奈に近づいて声を掛ける」
「ごめん! 当てるつもりなかったんだ。ごめん」
声がでないのか【カハ】【ゲホ】ともがき苦しんでいる状況が視界に焼き付けられる。
「どうしたの! ゆりちゃん!?」
部屋にお祖母ちゃんがやってくると、苦しんでいる友理奈のを抱きかかえる。
「病院に連れて行くから、おとなしく待ってなさい」
「……」
なにも言えなかった。
痙攣しているように、友理奈の体がビクッビクッと繰り返し震えている。嘔吐物で汚れている床を眺め、焼き付いた妹の苦しむ姿がリピート再生される。
怖い、怖い、怖い。どうしよう、どうしたらいいのか? 大丈夫なのか、死んじゃうのか。
いろんな不安と恐怖に押しつぶされながら、家のドアが勢いよく閉じる音に心臓がギュっと痛くなった。