道化の王子・2
アンスバッハ侯爵の屋敷を抜け出したレイモンドとオードリーは、平民街に入った。
現在、レイモンドは普段の服装に目深に帽子をかぶっただけだが、オードリーの方は、完全に男装している。
書庫でのやり取りで、オードリーが毒を作ることを強制されたと伝えてきたとき、レイモンドはここを脱出することを決めた。
レイモンドとオードリーは、自分で調べられるだけの屋敷の間取りや使用人の動きを報告しあい、脱出計画を立てた。毒を渡してからは、オードリーへの警戒も甘くなり、直接話をすることもできた。
そうして、レイモンドはオードリーへ自身の服を渡して男装させ、使いを頼まれたふりをして屋敷を抜け出したのだ。
「このあたりから平民街よ」
ふたりは、とりあえず平民街まで逃げてきた。一番いいのはイートン伯爵家に保護を申し出ることだが、伯爵が帰っていない時間では警戒されるだけだと判断したのだ。
「さらに変装したほうがいいかもしれないな」
レイモンドは市場の方へと向かう。後ろをついていくオードリーは、街に漂う空気に違和感を覚えていた。
「レイモンド、なんか……変じゃない?」
「変って?」
「なんか妙に静かってっていうか」
以前、オードリーが平民街の市場を訪れたとき、皆イライラした空気を醸し出していた。
それは政治不信が原因だった気がするし、小さな暴動も起こっていたように思う。議会は先日、平民へのさらなる増税を行った。にもかかわらず、今回は、そういったものが感じられない。
だが、覇気がないかと言われればそうでもなく、緊張感のようなものは漂っているし、人々の表情は引き締まっていて、なにか決意を宿しているようだ。
「皆、聞け!」
壮年の男が、広場で大きな声を上げた。
「始まった!」と言って、横をすり抜けていくのは薄汚れた格好の若者だ。
「政府は我々に、さらなる圧力を加えてきた。このままでは、我々は国につぶされてしまう。今こそ、立ち上がるべき時だ!」
「おう!」
中央の男の声に、多くの若者が賛同していく。それらの声につられるように、ひとり、またひとりと広場に集まっていった。
オードリーは思わずレイモンドにしがみつく、なにか大きなことが始まる気配だ。熱気が肌の上を通り過ぎていく気がして、鳥肌が立った。
「暴動だな」
レイモンドはオードリーの肩をギュッと抱き寄せた。
いっそ、この人波に紛れてしまうという手もある。そうすれば少なくとも、アンスバッハ侯爵家の追っ手には見つからないだろう。
「どうするか……」
悩んでいるうちに、聞き覚えのある名前が耳に届く。
「我らが主と掲げるのは、アイザック王子殿下だ。王子は生きている! 俺はこの目で見た。王子は、平民を交えた議会を作ろうと我らにおっしゃってくれたのだ」
中心の男から湧き出る熱気が、集まった人々へと伝播していく。
「聞いた? 今アイザック様って……」
「ああ。下手に隠れるよりはこの群衆に紛れたほうがよさそうだ。いいか? オードリー」
「ええ」
頷きあい、ふたりは広場へと向かう人々に続いた。
*
クロエは、腕に痕が残るのではないかと思うくらい強く腕を引かれ、コンラッドの部屋に連れ込まれた。
侯爵の前ではクロエをかばおうとしていたコンラッドだが、クロエが頑なに彼を受け入れない姿勢を続けると、やがてクロエに対して怒りをあらわにした。学園でも時たま見かけた、子供じみた癇癪だ。
「なぜだ、あんなに良くしてやったろう。どうしてそんな嘘をつく」
「嘘だと思うのなら、あなたは私を愛してはいないのでしょう。私の言うことが、信じられないのですから」
クロエの反論にムッとするコンラッド。奥歯をギリギリと噛みしめていて、爆発寸前なのが見て取れた。
先ほど侯爵から叩かれた頬の痛みもひいてはいないが、もう一発くらいは覚悟しなければならないかもしれないと、クロエは考える。
「信じてはならないことだからだ。嘘でなければおかしいだろう? 俺が誰の子だというのだ」
「それは……マデリン様にお聞きになってください」
――ダンッ。
壁を叩く固い音に、クロエは一瞬、体を震わす。コンラッドの目は、血走っていた。
「知っていることを言えと言ってるんだ!」
クロエは、彼から目をそらさずに、ゆっくり込みあがった唾を飲みこんだ。
いくらコンラッドの武芸の評判が悪くとも、男の力にクロエが敵うわけはない。恐ろしくないと言えば嘘になるし、心臓は恐怖で早鐘を打っている。
けれどもクロエは絶対に怯まない。震えてしまう体に鞭打って、決して折れない心を鋭いまなざしで表す。
「……コンラッド様が生まれた当時、すでにナサニエル陛下とマデリン様の仲は冷え切っていたと伺っております。父は、マデリン様のご懐妊を不思議に思ったそうです。ですが、当時はカイラ様が離宮にお下がりになられていた時期でしたし、なにより陛下が否定しませんでした。ですから誰も異を唱えることはなかったのでしょう。けれど私は、ナサニエル陛下のお人柄を知ってから、あの一途な方がと疑問がわくようになりました。そんな時に、マデリン様の仕立て師を見かけたのです」
「……仕立て師?」
「お会いになったことはありませんか? 名前はアーロ様。マデリン様のドレスをもう二十年近く手掛けていると聞いています。あなたによく似た栗色の髪と、青の瞳をお持ちです」
王家の男系は、特徴的な緑の瞳を持っている。疑惑を抱いてから、クロエは歴代王の肖像画がある部屋に入って確認したが、みな、緑色の瞳の持ち主ばかりだった。
ナサニエル陛下も、第一王子であるバイロンも、アイザックもそうだ。
コンラッドだけが青の瞳だが、青い目は珍しいものではないし、栗色の髪はマデリンにそっくりだ。だから、単に母似なのだと周囲は思っていたのだろうし、王位に関わることはないだろうと目されていた第三王子の容姿など、そこまで気にしていなかったに違いない。




