第三頁 『夕影』
とある真夏の昼下がり、美術部への兼部をお願いしたついでに、絵を描くこととなった。
本格的な絵を描くのは実に約5年振りで。
僕は何を描こうか、迷っていた。
そして悩んで悩んで、悩みに悩んだ末に僕は窓から見える青空と小屋の反対側に見える校舎を描くことにした。
青々とした気持ちのいい蒼天、優しい風が木々を揺らす。
聳え立つベージュ色の校舎の壁面。
この何気ない対比が好きだから、この絵を描こうと思った。
鉛筆をキャンパスに走らせ、徐々に下書きを描いていく。
モノクロの校舎、陰影。
水性の絵の具を絵筆の先にちょこんとつけ、水で少し溶かす。
そして全面に薄く水色で背景の色を入れていく。
次に雲、白く緩やかで掴めそうで掴めなそうな淡い白色。
校舎を肌色とほかの白色を混ぜ合わせたりして、ベージュ色を再現していく。
校舎の色を塗り、細かい影や、光の入りを表すために丁寧に塗っていく。
気づけば夕暮れ、いつものことだ。
絵を描くと没頭してしまって時間を忘れてしまう。
出来上がった作品を見て、昔より少し劣ったことを現に知らされる。
絵を描いている人から見たら、この作品は駄作というかもしれない。
とても上手いとは言えない。
でも、いいんだ。
描いてて、気持ちよかったら。
俺は、満足して先生の方を向く。
「出来ましたか」
「・・・・・・はい。でも上手くはありません」
「いえいえ、ちょっと拝見しますね」
「・・・・・・」
竹内先生は俺の絵をまじまじと見る。
校舎の窓や鉄パイプの影、所々細部まで。
そして先生は一頻り、俺の絵を見たあと口を開いた。
「とても、優しい絵ですね」
「・・・・・・」
「粗さも節々に感じますが、根底にあるのは温かい人間性を感じます」
「ありがとうございます」
「いえいえ。まだまだ上手ではありませんが、私は好きですよ」
予想通りの辛口評価だ。
しかし、俺の絵を好いてくれて悪い気はしなかった。
先生はくしゃっと笑い、俺の頭を撫でた。
何年振りだろうか、人に頭を撫でられるのは。
絵を描くのよりも、久し振りに感じた。
「明日は予習はあるんですか?」
「えっ」
勿論、予習組に所属していることは承知済みだった。
抜け目がない。
「いいえ、明日は休みです」
「なら、午前7時にここに来なさい。在籍部員と顔合わせも兼ねて一緒に作品を描きましょう」
絵を描くということに気が囚われて、当初の目的を忘れていた。
在籍部員、その中に網野さんと久石君も居るはず。
まずは潜入完了って所だろう。
────脇役。
やっと主役の視界に入ることが出来る。
ここからが脇役の仕事になる。
「ありがとうございます。分かりました」
「今日はもう遅い、気をつけて帰るように」
「はい、ありがとうございました」
俺は俺の絵と古びた小屋を去った。
気分は軽く、落ち着いている。
オレンジ色に染まった絵とは違った空を眺め、駐輪場へ向かう。
意外にも、そこには佐藤さんがいた。
片耳にイヤホンをした彼女の横顔はその顔を描いてみたいくらい綺麗だと思った。
俺は彼女に近づいて不意に、片方のイヤホンをはめた。
彼女は少し驚いたような顔をして、すぐに表情を崩した。
「遅かったじゃん」
「ごめん、絵描いてた」
「楽しかった?」
「うん」
「楽しそうだった」
「見られてたんだ、恥ずかし」
「見る分、私は好きだよ。絵を描くのは苦手だけどね」
「確か美術だけ成績低いんだっけ」
「言うなよぉ」
お互い顔を見つめあって笑い合う。
それは、平和という言葉が一番似合う時間だった。
そして俺と佐藤さんは自転車を並走させて帰路に着いた。
見つかったら怒られるかな。
「こんなに長く話したの初めてじゃない?」
「あぁ・・・・・・まぁ」
「意外と面白いんだね、小詰君って」
「意外とってなんだよ」
たわいない話、だべって自転車を漕ぐ。
ダラっとした黄昏時。
草むらの匂いが風に乗って、鼻腔を擽る。
────優しい、匂い。落ち着く。
絵を描いている時のように、この空間、この瞬間を誰にも邪魔されたくなかった。