脱走・4
(……いいにおいがする)
ロザリーは鼻をふんふん、と動かす。そこはアイビーヒルの切り株亭だ。懐かしい光景に、しっぽが揺れる。そこでロザリーは、今の自分がリルであることに気づいた。
(夢かぁ)
久しぶりのリルの夢だ。最近殺伐とした出来事が多かったので、妙にホッとしてしまう。
「リル、散歩に行くか?」
夕方にやってくるのは小さなレイモンド。彼に手綱を引かれて、リルはアイビーヒルの街の中を歩く。
イートン伯爵の作った街は、全体でひとつの家族のような温かみにあふれている。平民が困らないよう、土地の区画整備や水道設備が整えられていて、観光資源である温泉を生かして開発された街は活気にあふれている。
「ただいま、レイモンド。今日もリルとお散歩?」
乗合馬車から降りてくるのはまだ幼さの残るオードリー。嬉しさから小走りになるレイモンドのわずかな動揺が、手綱を通して伝わってくる。
(平和で、のどかな、優しい世界。ずっとここにいたいな)
アイビーヒルは平和な街だ。善良な領主さまに守られ、肥沃な大地があり、働けば働くだけ結果が返ってくる。心も体も休める、優しい温泉地。
『王都に戻らなければならなくなった』
いつかの声がこだまする。王都なんていかなくてもいいのに。ここは平和で、なにも心配する必要なんてない。
リルはそう思う。だけど何かが胸に引っかかる。目に見える場所はすべて平和で、憂うことなど何もないはずなのに。
(でも、あの人には見えている)
異国の血が混じった王子様。彼はこの国が、アイビーヒルの住人が信じ込んでいるほど平和ではないことを知っている。
(行ってしまうの。行かないで)
いつの間にか周囲からレイモンドやオードリーは消え、ロザリーも犬の姿から常のロザリーの姿になっていた。
「ロザリー」
呼ばれて振り向くと、そこにザックがいる。
「ザック様」
『君が安心して暮らせる国にしたいと思っているだけだ。でなければ、……逃げ続けている』
いつだったか、彼がロザリーにくれた言葉だ。それに対して、ロザリーは答えたのだ。『ザック様は私がいなくても国を見捨てたりしません』と。
(ザック様は見捨てない。きっと見捨てられない。この国を、陛下を、カイラ様を)
だから彼を助けたいと思ったのだ。できる限りの力で。
「ザック様は何を望みますか?」
ザックは微笑んでいた。大切なものを守る力。みんなが笑っていられる世界。
「ロザリー、君と笑いあえる世界を。誰かが悲しんでいたら、君は悲しむから。だから平和な世界が欲しい」
「では、私も手伝います」
どこかで泣いている人がいる。それを知ってしまったら、平和なアイビーヒルにいても完全に幸せにはなれなくなった。全てを守る力のある人が、立ち上がろうと努力しているのだ。出来るならば支えなくてどうするというのだ。
次に気が付いたとき、ロザリーは土の上にいた。急な角度の斜面にいるようで、平衡感覚がおかしく感じられる。
「……いた……」
体を起こそうとすると、肩のあたりに痛みが走る。どうやら打撲したようだが、動かせないわけではない。
「カイラ様?」
少し離れたところに同じように倒れているカイラを見つけ、ロザリーは四つん這いになったまま近づいた。
「カイラ様、大丈夫ですか、しっかりしてください」
「ん……」
痛みに顔を歪めてはいるが、出血したような様子はない。
ロザリーはあたりを見渡した。どうやら襲撃を受けたのは坂道を駆けあがっているところでだったらしい。
道はもっと上にあったようで、見上げた部分の細い木々が薙ぎ倒されている。
下を見れば、馬車がもっと下まで落ちているが、運よく途中で扉が開いて、ロザリーとカイラは外に投げ出されたようだ。
「落ちるのとどっちが良かったかは分からないけど……」
とにかく命があって、大きな怪我をしていないのは幸運だった。
「ロザリーさん?」
「気づかれましたか? カイラ様。お体は? 痛いところはありませんか?」
「痛くは……きゃっ」
「傾斜がきついので、うっかりすると転げ落ちてしまいますよ」
「ロザリーさんこそ大丈夫なの?」
カイラはゆっくりと上半身を起こしロザリーの腕にもたれかかった。
「陛下は大丈夫かしら」
「腕に自信はありそうでした。信じましょう、カイラ様」
今聞こえるのは、森の獣や鳥の声だけだ。戦いの喧騒のようなものはない。
ロザリーは鼻を動かし考える。今いるのは斜面の途中だ。上がる方がいいのか下がる方がいいのか、まずは方向を決めなければならない。
(川をたどれってナサニエル様は言ったよね)
水のにおいは下からする。おそらく、谷あいに川が流れているのだ。
道に戻ればあとを追ってくる陛下たちが見つけてくれる可能性もある。代わりに、追っ手に捕まる可能性もまたあるのだ。
(どうしよう。どっちがいい?)
