道化の王子・1
クロエが紅茶を嚥下したのを、アンスバッハ侯爵もコンラッドもしっかりと見ていた。彼女はカップをゆっくりとティソーサーに戻し、終わりを受け入れるべく目を閉じた。しかし、一向に体調に変化はやってこない。
「なぜ、……死なない?」
侯爵にそう問われ、クロエはこちらが聞きたいくらいだ、と思った。
王家の血を引かないコンラッドに嫁いで、簒奪者の身内に入るよりは、このまま死んでしまった方がイートン伯爵家のためになる。
その覚悟を持って、クロエは紅茶を飲みほしたのだ。毒が入ってなかったなど、こちらの方が拍子抜けだ。
「伯父上。脅しだったのですね?」
コンラッドだけが、あからさまにホッとしたように言い、クロエのもとへそっと駆け寄る。
「クロエ嬢。私を選ぶんだ。伯父上は二度は許してくれない」
「コンラッド」
これまでとは打って変わった威圧的な声で、アンスバッハ侯爵がコンラッドを押しのける。対峙したクロエの顎を掴み、強引に上げさせた。
「いたっ」
「お前は、なにを知っている」
「……侯爵がご存知ないとは思っていませんでしたわ」
カッとなった侯爵はクロエの頬を強く叩く。反動で床にしゃがみこんだクロエに、コンラッドが駆け寄った。けれど、「触らないで!」と強く拒否反応を示したのはクロエだ。
「コンラッド、彼女を閉じ込めておけ。絶対に出すな。イートン伯爵から問い合わせがあったら、急病で預かっていると伝えておけ」
命令口調にコンラッドは不審に思う。
先ほどまで、伯父は王として自分を立てると言っていた。へりくだった態度で、なにをするにも命令ではなく意向を窺っていたはずだ。
「伯父上?」
「最後の最後で身内にたばかられたとでもいうのか……! マデリンに会ってくる」
怒りに満ちた形相で、彼は部屋を出ていく。コンラッドはわけが分からないまま、呆然と見送っていた。
*
アンスバッハ侯爵は、動転していた。
自分の計画のどこに破綻があったのか、長い廊下を歩きながら考える。
全ては、傀儡の王を手に入れるためだ。ナサニエルをバイロンを、自らの操り人形としようとして失敗し、殺害した。そして最後の砦としてのコンラッドを王に立てる。それで終わりのはずだった。なのに、コンラッドが王家の血を継ぐものではなかったと?
あまりに強く唇を噛みしめていたら、血の味が口の中に広がった。
右手で唇を拭い、気を落ち着けるために深呼吸をする。
例え現実がそうでも、コンラッドはナサニエルに認知された第三王子だ。バレさえしなければ問題はない。
ナサニエルはもういないのだ。クロエ嬢の口さえ塞げば、今更、出生を疑問視されることはないだろう。
だがもし、クロエがイートン伯爵にそれを伝えていたとしたら?
娘大事の伯爵のことだ。クロエを救出するためにこの情報をどうにでも利用するだろう。
改めて見てみれば、たしかにコンラッドには他のふたりの王子にはあった気質が欠けている。容姿もマデリンに偏って似ている。
一度疑問を植え付けられれば、人心の中でその疑問は勝手に育つだろう。あろうことかコンラッド自身がそれだけの肥やしを持っている。
胸の奥がちりちりと焼け付くように、侯爵の中で焦りに似たなにかが暴れている。
侯爵は荒々しく妹の部屋の扉を開け、じろりと睨んだ。
「マデリン、人払いをしろ」
「あら、お兄様。コンラッドとのお話は終わったのですか?」
「いいから、早く!」
急き立てられ、マデリンは眉を顰めたまま、侍女たちに退出を促す。
「コンラッドは誰の子だ」
マデリンはピクリと眉を動かした。けれども、平然とした顔で続ける。
「陛下との子ですわ。決まっているでしょう」
「本当だな。ではそれをつき通せ」
「誰が、そのような嘘を?」
「クロエだ」
マデリンは小さく眉を顰める。
「……おかしなことを言うのね。器量はよろしい娘ですけれど、コンラッドにはふさわしく無いかもしれませんわ。不敬罪で罰してしまいましょうか」
「噂が立つと、足を掬われるのはこちらの方だ。言われてからコンラッドを見れば、ナサニエルとの共通点の無さに気づく。それに、コンラッド自身がクロエを手放したがらない」
「そうですか」
マデリンは少し考え込み、「では、私がなんとかしましょう」という。侯爵が片眉を上げて彼女を見つめると、自信満面で頷き返す。
「反抗的な態度を取れないように、しっかり調教して差し上げます。コンラッドの妻として、恥ずかしくないようにね」
妹の目に、カイラ妃が現れたときと同じ光が宿るのを、侯爵は見た。あのときも、女の嫉妬は怖いものだと思ったものだ。マデリンはまだ、これほどの怒りを身の内に宿らせていたのか。
「女のことは女に任せてくださいませ」
*
一方、侯爵邸ではグランウィルが青くなって走り回っていた。
侯爵から早馬による連絡が来たのは三十分前のこと。
毒と言って渡された小瓶に入っていたものが毒ではなかったこと。帰宅してからオードリーを問い詰めるつもりだという内容で、グランウィルには彼女を客間から地下の部屋に移しておけ、という指示が書かれていた。
忠実なしもべであるグランウィルは、すぐさまオードリーの部屋に行った。しかしそこには姿が見えず、書庫へ行っても見当たらない。
彼女に許されている行動範囲はそれくらいだ。不審に思って門番に聞いても外には出ていない。
であれば屋敷内のどこかにいるのに、全然見当たらないのだ。
足早に屋敷内を歩いていると、一階の厨房前で料理人たちが集まっていた。
「あ、グランウィル様」
「なんだ?」
「買い出しに出た料理人が、ひとり戻らないのですが」
もうじき食事の支度なのに……と困ったように言われ、嫌な汗がグランウィルの頬を伝う。
「誰だ」
「新入りのレイです」
味付けがとても上手で、奥様は最近この料理人の出す料理がお気に入りだ。だから最近は主人夫婦の料理はほとんど任せていた。
「……奥様のお食事に間に合わないとまずい。別のシェフに任せろ。それと、レイの顔をよく知っている男をひとり寄こしてくれ。こちらの捜索に加わってもらおう」
いやな予感がした。
オードリーとレイに、接点はなかったはずだ。けれど、同時にいなくなっているという点で、なにか作為的なものを感じる。
グランウィルはアンスバッハ侯爵に事実をそのまま書いた手紙を届けるよう指示をし、屋敷のものにオードリーとレイを捜索させる手配を整えた。




