新しい国へ・3
「三階から行ってみようか……」
ロザリーは三階へと上がった。普段ならば警備の近衛兵がいるはずなのだが、今は姿が見えない。かわりのように左手側の廊下に、侍女のお仕着せを来た女がひとり立っていた。外から聞こえてくる民衆の騒音におびえている様子だ。
「あの……」
「きゃっ、なに、あなた」
声をかけると侍女は体をびくつかせたが、ホッとしたようにも見えた。
「私、クロエ様を……」
「こ、交代ね? 見張りの交代、そうでしょ?」
「え、ええ?」
「任せたわよ!」
侍女は一気にまくしたてると、助かったとばかりにロザリーを置いて走っていく。
「見張りって……」
ロザリーは目の前の扉を見る。
一体誰の部屋だろう。ナサニエルやカイラの部屋とは階段を挟んで逆向きなので、ロザリーはこちら側に入ったことが無い。
扉は重厚なつくりだが、耳をしっかり当てれば物音くらいは聞こえそうだ。
それに、ここからもクロエの香りがするのが気になる。考えているうちに、「きゃっ」と女の悲鳴のような声が聞こえたので、ロザリーは怒られるのも構わず、扉を開けた。
室内は甘いにおいが充満していて、鼻が利きすぎるロザリーには強すぎた。顔をしかめてハンカチで鼻を押さえる。
どうやら男性の部屋のようだ。大きなベッドと書き物机。男性用の礼服が壁にかけられている。
その、ベッドの傍に倒れているふたりの人間の影が見えた。
「クロエさん……っ!」
「……ロザリー」
クロエの顔は涙で濡れていた。床には小瓶が転がっていて、中身がこぼれたのか床が濡れている。
ドレスの肩の部分が破れていて、ロザリーは咄嗟に彼女をかばうように前に立った。
「なにがあったんですか?」
もうひとりの人影はコンラッドだ。クロエから少し離れた位置に四つん這いになって、体を押さえている。
「早く連れていけ!」
「え?」
コンラッドは苦しそうに息を吐きだしながら、ロザリーに怒鳴りつけた。
「早くクロエ嬢を父親のもとに連れていくんだ。でないとお前を犯すぞ!」
「ええっ?」
突然物騒なことを言われ、なにがなんだか分からないが、逃げてもいいのならば異論はない。
ロザリーは言われた通りにクロエを支え、立ち上がらせる。
「クロエさん、動けますか」
「……コンラッド様」
ちらり、と伺うようにクロエがコンラッドを見る。
対するコンラッドは、苦しそうに顔を歪め、荒い息のまま、クロエを熱っぽく見つめた。
「早く行け」
「ですが」
「……君の泣き顔を見るのは、思っていたよりも全然楽しくないものだな」
ロザリーには訳が分からなかったが、その言葉はクロエの琴線に触れたらしい。
クロエの目から再び涙がこぼれそうになり、彼女は自ら頬を叩いて気を引き締めたのち、涙声で語った。
「コンラッド様。今が一番格好いいです。あなたはもっと前から、自分のことを見つめるべきだったんです。悪い方ではない。いかようにも、自分で変われたでしょう」
「生きていられたなら、善処しよう」
コンラッドの呼吸がさっきよりもずっと荒くなり、額には汗が浮かんできた。
話すのも面倒くさくなってきたのか、早く行け、というように手ぶりで示す。
息を詰めて見守っていたロザリーは、クロエが頷いたのを見て会話の終わりを悟った。
「クロエさん、動けますか?」
「大丈夫。ちょっと膝ががくがくするけど。平気よ」
気丈に言ってはいるものの、無理はしているのだろうとロザリーは思った。けれど、ロザリーの力でクロエを抱えることはできない。近衛兵団宿舎までは頑張ってもらわなければ。
「なにがあったんです」
「媚薬を飲まされかけたの」
「ええっ?」
ロザリーは心配でクロエに縋り付いた。
ドレスが破れ、露出しているのは肩の一部分だけだが、どこまでされたのかは分からない。
心配で見つめるものの、ロザリーは適切な言葉を見つけられなかった。
クロエは安心させるように、口もとを緩ませる。
「……大丈夫よ。結局やめてくれたし、コンラッド様も吐き出したから、摂取したのはほんの少量だわ」
「でも、怖かったでしょう? 例え襲われなかったとしても、されかけただけで十分恐ろしかったはずです」
クロエは強がるのが上手だから、知らないうちに傷ついているのではないかと心配になる。ぎゅうと彼女を抱きしめれば、クロエは体を震わせ始めた。
「ロザリー」
潤んだ声が心配で、もっと力を籠める。するとクロエはクスリと笑い出した。
「クロエさん」
「大丈夫よ。ロザリーは敵じゃないって思ったら安心しただけ。私……」
そのとき、階下から階段を上る音が響いた。
アンスバッハ侯爵の姿を遠目に見つけ、クロエは咄嗟にコンラッドの部屋の隣にロザリーを引っ張り込んだ。
「クロエさ……」
「しっ。侯爵に見つかったら大変だわ」
ふたり、息を詰めて扉の外の気配を窺う。
荒々しい足取りで廊下を駆け抜けていった侯爵は、「コンラッド!」と激しい叱責の声を上げた。
「おまえ、なにをしている。暴動が起きているのが分からないのか? クロエ嬢はどうしたのだ?」
「彼女は別室に閉じ込めてあります。ご心配なく。……ちょっと、体調が悪くて」
聞こえてくる声は、コンラッドのものだ。
どうやら、コンラッドはクロエを侯爵に引き渡す気はないようだ。
媚薬の効果で体調は悪そうだが、ロザリーにはそもそも媚薬で体がどうなってしまうのか分からない。
「アイザック兄上は生きていたんですか?」
「ああ、予想外だがな。だが、現時点でアイザック王子はすでに臣籍降下している。立場はお前の方が上だ。速やかに彼らに兵を引かせるんだ。反抗すれば、反逆罪で捕らえればいい」
侯爵はそう言うと、コンラッドを引っ張っていった。
廊下を通り過ぎ、声がどんどん下の方に行ったところで、ロザリーとクロエは息を吐きだした。
「……行ったわね」
「そうみたいですね」
「あなたが来たってことは、カイラ様は無事なのね? ナサニエル陛下は?」
「陛下も無事です。ザック様も、ケネス様も無事でした。といっても今、暴動を起こしているところなんですけど。私達は近衛兵団の宿舎に隠れるようにと。カイラ様もそこにいらっしゃいます」
「なんですって? じゃあ近くにお兄様がいるの?」
急にクロエが元気を取り戻す。
「外です。今門前で開門を迫っていて……」
言いかけたところで階下から騒がしい物音がする。
「突破したみたいですね。城内になだれ込んできたのかも」
「今出ていったら見つかるわね。……コンラッド様や侯爵が下りて行ったから、この階までは誰も来ないわ。しばらくここから状況を見守りましょう」
クロエの提案に従って、ふたりは三階ホールの手すりに隠れつつ、階下をうかがった。




