第二王妃の帰還・1
オードリー・オルコットは、アンスバッハ侯爵の屋敷に連れてこられていた。
一室を与えられ、書庫への入出許可だけが出されている。
イートン伯爵邸から連れ出された後、ザックとは別室で取り調べを受けたオードリーは、警備兵から執拗に毒の入手経路について質問を受けた。
そこでようやく、自分がバイロン殺害の片棒を担いていると思われていることに気づき、ゾッとした。
ただ不思議だと思ったのは、それを疑うならもっと別のタイミングがあっただろうということだ。
彼女の形だけの婚約者であったウィストン伯爵は、ザックを狙った輝安鉱殺害未遂事件の首謀者なのだ。毒殺未遂関与を疑われるのならば、このタイミングの方が自然だ。
それを指摘すると、警備兵はなぜかしどろもどろとなり、追及する態度も軟化していった。
そして数日後には、アンスバッハ侯爵が引き受け人となることが決まっていた。
王都の貴族街に位置する侯爵邸に連れてこられ、一室に軟禁状態。けれど待遇は悪くなく、食事もきちんと与えられている。
オードリーには何が何だか分からないままの状態だ。
オードリーは、食事のトレイを下げに来たのアンスバッハ家の執事、グランヴィルに問いかけた。
「私はいつまでここに居なければならないのですか」
「旦那様から許可が出るまでです」
「でしたらせめて、家族に居場所だけでも知らせたいのですが」
「恐れながら、オードリー様のご家族はアイザック第二王子とあまりに深いご縁があるようでして。彼の容疑が晴れていない今、まだお知らせすることは許可できません」
「私の容疑は晴れたんですよね?」
「あなたは白に近いグレーというところですね。なにせあなたには知識がある」
グランウィルの表情は読めない。オードリーに対して、そこそこ敬意を持った話し方をしてくれるが、まなざしは侮っているようにも思える
「私が持っているのは鉱物の知識です。その中に毒になる物体も含まれているというだけでしょう? 私は毒を作ろうと思ってこの学問を学んだわけではないわ。人の生活を発展させるために学問はあるんです。それを退行させるような行いはいかがかと思いますわ」
睨んで言っても、グランヴィルに堪えた様子はない。涼しい顔に微笑を浮かべて、ひやりとしたひと言を放った。
「あなたのような平民の後見をしてくださってるんです。滅多なことを言うと、ご家族がどうなるかわかりませんよ」
それでは脅しだ。仕方なく、オードリーは黙る。
大人しくなったことに気を良くしたのか、「夕飯はいつもの時間に、部屋にお運びします」と言いおいて去っていった。
残されたオードリーはため息をつく。
そもそもオードリーはこの件に全く関わっていない。
輝安鉱を掘り出していたのは、夫のかつての友人だったウィストン伯爵だ。たしかに形式上婚約者の扱いをされていたが、実際に彼と会ったのは数日しかない。
その彼がアイザック王子の殺害を狙っていたことさえ、寝耳に水だったというのに。
(……でも、そういえばなぜウィストン伯爵はザック様を狙ったのかしら)
落ち着いて考えてみれば、第二王子が失脚したところで、彼になんのメリットがあるというのだろう。
(造幣局が疑われていたから? でも造幣局への視察は議会の承認のもと行われていることだわ。ザック様だけを殺したところで、どうにもならない)
むしろ、容疑を自分に向けることになりかねない。
「分からないわね……」
頭が混乱してきたオードリーは、入出が許可されている書庫へと向かった。
本のにおいは、彼女をほっとさせる。オードリーは元来、勉強が好きな質なのだ。
(……でも、よく考えるとこの書庫も不思議なのよね)
個人の蔵書というには、数が多い。政治家というだけあって、歴史書や法律関係の本、経済の本などがあるのはいいのだが、予想外に鉱物の本、植物の本が多い。
(しかも、出した跡があるのよね)
これでも、オードリーは長らく学問に従事し、教授の助手や図書館の司書手伝いなどの仕事をこなしてきたのだ。
書庫を一見すれば、どれが読まれている本でどれが読まれていない本かは分かる。
意外に出し入れの少なさそうなのが、歴史書。本自体に少し埃がついている。棚は拭いても本そのものを拭く使用人は少ないのだ。
法律関係の本は頻繁に開かれているようで一部に手あかがついている。
そして彼の専門外だと思われる鉱物・植物関係の本の中でも。