ナサニエルがロザリーに目的地を告げたのはこうして離れたときのためだ。
「……カイラ様、歩けますか?」
「ええ、たぶん」
「川沿いを歩きます。まずはここから下に下りましょう。歩きにくいと思いますが、お尻を地面につけたような姿勢のまま、動いてください」
貴族のご婦人が聞いたら卒倒しそうな指示だったが、カイラは元が平民なので、服が汚れることへの嫌悪感はあまりないようだ。素直にロザリーに従い、移動を始めた。
こういうときはリルの記憶があるのがありがたい。野生の勘というか、山の傾斜を見てどちらの方が歩きやすいという判断が自然とできる。
「……私は、やっぱり陛下の妻としては失格なのかしら」
ぽつり、とカイラが言う。ロザリーは驚いて動きを止めた。カイラの胸は呼吸の荒さと比例して激しく上下している。表情を見ればとても疲弊していた。
「簡単に騙されて、陛下にまで危険な目に合わせるなんて」
「でも、着いて来ると言ったのは陛下ですよ。本当に危険ならば、おそらく行くなと止めたはずです」
一緒に来たことにも、何らかの意味があるように思えるのだ、と言うとカイラはそうかしら、と苦笑する。
「そうですよ。陛下に止められたら、カイラ様は無理を押してはまでは来ないでしょう? それも分かっていらっしゃると思うんです。今回は、一緒に来ることに意味があったんじゃないかと。ただ、陛下はお考えを言葉にはしてくださらないので、推測でしかありませんけど」
だけどそれは、多くの人を巻き込まないようにと考えた彼の判断だろう。知っていれば、なにかがあったときに裁かれる。
ナサニエル王が多くをひとりで抱えようとするのは、出来るだけ多くの人間を守ろうとしているからだ。
「その陛下が、カイラ様に傍にいて欲しいと望んだのは、よっぽどのことだと思うんですよ」
「そうかしら」
「そうです。だから笑っていましょうよ、カイラ様。役に立つとか立たないとかじゃなくて、陛下はカイラ様がいないと困るんだと思います。ただそれだけですよ」
「では頑張らなければならないわね……?」
腑に落ちないような表情で、それでもカイラは前を向いた。
折れた木や滑る草。いろいろな障害に苦労しながらも、ふたりは川の流れが見えるところまで降りてきた。
「ここからさらに北へ向かうんですよね」
とはいえ、北がどっちかなんてわからない。
ロザリーが困り果てていると、「こっちよ」とカイラが促す。
「どうしてわかるんですか?」
「モーリア国は北の方が高地になっているから、川はおおむね北から南に流れているの。太陽が今の時間なら中天にあるでしょう。今の季節は西側に傾くはずだから……」
さらりと説明するカイラに驚いて見つめると、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。
「私の死んだ父は貿易商だったの。星や太陽で方向を測るのは基本的なことだそうよ」
「では、歩きましょう」
川の近くは、これまでよりずっと滑りやすい。何度か転んでは泥だらけになってしまう。
「……ふふ」
「はあ、はぁ……どうしました?」
ロザリーもカイラも息が荒い。
「今の私たちが、王妃とその毒見係だなんて……誰も思わないわね」
「そうでしょうね」
なにせ泥だらけで馬車から転げ落ちたときに引っかけたのかドレスも破れている部分がある。
「……でも誰が認めなくても、陛下が待っていてくれるなら、絶対に生きて戻らなければ」
「ですよね。頑張って歩きましょう!」
励まし合いながら、足を前に向かわせる。
夜までに開けたところに出なければ、困る。ふたりには火をおこす手段も、獣と戦う力もないのだ。
ロザリーは不安になりながら広がる木々を見つめた。