「……毒に関することは、よく調べてあるようなのよね」
無意識につけてしまったであろう折り目。ページの端についている黒ずみは手あかだ。
気付いてはいけないことに踏み込んでいるような、嫌な予感があった。けれどオードリーは研究者気質なのだ。気になれば調べずにはいられない。
「鉛……」
読み跡のついているページをじっくりと眺める。
鉛は柔らかく、加工がしやすい。製錬も比較的容易だ。昔はおしろいなどにも含まれ日常的に使用されてきた。
だが、鉛による健康被害が報告されるようになると、鉛の使用は限定的となった。今では人が摂取するものには含まれていないはずだ。
ただ、鉛は自然の食品中にも含まれるものでもあり、取りすぎさえしなければ、排せつによって体外に放出される。だから、鉛そのものを生活からなくすことはできない。取りすぎると毒性を発揮することを理解し、むやみやたらに摂取しないことが大切だ。
(鉛中毒の症状はどんなだったかしら。頭痛、脱力、胃腸障害、……歩行障害もあったかな)
「なんでこんなページ……」
これが研究者の書庫なら気にしなかった。だが政治家の書庫だと思えば、穏やかではない。
「おや、ここにいたのか」
書庫の扉が開き、屋敷の主人であるアンスバッハ侯爵が現れる。
神経質そうな顔のいかめしい男だ。年のころは五十代。第一王妃マデリン様の兄で、昔から国政に携わっている古株だ。
「これは、侯爵様」
オードリーはとりあえず礼を取る。ふん、と彼は鼻息を荒くした。その態度には、オードリーを平民として侮っている様子がうかがえる。
(こうしてみるとケネス様やザック様って、異常なのよね)
普通を多数決で決めるなら、おそらく侯爵の態度の方が普通だ。
グラマースクール時代、オードリーは貴族の子弟も通う学校で、口では言えないような嫌がらせも、不条理な押し付けも受けてきた。オルコット姓を名乗るようになってからはそんなこともないが、彼女の学生時代は本当に息苦しいものだったのだ。
「何かおもしろいものはあったかね? 君はオルコット教授の元助手でもある。実際、文献の扱いは君の方が上だったと聞いている」
誰から?と思ったが、問いかけることはできない。
オードリーが発言を許されるのは、彼が質問を投げかけたときだけだ。
「それでだ」
侯爵がオードリーの顎を持ち上げる。思わず息を飲み、彼から目をそらした。
「君はオルコット教授が知っていた採掘場所をすべて知っているんだろう? 輝安鉱が採掘できる場所は他にどこにある?」
「輝安鉱?」
件の毒の名が出てきて、オードリーは一瞬驚く。それだけじゃない。なぜここで夫の名が出るのか。
夫は学術院の教授だった。仕事の成果は認められていたが、政治に介入はしていなかったはずだ。
現在、輝安鉱の利用は印刷のための金属板の作成に限られており、採掘業者には許可証が出されている。採掘場所は、業者には伝えられているはずだ。
「……私は存じませんわ。夫だって、助言はしたかもしれませんが、彼が主導することなんてなかったでしょうし」
「ふむ。なるほど……? 君は何も知らないということか」
侯爵は顎に手を当て、しばし考え込む。今更ながらに、オードリーは夫への不信感が沸き上がってきた。彼に政治家である侯爵と接点があるとは思わなかった。一体どういう経緯で知り合うことになったのか。
彼の専門は鉱物学だ。地質や岩石などを調べるフィールドワークにはよく行っていたから、現場の技術者の知り合いは案外と多いが、政治家とは接点がそもそもないはずなのに。
「あの……」
長すぎる沈黙が気になり、思わず声を上げると、アンスバッハ侯爵は「ああ」と思い出したようにうなずき、笑みを深めた。
「まあいい。君の容疑は晴れたわけではない。しばらくはここで待機だ。衣食住を面倒見てやってるんだ。君が文句を言う筋合いではないだろう?」
「それは……そうかもしれませんが。せめて家族に無事を知らせたいんです。娘はまだ小さいんです。母親がいつまでも不在では、きっと不安なはずです」
「……では、無事を伝える手紙を書くことだけは許そう。しかし、居場所は明かさないように。警備隊を通して君の家族に渡してもらう。それで構わないな?」
「……はい」
それ以上の譲歩は望めそうになかった。
自筆の手紙であれば、クリスは自分からのものだと分かるだろう。何もないよりは、はるかにマシだ。